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第二十二話 優しさ

 昨晩、桜井さんと別れた後、二十二時ごろには家に着くことができた。けれど、どうしても日下部くんと顔を合わせたときにいつも通りの顔ができる自信がなくて、「帰りが遅くなる」とお辞儀をする兎のスタンプと一緒にメッセージを送った。


 桜井さんとのスキャンダルが流れるだけなら別に良かった。否定をすれば済むだけの話だし、一時的にその噂話は世間で過熱するかもしれないけれど、すぐにほとぼりも冷めて忘れ去られるだろうから。


「ちゃんと覚えていてくださいね」と微笑む桜井さんを思い出す。私の恋人に、彼は本気で立候補すると言った。


(まいったなぁ……)


 映画監督として、仕事に真摯に向き合う姿は尊敬するしかっこいいと思う。知り合ってから決して長い時間を一緒に過ごしてはいないけれど、人として素敵な人だということも分かっている。けれど、今まで桜井さんのことをそういう目で見たことは一度もなかった。だからなのか、ひどく動揺してしまっている自分がいる。桜井さんに恋心はないのだから、変な期待を持たせてはいけないことも頭では理解しているのだけれど、傷つけることもしたくない。できるならば、良き友人としてこれからも付き合っていきたいと思っている。しかしこれは虫が良すぎる考え方だろうか。まともな恋愛を長いことしていないから、どう対応するのが正解か分からない。


 日下部くんのマンション近くにある公園で、あれこれと考えているうちに随分と時間が経ってしまった。そろそろ帰ろう。日下部くんはもう眠ってしまっただろうか。「おやすみ」だけでも伝えたかったけれど、やっぱり今夜は顔を見ないほうが良い。


 明日流れる記事を知ったら、日下部くんはどう思うだろう。きっと、「俺には関係ない」って涼しい顔をして言うのだろうな。私たちはもう、そういう関係なのだから。




 家に帰ったときには、やっぱり日下部くんはもう眠りについていたようで、部屋の中はとても静かだった。


 あまり眠れないまま朝を迎え、日下部くんが起きる前に家を出て事務所へと向かう。


 事務所にはすでに荒木さんが出社してきていて、私と同じようにあまり眠れていないような目をしていた。


「ごめんね、迷惑かけて」


「全然。こういうのだって、祈里ちゃんが人気者になった証拠でしょ」


 周囲への影響を考えて絶対に不安や悩みがあるはずなのに、荒木さんは優しく笑って私の頭を撫でてくれる。その手の優しい温もりに、そんな優しい人を困らせてしまっていることへの申し訳が募って泣きそうになる。


 午前九時を過ぎたころからSNS上には週刊誌を読んだファンたちの反応が上がってくるようになった。朝の情報番組や昼のワイドショーでも取り上げられる。その間、荒木さんは私を起用してくれているいくつかの企業と電話で話をしているようだった。


「今回のスキャンダルで、大きなマイナスイメージはないみたい。企業の人たちも相手が桜井さんってことや祈里ちゃんのキャラクターイメージから、むしろプラスになるだろうって」


 とりあえず一安心だね、と荒木さんはふわりと眉を下げて笑う。ドキドキしたよ、とホッと息を吐くと同時に、私の向かいにあるソファーに深く腰をかけて荒木さんは天井を仰いだ。それから一息吐くと、姿勢を正して私へと向き直る。


「じゃあ、次はうちの話。一応、ファンに向けて、一言コメントを出そうと思うんだけど、実際のところはどうなの? 桜井さんとは」


「付き合ってないよ。ただ、桜井さんと昨日食事をしたとき、スキャンダルが出るって話をしたら、好きだって告白された」


「そうだったんだ。まぁ……祈里ちゃんに一目惚れだったみたいだしね」


「荒木さん、知ってたの?」


「本人から聞いたわけじゃないよ、もちろん。初めて会った日の、桜井さんの態度見てたら理解できるっていうか。……俺も似たような感じだったし」


「え? 最後、聞こえなかった」


「ううん、何でもないよ。っていうか、祈里ちゃんって割りと鈍感だよね」


 からかうように荒木さんがころころと笑って続けた。


「それで、祈里ちゃんはどうなの? うちは恋愛自由だから、桜井さんのことが好きなら付き合っても良いんだよ」


 優しい声色で私を諭すように言う荒木さんに、私は首を横に振って応える。


「桜井さんのことはそういう目では見ていないから。機会を見て、ちゃんと断ろうと思ってる」


「そうなの?」


「うん。これからも良い友人ではいたいと思ってるよ。演技や撮影の話をするのは、とても楽しいから」


「そうなんだ」


 そっかー、と荒木さんは顎に手をやる。私の返答をもって、しばらく考え込むように黙ったあと、「それじゃあさ」と荒木さんは会話を再開させた。


「日下部さんとは、どうなの?」


 自分の喉が詰まるのを感じる。ぐっと小さく変な音が鳴った。まさか、日下部くんについて訊かれるとは思っていなくて、自分の瞳が揺れるのが分かる。


「どうって……?」


「付き合ってないのは知ってるけど、日下部さんとは今後、発展しそうな感じだったりするのかな?って」


昔からの知り合いなんだよね? と言いながら、荒木さんは席を立つ。コーヒーでも淹れようか、とポットが置いてある壁際のほうへ歩いていく。ポットの隣に伏せて置いてあったマグカップ二つをひっくり返して、それからインスタントのコーヒーや紅茶がいくつか入っている箱の蓋を開けて、どれにしようかと吟味を始める。


「祈里ちゃんの反応見てて、祈里ちゃんは日下部さんのこと好きなのかなって」


 違った? と荒木さんが私を振り返る。


 吐いた息が震える。膝の上に置いた手に思わず力が入る。


 荒木さんの言う通り、私は日下部くんのことが好きだ。それはもう、とっくの昔に自分で理解している。中学生のときに彼と別れてからも、私は日下部くんのことを忘れるなんてできなかった。あのころからずっと、今も変わらずに日下部くんのことが好きだ。


(だけど……)


 この気持ちは蓋をしてしまおうって決めたんだ。日下部くんにこれ以上迷惑はかけられない。あの日、彼を裏切って、傷つけた私に、日下部くんを好きになる資格なんてない。それなのに私は弱いから、日下部くんと一緒にいればいるほど、私のことをどう思っているのか知りたくなってしまう。優しくしてくれる理由を訊きたくなってしまう。もし、日下部くんが、私のことを好きだと言ってくれたら? もし、日下部くんが、私に対して何も気持ちがないとしたら? 私のことなんて嫌いだって言ったら?


 どんな答えがきても私は怖い。怖くて仕方がないから、私はこのまま、日下部くんへの気持ちがこれ以上大きく膨れてしまって、取り返しがつかなくなる前に、彼の傍から離れたいって思っている。思っているのに、それさえも上手くいかないくらいには、こじらせてきてしまっているけれど……。


「日下部くんは……あの人だけは、ダメ」


 目を伏せてしまったから、荒木さんがどんな顔をしているのかは分からなかった。ただ、少しだけ間があったあとに、「そっか」と聞こえてきた声は、やっぱりとても優しくて、温かいものだった。


「それじゃ、うちからは『週刊誌に出ている熱愛の事実はないです』って出しておくね」


 話を戻すというよりは、話を変えるように荒木さんは言った。


「うん、ありがとう。お願いします」


「これも社長の仕事ですからねー」


 桜井さんは何かコメント出すかな、と荒木さんは独り言のように呟いた。食事のときに、否定するコメントを出していいと伝えているけれど、彼は何か世間に向けて発信するだろうか。普段からあまり呟きのないSNSにも、公式のホームページにも、昼を過ぎた今もまだ何も投稿されていないようだった。


「祈里ちゃんはコーヒーにする? 紅茶にする?」


「今日は紅茶にしようかな」


「了解」


 マグカップの中にポットからお湯が注がれる音がする。それから少しして、紅茶の爽やかでちょっとだけ苦みを感じる香りが事務所の中に広がった。


「祈里ちゃん。俺はさ、ずっと祈里ちゃんの幸せを願ってるよ」


 その香りに言葉を乗せるように小さく呟かれた荒木さんの言葉は、今度はしっかりと私の耳に届いた。私をスカウトしてくれたときから何一つ変わらない荒木さんの優しさに、目の奥がジンと熱くなって、うなずくだけで精一杯だった。



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