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第十七話 離れがたい存在

 日下部くんが看病してくれたお陰で、翌日には熱が下がり、その次の日には仕事にも行けるくらい回復した。

 ドラマ撮影の現場で、スタッフや共演者たちにスケジュールを調整してもらったことに感謝と謝罪をする。体調を崩してしまった日もそうだったけれど、みんなが温かく迎え入れてくれる優しさに胸の奥が熱くなる。より一層、今回参加するドラマが良いものになるよう私も全力を尽くそうと演技にも力が入った。

(世界ってこんなに優しかったんだ……)

幼いころから、たくさんの怒鳴り声や暴力を見てきた。父親は問題から目を逸らして逃げて、その身代わりになった母や私のことなんて見向きもしなかった。世界は、残酷で、息苦しい場所だって思っていた。

借金の返済が終わり仕事も軌道に乗り始め、周りを見る余裕ができたからだろうか。ずっと私の手を離さずにいてくれる荒木さんの存在や、一緒に切磋琢磨してくれる共演者やスタッフたちの存在に改めて気付かされる。そして、日下部くんの存在にも……。

(本当に離れられなくなる前に、あの家から出ないと)

撮影の合間。待機時間に見上げる空は、突き抜けるような青色が美しい。その色は、記憶の中の、日下部くんと最後の日を過ごしたあの日の空にとても良く似ていた。


ドラマの撮影がクランクアップを迎えた翌日。何週間か振りの一日フルでの休みに、私は街へと繰り出していた。最近は芸能人としてはありがたいことに、帽子やマスクをしていないとすぐにファンに見つかってしまうから、今日は、帽子とマスク、そしてサングラスのフル装備だ。

「逆に怪しいだろ」

 多くの物件情報が貼られた窓ガラスに映る私の背後。なぜかここにいる日下部くんが、呆れたような表情で私を見ている。

「芸能人がいますって言ってるようなもんじゃないか?」

「うるさいなぁ。誰だかバレなかったら、それでいいの」

「そういうもんなのか?」

「少なくとも私はね」

いいでしょ、と言い返し、それから気を取り直して物件情報へと向き直る。

敷金礼金が高くなく、家賃もできれば安いところが良い。芸能界は入れ替わりが大きい職業だ。今は注目度が集まってきて、収入もそれなりに増えてきたけれど、いつまでこの嬉しい悲鳴が続くかも分からないし。

「この物件が気になってるのか? 風呂トイレは別で家賃も悪くないけれど、セキュリティがちょっと甘くないか?」

「セキュリティ……って、前住んでた家もこういう感じだったけど?」

「せめてオートロック付きのマンションにするべきだろ」

こことか、と日下部くんが私が見ていた物件情報の隣にある貼り紙を指差す。

「二十万!? 家賃が高すぎるよ!」

「でも、最低限の設備ってもんがあるだろ」

「いやいやいや、それは確かにそうかもしれないけど、」

新しい家を見つけて、日下部くんの家から早く離れるために不動産屋巡りをしているのだけれど、どこに行っても日下部くんはこの調子で私が見ている物件に口を挟んでくる。都内で家賃が安い場所となれば、それなりに妥協をしなければいけない部分が出てくるのだけれど、風呂とトイレは別のほうが良いだとか、立地が悪いだとか、セキュリティが良くないだとか……。そんなことを言っていたら、いつまで経っても新しい部屋なんて決まらない。そんなことは、日下部くんも分かっていると思うのだけれど……。

「もう、日下部くんはちょっと黙っててくれる? これは私のことだし、私が自分で気に入った部屋を見つけるから」

「昔と違って、羽柴は有名人なんだぞ? それなりにちゃんとした部屋を見つけないと後悔する」

「日下部くんの言うことも分かるけど、お金は無限にあるわけじゃないんだよ? 将来のことも考えて選ばないと……」

「それは俺も分かってるよ。……何を焦ってるんだ? もっとしっかり考えて部屋を探すべきだ」

「別に焦ってなんかないよ」

私はただ、と言いかけて、自分たちとすれ違う人たちの視線が集まっていることに気付く。「あれって、羽柴祈里?」とその中の誰かが小声で言ったような気がして、慌てて口を噤んだ。サングラスを掛けている目元をさらに隠すように帽子を深く引き下げる。

「一回、どこか店に入って、休憩がてらお互い頭を冷やそう」

「そ、そうだね」

不動産屋の近くにある小さなカフェに日下部くんと二人で逃げるように入店する。カウンターにいる店主さんらしき初老の男性に「どうぞ」と促されて、窓際から少し離れたボックス席へと座った。

すぐに高校生くらいのウェイターさんが、たどたどしくお水の入ったグラスを出してくれる。その彼に「アイスミルクティーください」と注文すると、日下部くんも続けて「アイスコーヒーひとつ」と告げた。小さなバインダーに挟まれた紙に注文を書き込むと、ウェイターさんは店主さんのいるカウンターのほうへと戻っていく。

コーヒーの香りに包まれた店内はアンティーク調で、ほんのりとした薄暗さが心地良い。言い合いをして興奮気味だった心は、氷でほどよく冷やされた水が喉を通っていくにつれて冷静さを取り戻していった。

「ごめん、余計な口挟みすぎた」

冷静になったのは向かいに座る日下部くんも同じだったようで、気まずそうにしながらも私に頭を下げてくれる。

「私も。ごめん。いつまでも日下部くんのお世話になってたらいけないって思って、焦ってたから」

「お世話って別に……。前にも話したと思うけど、余ってる部屋を貸してるだけだから、気にしなくていい」

「そういうわけにもいかないよ」

部屋を貸してもらってるだけじゃなくて、私が日下部くんの存在に甘えそうになる。そう言ってしまいそうになるのを奥歯を噛んで飲み込んだ。

短い沈黙が流れる。それを断ち切ったのは日下部くんのスマートフォンで、仕事の電話が掛かって来たようだった。

「ごめん、電話」

「いいよ、待ってるから」

席を立った日下部くんは急ぎ足で店の外へと出ていく。待っているとは言ったけれど、私たちどうして一緒に物件を見て回っていたんだっけ。

私が今日は出掛けると言ったらなぜか日下部くんも着いて来たのだったと、日下部くんのマンションを出る前のことを思い出す。数日前から物件情報誌を見ていたのを知っていたから、気になっていたのかもしれない。

一緒に出掛けようとか、一緒に部屋を探そうと約束したわけでもないし、待っていなくても本当は良いのかもしれないけれど。

運ばれてきたアイスティーに口をつける。日下部くんのアイスコーヒーはまだ一口も飲まれていないままグラスに汗だけかいていて、下に敷かれた丸い紙製のコースターを濡らしている。

 あの頃の私に問題がなく、あのまま日下部くんと付き合っていたら、私たちはどんな未来を歩んでいただろう。窓際に座るカップルみたいに今も仲睦まじく笑いあえていたのだろうか。それこそ結婚だってしていたかもしれない。まぁ……中学生の私たちなんて、もしかしたら恋に恋をしているだけで父親のことなんてなくても、そんな風に上手くはいっていなかったかもしれないけれど。


 ぼんやりと考え込む私の思考を遮るように、人影がテーブルの横に止まる。日下部くんが戻ってきたのだろうか、と顔を上げて、驚いて吸い込んだ空気がヒュッと喉を鳴らした、

「東、間……」

 その人の名前を紡ぐ声はひどくかすれていた。

見慣れた、汚れ一つない真っ白なスーツ。胸元の開いた黒いシャツには、大きな花が描かれているのが見える。

 綺麗にセットされた黒髪と同じくらい黒い瞳が私を見下ろしている。

 もう二度と会うことはないと思っていた東間環が、なぜここにいるのだろう。


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