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第二十三話 あの日の二人(1)

 日下部くんと初めて話をしたのは、中学三年生のときだった。

 そのころは、連日のように家に来る借金の取り立てと、怠惰で暴力的な父親の存在に辟易としていて、学校が私にとって安寧の場となっていた。

 部活動や委員会にも入っていないのに、家に帰りたくないという理由だけで、校内でできる限り時間を潰す。その当時のお気に入りの場所は、静かで、生徒があまりいない図書室だった。

 並べられた長机の隅、机に突っ伏して、グラウンドから聞こえてくる野球部やサッカー部の活気のいい声を聞きながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。

 そんなある日のことだった。机に顔を伏せる私の近くに何かが置かれるのを感じて顔を上げる。視界に、来たときにはなかった一冊の本が置いてあるのが目に入った。

「せっかくここにいるなら、何か読んで時間過ごせば」

 冷静な声が降ってくる。それを辿って視線を上げれば、これまた冷静な目で私を見るその人と目が合った。胸元には『日下部梓』と書かれた名札がついている。当時、図書委員会に所属していた日下部くんは、図書室に来てはいつも寝て過ごす私が目について仕方がなかったと、ずいぶん後になって教えてくれた。そんなことも知らなかった日下部くんと初対面のころの私は、本なんて読む気にもならないけどと、だるい気持ちで彼の言葉を黙って聞いていた。

「それ、結構面白いから」

 彼が指差した文庫本の表紙を見る。聞いたことのないタイトルが書かれていて、「そうなんだ」と気のない返事をする。

「じゃあ、それだけだから」

「え」

「なに?」

「いや、別に……」

 さっさと貸出カウンターのほうへと戻っていってしまった彼の背中を見る。

(それだけって……本当にそれだけだったってこと?)

 私への興味を失ったように……というか、最初から興味なんてなかったかのように、貸出カウンターの中、パイプ椅子に座った彼は本を開いて、それから一度も私のほうを見ることはなかった。

 そんな彼が薦めてくれた本は、一体どんな内容なのだろう。置いていってくれた本を手繰り寄せて、ぱらりとページを開いた。

 小説なんて読むのは何年ぶりだろうか。ぽつぽつと、ページいっぱいに書き込まれた活字を一文字ずつ目で追っていく。

 いつの間にか私は、ただただ過ぎて欲しいと思っていた時間を忘れて、物語の世界へのめり込んでいた。それが、日下部くんとの出会いだった。


 その日、本はそのまま返すタイミングを見失ってしまって、家まで持ち帰ってしまった。実際には、叙述トリックの巧みなストーリーに心奪われていて続きが気になって仕方がない。それなのに、それならせっかくだし最後まで読み終わりたいなんて言い訳じみたことを考えながら、寝る時間も忘れて一気に物語の最後まで駆け抜け、次の日の放課後、私は図書室へと走った。

 図書委員の当番が一瞬間ごとで交代することを知っていたから、今日も彼はいるはずだ。

 図書室に入る前に、走って乱れた呼吸を整えてから扉を開ける。カウンターには誰もいない。それなら、と背の高い本棚がいくつも並んでいる奥へと足を向ける。

 本棚と本棚の間を覗き込みながら、日下部くんの姿を探し進んでいく。その一区画、奥にある本棚の前で、返却された本を丁寧に直している背中を見つけた。

「これっ」

 名札を見ていたから名前は知っているけれど、いきなり名前を呼ぶのは気が引ける。考えすぎた結果、本題から入ろうとした声は裏返って、余計に恥ずかしいことになってしまった。

 私の勢いがつきすぎた声に振り返った日下部くんは、私のことをちゃんと覚えてくれていたようで「ああ」と声を上げた。

私は軽く咳払いをして、話を仕切り直す。

「これ、とても面白かった」

 本を彼に差し出す。私の顔と本を一度交互に見た日下部くんは、「もう読み終わったんだ」と驚いたように言う。

「面白くて、昨日一気に読んじゃった」

「そう。気に入ってもらえたならよかった」


日下部くんはどこかホッとしたような雰囲気で、優しく口元を緩ませた。


 日下部くんとはそれから、図書室以外でも廊下で会えば一言二言会話をするようになった。彼が私と同じ中学三年生だと認識したのはそのころで、隣のクラスから出てきた日下部くんを見て驚いた。近い場所にいるのに全く気付いていなかった自分に笑ってしまったのを覚えている。

 夏休みに入る少し前、図書室で放課後の時間を過ごしていると、日下部くんから映画を観に行かないかと誘われた。それは、日下部くんが貸してくれた本を実写映画化したものだった。行くと躊躇わずに頷いた。そのころ、私は日下部くんに惹かれ始めていた。

約束の前日。父親に奪われないようにタンスの奥のほうに隠していたお金を財布へと入れる。良い洋服を持っているわけではなかったけれど、その中でも少しでも見栄えがよくお気に入りの服を選んでハンガーで鴨居に吊るす。つい口元が緩んでしまう自分に気付いて頬が熱くなる。明日が来るのがこんなにも楽しみだと思ったのは初めてだった。明日は映画を見て、それからちょっとお洒落なカフェに勇気を持って入って、映画の感想を語り合おう。そう思っていたのに……。

「ごめんなさい」

 待ち合わせ場所で出会って早々、頭を下げる私を見て、日下部くんは本当はどう思っていただろう。

「お金なくて、映画観れないです」

 朝起きたら、父親が私のカバンの中を漁っていた。そのお金だけはダメだと必死に伝えて縋りついたけれど、投げ倒されて結局そのまま奪われてしまった。

 私の予定を知っていた母親が父親を止めに入ってくれたけれど、それは父を余計に怒らせるだけだった。

 一生懸命に選んだお気に入りの服も、「男と会うのか?」「色気づいてる暇があるなら、金でも稼いでこい」と言われてビリビリに裂かれて、とても着られる状態ではなくなってしまった。

 こんな状態で日下部くんに会うことが申し訳なかった。携帯の番号やメールアドレスを知っていたら待ち合わせの前に断ることもできたけれど、私たちはまだ連絡先を交換していなくて、待ち合わせのタイミングで伝えることしかできなかった。


 日下部くんの目を見るのが怖くて頭が上げられない。でもずっと下を向いていたら、我慢していた涙が零れ落ちてしまいそうだ。

「なんだ……そんなこと」

「そんなことって……せっかく、映画に誘ってくれたのに」

 落ち着いた声で言われたそれが予想外で、なかなか上げられなかったはずの頭が無意識にパッと上がる。目が合った日下部くんは「そんなことだよ」と、視線を私から少し外す。

「俺は……羽柴と出かけられるなら、どこでも良かったから」

 映画は口実だったんだ、と最後は消え入ってしまいそうな声で続けた。

「えっと……それって、どういう意味?」

「どういう意味って、そんなの……」

 日下部くんの顔がみるみると赤くなる。耳まで赤くした彼は、幾度か目を泳がせると、最後は意を決したように私を真っ直ぐに見つめた。前髪で隠れてしまいそうな黒い瞳の中に、情けない顔をした私が映っている。

「そんなの、羽柴が好きだからだよ」

 心臓が壊れてしまうかと思った。早鐘を打つ心臓が苦しくて、肩から斜めに掛けたショルダーバッグの紐を握る手に力が入る。

顔から指先まで全部が熱く感じるのは夏のせいなんかじゃなくて、全部、日下部くんのせいだ。

「……私も」

 日下部くんの瞳があまりにも眩しく見えて、私にはとても見つめ返すことなんてできなくて、ただそう返すだけで精一杯だった。


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