ルイちゃんと出演したバラエティ番組の収録が終わった頃から、日下部くんの仕事と私の仕事のスケジュールが綺麗にすれ違うようになった。
(同じ部屋で暮らしていても、何日も会えないことってあるんだ)
夜遅くに帰ってきたらしい日下部くんはまだ眠っているようで、目覚めたときに食べてもらえるように、ちょっとしたおかずとお味噌汁を用意する。
私が夜遅くに帰宅したとき、夜食を用意してテーブルに置いてくれていたことが嬉しかった。目まぐるしいスケジュールの中で、心がふんわりと和らいだ。だから、日下部くんも、これを食べてくれる時間が、少しでも癒しになれば嬉しい。
良かったら食べてね、とメモ書きを食卓に残し、身支度を整えて出勤する。
「いってきます」
小さな声でそっと呟く。そういえば、日下部くんと暮らし始めてから、いつも「いってらっしゃい」と日下部くんの声に送り出されていたことに、私は今更気付いた。
調子がおかしいと気付いたのは、ドラマ撮影中に一瞬セリフが飛んでしまったときだ。
「祈里ちゃん、どうした? 珍しいね」
「すみません。ど忘れしちゃいました」
NGを出してしまったことを監督やスタッフ、共演者に謝罪する。アシスタントディレクターの方が台本を持ってきてくれて、セリフや立ち回りをもう一度確認するけれど、頭がぼんやりとしてしまう感覚がしてなかなか頭に入ってこない。
その後は何とか撮影は終えたものの、何度もNGを連発してしまって泣きたくなるくらい情けない。周りの人たちも優しくて、たくさんフォローをしてくれるから余計に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。
「疲れてるんだよ。ごめんね、スケジュール、詰め込みすぎちゃったかも」
「ううん。そんなことないよ。仕事は楽しいし、全然疲れてないから」
ただ今日は何だかおかしくて、と荒木さんが運転する車内の中で、本日何度目かの溜息を吐く。何だか、頭の奥のほうがふわふわとしている気がする。荒木さんの言う通り、自分が気付いていないだけで疲れが溜まってしまっているのだろうか。
「とにかく、今日は早く休んで。何かあったらいつでも連絡して」
「うん、そうする。おやすみなさい」
「日下部さんによろしくね」
「うん。よろしく言っとく。お疲れさま」
日下部くんのマンションの前で下ろしてもらい、荒木さんの車を曲がり角で見えなくなるまで見送って、私もマンションの中へと入った。
玄関を開ければ、久しぶりにリビングに明かりが灯っているのが見える。パンプスを脱いで、リビングへと続く扉を開ければ、コーヒーのほろ苦い香りが私を包む。部屋の奥へと目をやれば、マグカップ片手にソファーに座る日下部くんと目が合った。
「お疲れ」
「日下部くんもお疲れさま。何だか久しぶりだね」
「ああ、なかなかタイミングが合わなかったな」
「仕事は落ち着いた?」
「まだ細かいものが残ってるけど、何とか」
羽柴もコーヒー飲む? と、日下部くんがソファーから立ち上がる。
久しぶりに見た日下部くんの顔は、予想していたよりも疲れていなさそうで安心した。貰おうかな、と返して、荷物を一度自室として使わせてもらっている部屋へと置きに行った。
荷物を置いてリビングへ戻れば、調度日下部くんもマグカップにコーヒーを淹れ終えたところだったようで、差し出されたそれを受け取ろうとしたときだ。
「……羽柴、なんか顔、赤くないか?」
「え? あ、チーク塗ってるけど……?」
「いや、そういうのじゃなくて。ごめん、ちょっと触るぞ」
日下部くんの手が、私の額に触れる。それはとてもひんやりとしていて心地が良い。一日中重く感じていた頭の痛みが、スッと消えていくようで……。
「あっっつ!!」
「え?」
「え? じゃない、何度あるんだ? これ」
受け取ろうとしたマグカップは没収され、ソファーへと押されるようにして座らされる。リビングの隅にあるチェストの引き出しから体温計を持って来た日下部くんは、器用に私の脇にそれを挟んだ。
三十秒ほどでピピッと電子音を鳴らし、体温の測定が終わったことを告げる。私の体温が表示された液晶を見るよりも先に、私の手から体温計を奪うと「たか……っ」と日下部くんが呟いた。
「三十九度もある。早く部屋で休め」
「でも……」
「でも、じゃない。ほら、早く」
「うん」
日下部くんに促され、部屋に戻ろうと立ち上がった瞬間。視界がぐわんと歪む。やばい、と思ったときにはもう何も出来なくて、視界があっという間に暗くなり、記憶が途絶えた。
話し声が聞こえる。まどろむ意識の中で耳を澄ます。
「はい、高熱が出てて、とても仕事には行けそうになくて。……今は眠ってます。監督のほうには荒木さんから連絡していただけますか? ……ええ。よろしくお願いします」
うっすらとボヤける視界。そこにいるのは、日下部くんだろうか。荒木さんと電話しているようだ。
「……撮影」
そうだ、今日もドラマの撮影があって、行かなくちゃ。
「羽柴、起きたのか? 今日はとても仕事ができる状態じゃない。今、荒木さんに連絡して、休みを貰った」
だから安心して休め、と私のベッドの傍で腰をかがめた日下部くんと目が合う。
「でも、迷惑かけちゃうから。昨日も、NGばっかりだして迷惑かけてるし……」
「熱が出てる状態じゃ、何も上手くできないよ。今はとにかく休んで、一日でも早く回復して仕事に戻ることが一番だよ」
「……そうだね」
「まぁ、もどかしい気持ちも分かるけど。何か食べられるもの持ってくるから、少しでも食べて。それ食べたら薬飲もう」
「ごめんね、日下部くんも忙しいのに。迷惑かけて」
日下部くんが切れ長の瞳を瞬かせる。それから小さく溜息を吐くと、ペシッと痛くないくらいの勢いで額を叩かれるように冷却シートを貼られた。冷たい、と思わず声がこぼれてしまう。
「迷惑だったら迷惑だって、俺はハッキリ言う。こんなときに迷惑だなんて思わないし、誰かに助けてもらうことは、何も悪いことじゃない」
いいんだよ、と最後は呟くように日下部くんは言って、唇をキュッと結んだ。しばらく間が合って、もう一度、日下部くんは深く息を吐く。
「何か用意してくるから、しっかり水分摂って寝てろ」
日下部くんが部屋を出ていく。静かになった部屋の中で、「うん」と私は頷く。
誰かに頼ることは悪いことじゃないと言った日下部くんの言葉が、今の私に向けられたものではないと感じたのは気のせいだろうか。中学生のときの、私たちに向けて日下部くんが言った気がしたのは、私の自惚れだろうか。
人の気配を感じて目を覚ます。どれくらい眠っていただろう。壁に掛けられた時計を見れば、日下部くんが部屋を出て行ってから三十分ほどが経った頃だった。
美味しそうな香りが私の鼻とお腹を刺激する。
「起き上がれるか?」
「うん、大丈夫」
体を起こして、ベッドサイドに腰掛ける。サイドテーブルを私の傍まで日下部くんが近づけてくれて、その上には小さな土鍋が置いてある。日下部くんが蓋を開けてくれれば、黄色が眩しい玉子粥が目に飛び込んできた。
「美味しそう」
「これくらいなら食べられるかと思って」
「うん、食欲もあるし、しっかり食べられそう」
「熱いからな。火傷しないように気を付けて」
土鍋から小さなお椀に日下部くんが取り分けてくれて、それを受け取る。蓮華で玉子粥を掬って、冷ますために息を何度か吹きかける。少しずつ口に運んだそれは、優しい味がしてとても美味しかった。
いつもより少し時間はかかったけれど完食し、日下部くんが用意してくれた薬を飲む。明日には熱が下がっていると良いのだけれど。
「そういえば、体、どこか痛くないか? 風邪とかの痛みじゃなくて」
「全然どこも痛くないよ。どうして?」
「昨日、羽柴がソファーから立ち上がったときに、そのまま倒れたんだよ。一応受け止めることはできたけど、テーブルも近かったしどこかぶつけたりしてないか気になって」
「そうだったんだ。ありがとう」
「どこも怪我してないなら良いんだ」
記憶がない間にそんなことがあったなんて知らなかった。私の答えに安心したのか日下部くんは口角を緩ませた。それから、グッと大きく体を伸ばした。
「羽柴も一山越えたみたいだし、俺も少し仕事してくるよ」
「日下部くんも無理しないでね」
「ああ。何かあったら呼んで」
すぐ来るから、と微笑み、部屋を後にする日下部くんの背中を見送る。彼の背中は、昔と変わらずとても大きく見えた。
「やばいなぁ……」
誰にも聞こえないように呟く。熱い顔を隠すように、腕で目元を覆う。この熱さは熱のせいじゃない。
このままじゃ、どんどん離れがたくなってしまう。
それくらい、私は、今もずっと、日下部くんが好きだ。