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第二十話 日下部梓の話(梓視点)

 その日は朝から取引先の幹部とリモートで打ち合わせがあった。お互いに納得いくまで話し合いをした結果、良い形で話を進めていくことができそうだ。打ち合わせが終わる頃には、相手の表情も大分ほぐれていて安心した。

 通話を切る。画面は見慣れたデスクトップ画面へ。

ずっと同じ姿勢をしていたせいか、凝り固まってしまった肩や背中をほぐすために、両手を組んで上へと伸ばす。体重がかかったのか、オフィスチェアの背もたれがギッと小さく鳴った。

 壁にかかった時計の秒針が、カチカチと動く音がする。その音が気になっていて、時計を買い替えようと思っていたことを思い出した。伸ばしていた腕を、そのまま頭の後ろに持って行った。静かだな、と思う。今は自分ひとりしかいないのだから当たり前なのだけれど。

何年も一人暮らしをしてきて静かなほうが当たり前だったはずなのに、たった一ヶ月、二ヵ月、他人と暮らしただけで、それに違和感を感じるなんて、なんて自分は単純なんだろう。

時間を確認するためにスマートフォンの画面をつければ、昨日の夜、羽柴とやり取りしたトーク画面が開いたままになっていた。

昨日、桜井と食事に行くと言って出て行った彼女から、少し遅くなるというメッセージと共に、頭を下げる兎のスタンプが送られてきていた。実際に、彼女が帰ってきたのは俺が眠ったあとだったようだ。今朝も、早い時間に仕事が入っていたのか、羽柴は俺が起きる前に出て行ったようで、ほぼ丸一日顔を合わせていない。

お互いに大人で、好き合って一緒に住んでいるわけでもない。彼女の家がなくなってしまったから、一時的に使っていない部屋を貸しているだけ。彼女が誰とどこでどう過ごしたって関係ないし、逆に俺のことも羽柴には関係ない。今の俺たちは、一日に一度、顔を合わせるようにしようね、なんて約束を作るような関係でもないのだから、顔を見ない日があっても何もおかしくない。

おかしくは、別にないのだけれど……。どうしてこんなに言い訳っぽく考えてしまうのだろう。

(そろそろ部屋、探さないとな……)

 羽柴の新しい家探しにストップをかけたのは俺で、安心できる家を見つけてくると言ったのも俺だ。どでかい溜息が口から溢れ出る。

(どうしたいんだ、俺は)

 思考が絡まっていく。目にかかるほど長くなってしまった前髪をぐしゃぐしゃにした。

一旦考えるのはやめだ。昼飯でも買いに行こう。打ち合わせは自分が思っていた以上に長引いてしまっていたみたいで、時間は正午を少し過ぎたあたりだ。近くのコンビニにでも行くことにしよう。


 家から歩いて五分ほどのところにあるコンビニに入る。レジ前を通れば、店内の億にある弁当があるコーナーへと最短で行くことができるけれど、昼時ということもあってかレジ前は混んでいて、わざわざ並んでいる人をかき分けて行くのは気が引ける。ぐるりと店内をまわることにしようと、店内入ってすぐ右側にある雑誌コーナーの前を通り過ぎようとしたときだ。

 ふと目に入った週刊誌の表紙。注目を引くようなゴシック体の大きな字は、よく知った名前を綴っていた。足が竦んだように動けなくなってしまった理由は、決して自分の気持ちではなくて、彼女の芸能活動を憂いたからだと思いたい。


 買ったトマトサンドは、イマイチ味がよく分からなかった。半分ほど食べて、残りはまだ開けた袋の中に残ったままだ。

 テーブルの上に開いた週刊誌には、居酒屋に仲睦まじく入っていく羽柴と桜井の姿が映っている。写真は白黒だから決して鮮明ではないけれど、その居酒屋は桜井の行きつけの店だから自分も何度か一緒に行ったことがあってよく知っていた。

 その写真の下には、店の出入り口で羽柴の足元を気遣った桜井が、羽柴の右手を引いている写真も載っていた。

 週刊誌情報によれば映画撮影によって急接近した二人は何度も密会を重ねて、愛を育んでいるらしい。大ヒット映画の監督と主演女優の熱愛発覚を、世間は放っておかないだろう。その証拠に、気分転換にと点けたテレビのワイドショーでは、ちょうど二人の熱愛について報道している。

 番組内では、最近行われた映画祭の映像が使われていて、レッドカーペットを歩く二人が映っている。夜空を彷彿とさせるようなキラキラとスパンコールが光るブラックのドレスに身を包んだ羽柴の手を、タキシード姿の桜井が優しく引いてエスコートしている。途中、ドレスの裾がハイヒールの爪先に引っかかって、転びそうになるところを桜井が受け止めて、驚いた顔をした後に視線を合わせた二人は、おかしそうに肩を揺らして笑っていた。パパラッチに激写された、居酒屋から出てきた二人の写真に、その姿はよく似ていた。

 テレビの映像はVTRからスタジオへと戻される。コメンテーターの穏やかな微笑みが映し出された。

「駆け出しの二人だから、話が合うのかもしれませんね」

「いやー、これはビッグカップルの誕生ですねー」

 二人の交際が真実かどうかも分からないのに、それが真実かのように話が展開されていく。その方が世間的には面白いに決まっている。でも、数日前の羽柴は、桜井とは付き合っていないと強く否定していた。嘘をついているとは思えなかったけれど、でも、彼女も芸能人だ。どこから情報が洩れるか分からない。近しい人間だからなんて理由で、本当のことを話さなかっただけかもしれない。

中学時代、一時だけ想い合っていただけだ。関わることはもう一生ないと思っていたし、

彼女だってきっとそうだっただろう。特別な関係では、もう、ないのだから。

 テーブルの隅に置いていたテレビのリモコンを取る。羽柴と桜井の話はもう終わっていて、次の話題が流れていた。リモコンのボタンを押してテレビの電源を切る。賑やかな音がなくなって、部屋の中は途端に静かになった。

 静かだな、と、コンビニに行く前と同じように思う。うっすらと心にモヤがかかるのはなぜだろう。別に羽柴が誰と付き合ったっていい。彼女が幸せになってくれるならそれで良いのではないか。大学時代から付き合いのある桜井は良い奴だと胸を張って言えるし、きっとあいつなら羽柴を幸せにできるだろう。

 中学時代の記憶が過る。自分の眉間に皺が寄るのが分かる。

 繋いだ手が離される。セーラー服の紺色のスカートをひらりとひらめかせながら、俺を振り向いた羽柴は、「幸せになってね」と、満面の笑みで可愛らしく微笑んだ。

 俺には彼女を救えなかった。その笑顔の意味も、何も分かっていなかった。

 あのときにちゃんと、羽柴の苦しみに気付いてあげられていれば……。

 テーブルの上、雑誌の隣に置いていたスマートフォンが着信を告げる。点灯した画面を見れば、きっと巷で大きな噂になっているであろう、桜井の名前が表示されていた。


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