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第二十一話 彼女の幸せ(梓視点)

 桜井からの電話は、今夜会って話せないかという内容だった。夕方に一件予定が入っているから、それが終わったあとであれば大丈夫だと伝えれば、スタジオで作業をしながら待っていると返ってきた。

 桜井に会うのは、羽柴を桜井の映画に起用してみないかと提案したとき以来だ。今回の羽柴とのスキャンダルについて、俺に話したいことでもあるのだろう。どんなことを話すつもりなのかは分からないけれど。


 夕方、投資先の会社で一時間ほどの話し合いを終わらせて、自宅ではなく桜井が持っている撮影スタジオがあるほうへと向かう。その途中、コスメ店が入っている商業ビルの壁面に、『Tutu』の定番コスメを宣伝する羽柴の大きなポスターが貼られていた。

 吸い込まれそうなくらい真っ黒で、キラキラと輝く大きな瞳がこちらを見ている。すれ違った若い女の子が興奮気味に「目が合ってるみたい」と隣にいる友人に話しかけているのが聞こえてきた。確かにポスターの中の羽柴の瞳は印象的で、目が合いそうだと錯覚しそうになる。けれどそれと同時に、こちらがどれだけ見つめていても、彼女の煌めく瞳の中に自分が映ることはないだろうと思うくらい、遠い存在にも思える。お互いに向き合っているのに、この視線は決して交わることはない。今目の前にいる羽柴は本物ではなくポスターの中にいるのだからそれは当たり前のことなのに、そこに本物の羽柴を重ねてしまっている自分がいて困惑する。今日はどうも調子がおかしい。早く桜井のところへ向かおう。


 桜井のスタジオに到着し、扉を開ける。声を掛けたら奥のほうから返事があり、「中へどうぞ」と促された。

「すみません、ちょっと編集作業してて」

「また新しい映画撮ったのか?」

「今回は映画じゃなくて、CM撮影の依頼があって」

「なんのCM?」

「ビールのCMです」

「意外」と返せば、桜井も「ですよね」と笑う。

「映画以外の撮影も挑戦してみようかなって思って」

 結構楽しかったです、と桜井は作業をしていたモニターから俺のほうへ顔を向けた。

「すみません、わざわざスタジオにまで来てもらって」

「いや、元気そうでよかったよ。忙しくなったんじゃないか?」

「そうですね。羽柴さんとの映画がヒットしたんで、取材とかは増えました」

 今度密着撮影も来るんですよ、と興奮気味に話す桜井は、今日道ですれ違った女の子の興奮の仕方に似ていて愛らしさがある。知り合ったばかりのころから映画にしか興味がなかったような桜井が、CM撮影に挑戦したことや密着取材に興味を示していることが新鮮で、興味深かった。

「それで、話って?」

 このままだと桜井と最近の仕事の話だけで何時間も経ってしまいそうな雰囲気があって、話があると呼び出した桜井の本来の目的へと会話を誘導する。桜井は、「あ、」と用件を思い出したような表情をすると、すぐに気まずそうに視線を泳がせた。

「えーと、どこから話せばいいかな。あ、飲み物、どうぞ」

 デスクの近くに置いてあった小型の冷蔵庫の中から、桜井はボトル缶コーヒーを取り出し、俺のほうへと差し出す。受け取ったそれは想像以上に冷蔵庫の中で冷やされていたらしく、受け取った手のひらを急速に冷やしていく。これを飲んだら一気に目が覚めそうだと、桜井が話し出すまでの間、ぼんやりと考えていた。

「今日、発売された週刊誌とかワイドショーって見ました?」

 やっぱりその話かと思いながら、「あー」と、普段と何も変わらないような口調を意識して返事をする。

「羽柴とのやつ? 読んだし、見たよ」

「そうです、それ。その話がしたくて」

「あれって本当なの?」

「いや……交際はしていないです」

 熱愛ではないです、と桜井は首を横に振る。ふぅん、と相槌を打つ。桜井は何か言いたそうに、でも言葉がまとまっていないのか、「えーと」と言葉を濁らせてから、一度、俺に渡したのと同じボトル缶コーヒーに口をつけた。

「……梓先輩は、あの記事を読んで、どう思いました?」

「どうって……」

 桜井と目が合う。その視線はどこか鋭くて、まるで睨んでいるみたいだ。

「別に、どうも思っていないよ」

「え? でも……」

「何を想像してんのか分かんねーけど、俺と羽柴が付き合ってたのなんて中学時代の一時だし、今関わりがあるのだって、羽柴の事務所の社長と付き合いがあるからだ」

 お前に羽柴を薦めたのだってそうだ、と続ける。それ以上のことは何もないよ、と言えば、桜井はしばらく口を閉ざす。俺の表情や言葉から、心の中の本音を探るような目をしている。会話のない数秒。「じゃあ、」という桜井の、いつもより低く、深刻そうな声が沈黙を破った。

「じゃあ、僕が、祈里さんのことを好きだって言っても、問題ないってことですよね」

 桜井から、未だ蓋を開けていないボトル缶へと視線を落とす。「羽柴さん」から「祈里さん」へと呼び方が変わった。映画にしか興味がなかったような男が、演出ではないプライベートな部分で女性の呼び方にこだわっているのだから、本気で羽柴と距離を縮めようとしていることが分かる。

「ないよ、問題なんて」

 問題なんてない。俺が二人に対して、何か口を挟む理由なんてどこにもない。そんな立場にいる人間でもない。

「それなら、僕は本気で祈里さんを落としにいきます」

 一瞬、空気を吸い込んだ喉が、ひゅっと小さく変な音を鳴らした。それを桜井に悟られないように笑い声で誤魔化す。

「別に俺に許可を取ることでも宣言するようなことでもないだろ、こんなの。大人同士の恋愛なんだし、好きにしたらいい」

 そんな話がしたかったのか? と、からかうように桜井を見る。桜井は、一瞬だけ難しい顔をしたあとに、恥ずかしそうにハニかんだ。

「ちょっと僕の考えすぎだったかもしれません」

「そうそう、考えすぎだよ。応援してる」

 相性は良いと思うぞ、なんて、適当なことを言っていると理解しながら言葉を返す。羽柴が桜井に好意を寄せているかどうかは知らないけれど、少なくとも嫌な印象を持っていないことは、この数日、羽柴から桜井の話を聞いていて分かっているつもりだ。

 桜井は優しくて良い奴だってことも俺が一番よく知っているし、桜井が羽柴を幸せにしてくれるなら何にも心配はない。彼女のことを大切に想ってくれる人がいるということに安心もしている。

 それなのに、どうしてこうも胸の奥がヒリヒリと痛むのだろう。

 気を紛らわせるように、ようやく開けたボトル缶のコーヒーを一気に喉に流し込む。ブラックのほろ苦さが口の中いっぱいに広がって、絡み合った色々な感情をうやむやにしてくれるような気がした。

 これで良いんだ。何も間違っていない。今、羽柴は、女優としても成功した道を歩もうとしていて、私生活も同じように落ち着いていったら良い。恋愛もしっかりと楽しんで、幸せをつかんでほしい。きっと羽柴を幸せにしてくれる相手は、あの頃の彼女を知る俺ではなくて、何も知らない、今の羽柴だけを知っている桜井のような人だと思う。

「ごちそうさま。また落ち着いたら、飯でも一緒に食いに行こう」

「はい、ぜひ!」

 心配事がなくなったような、曇りのない笑顔に、こちらまでつられて笑ってしまう。俺は羽柴にも幸せになってもらいたいけれど、可愛い後輩である桜井にだって、幸せになってもらいたい。


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