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第十九話 スキャンダル

 東間との騒動があってから一ヶ月が過ぎようとしていた。日下部くんは忙しい合間を縫って部屋探しをしてくれている。何度か一緒に内見にも行ったけれど、未だに本契約に至る物件には出会えていない。

 東間ともあれ以来関りはなく、また平穏な日常に戻りつつある。

 この一ヶ月の間に何度か桜井さんから食事に行かないかと連絡があった。私のスケジュールと桜井さんのスケジュールが合わず、なかなか約束まで辿り着けていないのだけれど。

「また桜井が食事に行こうって?」

 電話が終わりリビングへと戻れば、何度もこの光景を見てきた日下部くんも、声が聞こえなくても電話の相手が誰だか分かるようになってきたようだ。

「うん。でも桜井さんも忙しいから、なかなか予定が合わないけどね」

「ふぅん」

 仕事部屋ではなく、珍しくリビングにノートパソコンを持ち込んで作業をしている日下部くんは、あまり興味がなさそうに相槌を打った。それ以上私も会話の広げようがなく、日下部くんも作業に戻ったようで、カタカタとパソコンのキーボードを打ち込む音が聞こえてくる。私も明後日撮影が入っている番組の流れを覚えようと、ソファーを背もたれにしてラグの上に座り、台本を広げた。

 お互いに作業に集中すること数分。「羽柴と桜井って」と、突然日下部くんから話を振られる。耳が聞くモードに入っていなかったこともあり、日下部くんの言葉を取り損ねた。

「ごめん、なに?」

「いや、羽柴と桜井って付き合ってるのか? と思って」

「え!?」と思わず大きな声が出てしまう。

「いやいや、そんなわけないよ」

 両手を振って全力で否定する。否定したけれど、初めて桜井さんと食事に行ったときに、「祈里さんの恋人に立候補しようかな」なんて言われたことを思い出してしまって、「あれはひどく酔っ払っていたからだ」と振り払うように頭を振った。

「よく連絡が来るし、そういう関係かとてっきり。桜井も俺に言わないだけなのかと思って、それなら早く羽柴の家見つけてやらないとこじれそうだなって。嫌だろ、自分の恋人が男と一緒に住んでたら」

「確かにそれは嫌だけど、私たち付き合ってないから安心して」

 そういう関係じゃない、と返せば、それなら良いけどと言って、日下部くんは再び作業に戻る。私は私で「安心して」と日下部くんに言った言葉に自分で引っ掛かっている。

(安心してってなに!? 日下部くんと一緒に住むことは問題ないって言ってるみたいじゃん!)

 やってしまった、と頭の中の私が頭を抱えている。日下部くんの顔をチラリと盗み見る。彼は特に気にしていないようで、黙々とパソコンに向き合っていた。


 その一週間後、ついに桜井さんと予定が合い、一緒に食事に出掛ける。以前は桜井さん行きつけの居酒屋さんだったけれど、今日は高級そうなレストランを予約してくれていた。ドレスコードは必要ないと聞いていたけれど、少し綺麗めなワンピースを着てきていて良かったなと胸を撫で下ろす。

 レトロな雰囲気が漂うレストランではピアノの生演奏が流れている。大学生でこういうレストランに臆することなく入れるなんてさすがだなと、桜井さんの大人びた雰囲気に感心する。

 目の前のテーブルの上にウェイターさんが静かに置いてくれたメニュー表を開いてみる。四桁の金額ばかりが並んでいて、一気に血の気が引いていくのが分かった。

 メニュー表で口元を隠しながら桜井さんのほうへ身を乗り出し、内緒話をするように潜めた声で呼びかける。

「あの、桜井さん。大丈夫ですか?」

「え?」

「あの、ほら……お金とか……。準備はしてきたんですけど、足りるかどうかちょっと怪しくて」

 キョトンとした表情で桜井さんが一瞬だけ瞳を瞬かせる。それからすぐに合点がいったようで、「大丈夫ですよ」と笑った。

「本当はもっと早くやりたかったんですけど、今日は映画『OneRoom』のヒットお祝いでどうしてもここに来たくて。僕がたんまりお金おろしてきたので大丈夫です!」

「でも……」

「ちょっと僕にかっこつけさせてくれると嬉しいんですけど」

 ダメですか? と首を傾げる桜井さんは可愛らしい。メニュー表の金額と桜井さんの顔を見比べる。本当に良いんですか? と念を押すように確認をすると、桜井さんは「自分に任せろ」と言わんばかりに大きく頷いた。


 遠慮はいらないと言われてもどうしても遠慮しそうになる私を見かねて、半ば強引に桜井さんはイタリアンのフルコースを二人分頼んでくれた。

 少し待つと白身魚のカルパッチョが席へと運ばれてくる。ほどよい爽やかな酸味とオリーブオイルの香り、それから白身魚のふわふわとした触感に、舌も頬もとろけてしまいそうだ。

「美味しい」

「最初からこれを予約しておけば良かったですね」

「いえいえ、私が怖気づいてしまったばっかりに」

「こういうお店、あまり来ないので」と続ければ、桜井さんは「分かります」と向かいの席で大きく頷いた。

「僕もあまり来ないので。こう見えて、実はとても緊張してるんですよ」

「そうなんですか?」

「最初メニュー表見て驚いたのは僕も一緒なので。ただ、おしゃれで美味しいって有名なお店だったから、祈里さんと来てみたくて」

 桜井さんの言葉の端々から感じるこれは、私の勘違いではないだろうか。あの日、酔っ払って言われた桜井さんの言葉を、まさかと思って、私は冗談だと受け取ったけれど……。

「あの……」

 話を切り出そうとしたとき、バッグの中のスマートフォンが震えていることに気付く。桜井さんに断りを入れてチェックすれば、荒木さんから着信が入っていた。

「すみません、マネージャーから電話があって。仕事のことかも」

「待ってるので大丈夫ですよ、遠慮しないでください」

「すみません、ありがとうございます」

 スマートフォンだけを手に取り、店の入り口から外へ出る。外はすっかりと夜の帳が落ち切っていた。

「あ! 祈里ちゃん、今大丈夫だった!?」

「うん、大丈夫だけど……。どうしたの、そんなに慌てて」

 いつも穏やかで朗らかな荒木さんが慌てたように大きな声を出すのは珍しい。

「落ち着いて聞いて欲しいんだけど、祈里ちゃんのスキャンダルが明日発売の週刊誌に出るって連絡があって」

「え……? えっと、スキャンダル? 私の?」

相手は? と問いかける声が、自分でも驚くくらい震えている。

「さっきゲラを読ませてもらったんだけど、相手は、桜井監督」

「桜井さん?」

「そう。居酒屋かな、これ。店に入るところと出るところの写真も撮られてるよ。一緒に行ったのは本当?」

「うん。雑誌に載ることは止められないんだよね?」

 痛むこめかみを指で抑える。荒木さんからは「そうだね」と短い返事が返ってきただけだった。

「ごめんね、荒木さん。迷惑かけて」

「俺は大丈夫だけど……祈里ちゃんは大丈夫そう?」

「うん、平気」

「桜井さんにはどうしようか。俺から連絡する?」

「ううん。そもそも軽率なことした私が悪いから、私が桜井さんに話すよ」

今一緒にいるとはとても言えず、心の中で荒木さんに謝る。

 荒木さんとの通話が終わる。桜井さんがいる席まで戻る私の足は、どこかふわふわとしてしまっている気がして、地面を踏んでいる気がしない。

 私と目が合った桜井さんはニッコリを優しく微笑んでくれるから、私も今できる笑顔を返した。もしかすると、ひどく引きつってしまっているかもしれないけれど。

「大丈夫でした? 電話」

「はい。……ただ、ちょっと桜井さんにお話しないといけないことがあって」

「僕に? なんだろう」

 レストランはガラス張りで、店の中の景色が反射している。そこに自分が映っていることに気付いて、外から自分だとバレないように俯いた。

「前に行った食事が、週刊誌に撮られてたみたいで」

「えっ」

 水が入ったグラスを手に持っていた桜井さんは、それを口元に持って行くことなく、再びコースターの上へと戻す。

「えっと、恋愛のスキャンダルとしてってことですか?」

「そうみたいです」

 そっか、と腕を組むと、桜井さんは考え込むように口を閉じた。長い……実際にはほんの数秒だったのかもしれないけれど長く感じる沈黙が流れる。

「ご迷惑お掛けしてしまいますが、週刊誌が発売されてからでもその前でも、しっかり否定してくださいね。私のことは気にせず」

 沈黙に耐え切れず話し出した私の言葉に被せるように、桜井さんは「僕は」と口を開いた。

「僕は全然、大丈夫ですよ」

「え?」

「むしろ歓迎っていうか。あの日、祈里さんは冗談だって僕の話を受け流してましたけど、あれ、結構本気なんですよ」

 やっぱり今日桜井さんと話して私が感じていたものは勘違いではなかったことを今更理解する。

 「ちゃんと覚えていてくださいね」と桜井さんは、可愛らしくて挑戦的な、したたかな笑みを浮かべた。


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