日下部くんに知られる前に東間をなんとかしなければ。
「ちょっと、こっちに来てください」
東間の腕を掴み、会計を済ませて店を出ることにする。出入口の扉を開け、顔を覗かせる。日下部くんは店の前ではなく別のところで話をしているようで、とりあえず近くにいないことを確認してから東間と共に店を出た。
とにかく人目から離れたくて、カフェとビルの間にある狭い路地に入った。
「なんで、東間さんがここにいるんですか?」
「お前に会いに来たんだよ、祈里」
「私に……?」
「ああ。家にも行ったんだけど、何もなかった。引っ越したのか?」
「……そんな感じです」
東間たちのせいでアパートを追い出されたとは口が裂けても言えず、言葉を濁す。どこに? とも当たり前に詰められたが、日下部くんに迷惑をかけるのだけは絶対に避けたく、口を噤んだ。
「まぁ、それはいずれ探し当てるから問題ない」
「なんで、今日は、私がここにいるって分かったんですか?」
「たまたま街でお前を見かけたって言ってるやつがいて、教えてもらった」
東間はジャケットの内ポケットから煙草を取り出すと、口にくわえてライターで火をつける。ふぅ、と息を吐き出した東間の口から白い煙が流れ出た。この苦い香りは、追い回された日々や殴れた日、十万円と引き換えに襲われそうになった日を思い出して、心臓が途端にうるさくなる。自分の手が震えているのが分かって、それを抑えるように胸の前で両手を組んだ。
「お金は返しましたよね。関わらないでくださいって言ったはずです」
「別に金を取りに来たわけじゃねーよ」
煙草を持っていないほうの東間の手が私の腰に伸びる。ぐっと強引に引き寄せられ、煙草の煙を顔に吹きかけられた。
「祈里、俺の女にならないか?」
泣きたくないのに、目の前が滲んでいく。
「俺はお前のことを特別可愛がってきたつもりだ。何も悪いことはしない」
事務所で押し倒された日を思い出す。いやだと顔を背けるけれど、あの日と同じように頬を掴まれ、無理やり東間のほうを向かされる。
「金を返しにきたときの威勢の良さにも驚いた。俺の頭を灰皿で殴る根性も嫌いじゃない」
ニヤりと意地悪く東間の口角が上がる。
「芸能界だって、俺みたいなやつと繋がりあるほうがもっと上にいけると思うぜ」
なんてことを言うのだろう。死に物狂いでこの世界で生きてきた私を……いいや、それよりもコツコツと芸能界との繋がりを作り、たった一声で私を起用させるほどの信頼を築きあげてきた日下部くんの努力をないがしろにするような発言が悔しくて、ついに零れてしまった涙が頬を伝っていく。
「私は、あなたのものになんてなりたくない!」
頬を掴む東間の腕を振り払う。胸元を押して、距離を取ろうとした私の腕を東間が強い力で掴んだ。びくともしないそれに、背中を嫌な汗が流れる。東間の目が、見たことないくらい険しい。拳が振り上げられる。完全に怒らせた――。殴れる衝撃に備えて、ギュッと固く目を閉じたときだ。
「お前、なにしてんの」
不意に体を東間とは違う方向へ引っ張られる。殴られる代わりに、聞きなれた低い声が私の耳に届いた。恐る恐る目を開ければ、やはりそこにいたのは日下部くんで、私の体を東間から引き離すように抱き寄せてくれている。見上げた日下部くんの、東間を見る目つきは鋭い。
「あ? テメェ、誰だよ」
東間はこめかみに血管を浮かばせながら日下部くんにすごんだ。
「誰でも良いだろ、お前には関係ない。行こう、羽柴」
日下部くんに腕を引かれる。路地から出ようとする私たちを東間は強い語気で呼び止めた。
「おい、祈里! 話はまだ終わってない」
「話すことなんて何もないだろ」
「だから、お前には関係ないだろ。これは俺と祈里の話だ」
「羽柴が嫌がっているのが見えないのか?」
「お前に祈里の何が分かるんだよ」
「分かるよ」
ぼそっと呟くように日下部くんが言う。それは東間に対してハッキリと返事をするようなものではなくて、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえるくらい小さいものだった。
聞き取れなかった東間が「あ?」と声を荒げる。それに対し、日下部くんは大きく、そして深く溜息を吐くと、「お前」と吐き捨てるように口を開く。
「お前、東間組の若頭だろ。東間環」
「……だから何だよ」
「親父さんは元気にしてるか? 随分周りから嫌われてたみたいだけど」
「は?」
「東間幸也。今、どこにいるんだ? 風の噂で、別荘に雲隠れしてるなんて聞いたけど。場所は確かー……」
日下部くんが言葉を紡ぐにつれて、東間の顔がどんどん青冷めていくのが分かる。東間はひらひらと木の葉が舞うように瞳を大きく泳がせると、大きな舌打ちをした。
「何なんだよ、お前」
何がどう心変わりをしたのかこの場を去ろうとする東間は、日下部くんの隣を通り過ぎるときに苦々しい口調でそう言った。
東間が去り、張り詰めていた息をようやく吐き出すことができる。
「大丈夫か? 震えてる」
「うん、大丈夫」
ちょっとびっくりしただけ、と笑って見せた。
「全然大丈夫そうに見えないが」
「あの人、お父さんが借金してた相手で。お金は返したから、もう関わることはないって思ってたんだけど」
まさかこんなところに来るなんて、と日下部くんに返す私の膝は面白いくらい笑っている。日下部くんが大丈夫そうに見えないと言う理由が分かって、自分で自分自身に呆れて笑えてくる。
借金を返済した後も、東間は私のアパートに来たと言っていた。今は日下部くんのマンションにいることはバレていないようだから、それも相まって早くあの家を出なければいけないと決心がつく。次に住む家もいずれすぐに東間にバレてしまうかもしれないけれど。不安が頭を過らないかと言えば嘘になるが、これ以上、日下部くんを巻き込みたくない。
「羽柴、一つ提案なんだけど」
私の思考を断ち切るように日下部くんが話を切り出す。
「なに?」
「羽柴が、どうして家を早く出たがってるのかは、今回のことで理解できた」
でも、と日下部くんは続ける。真っ直ぐに私の目を見る。
「俺は、羽柴がこれからも東間やその取り巻きに執着されることが不安だ。……特別な感情があるとかじゃなくて、これは、今、羽柴に関わってるから、何かあると寝覚めが悪い」
だから、と丁寧に言葉を紡ぐ日下部くんの声はとても優しい。
「羽柴の新しい部屋、俺が探しても良いか? すぐに見つけて、絶対に安心できる場所にする」
なぜ、彼が私にお願いをするように言うのだろう。どうして、こんなにも私を助けようとしてくれるのだろう。そこにあるのは本当に、寝覚めが悪いからなんて理由だけなのだろうか。
そこにどんな意味があるのかなんて、私には聞く資格も勇気もないけれど。