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第十四話 酔った勢いで

桜井さんとの約束の日。予定していたよりも一時間仕事が早く終わり、そのことを桜井さんにメッセージで送れば、『もうすぐ授業が終わるから大学まで来て欲しい』と返って来た。

教えてもらった通りに大学までやって来る。最終学歴が高校である私には、大学というのは未知であり、ドラマや映画などの創作物の中のイメージしかない場所だ。

立派な正門の奥にある校舎は視界に入りきらないくらい大きく圧倒される。すれ違う人たちは、どの人もキャンパスライフを満喫しているように見えてキラキラと眩しい。そんな場所に自分がいることに気まずさを感じてしまって、周りの人と目を合わさないようにするのに必死になる。

(そういえば、日下部くんの母校でもあるんだっけ……)

桜井さんと大学の先輩後輩関係であると言っていたから、日下部くんもここに通っていたということなのだろうか。そのときは一切交流のない私たちだったから、この学校には私の知らない日下部くんがいたのだと思うと、少しだけ胸が痛くなる気がする。

「羽柴さん」

桜井さんの声にハッと思考が現実に引き戻される。その声が救いのように思えて、あからさまに自分の心がホッとほぐれるのを感じた。

「桜井さん、こんにちは」

「こんにちは。すみません、わざわざこんなところに来てもらって」

「いえいえ!」

「でも、気まずかったですよね。自分が知っている場所でもないし」

「えーと……まぁ、多少アウェー感は……」

「やっぱりそうですよね、本当にすみません。全然気を使えなくて」

やっちゃったなぁ、と眉をハの字に下げて肩も落とす桜井さんに慌てる。

「でも、私は大学通ったことないので、新鮮で楽しい気持ちももちろんありましたよ」

それに、と続ける。

「桜井さんが本当に大学生なんだなーって実感もできて。いつもすごくしっかりされてるから」

そっと桜井さんが申し訳なさそうな目のまま私を見る。「本当ですか……?」と様子を伺うような声は面白いくらい小さくて、思わず笑ってしまった。それを見て、桜井さんも安心したのか、表情が多少和らぐのを感じる。

「桜井」

不意に桜井さんの名前が呼ばれる。振り向いた桜井さんの視線のほうには、桜井さんと同い年くらいの数人の男の子がいた。

「今、帰り?」

「ああ。これから帰るところ」

友達からの問いかけに答えながら、桜井さんがそっと後ろ手に私の体を押して、桜井さんの背中に私を隠す。「誰?」とその内の誰かが私の存在に気付いて桜井さんに訊いたのが聞こえてきたけれど、桜井さんは「んー」と曖昧に返事をしてから、「内緒」と可愛らしく言った。男の子たちから笑い声が上がる。半分茶化すような「お幸せにー」と賑やかな声とともに、その子たちは去っていった。

「すみません、なんか誤解させたかも」

「いやいや、全然。たぶん私だってバレてないと思いますよ」

私からも相手の顔見えなかったので、と返す。

「それなら良いんですけど……」

「もっとちゃんと変装してきたら良かったですね。万が一桜井さんに迷惑かけたら申し訳ない……」

「え? いや、俺は……」

えっと、と桜井さんが言葉に詰まる。言葉を整理しているのか、後ろ髪をくしゃくしゃとするように掻いてから、「俺は大丈夫です」と桜井さんは俯きがちに小さな声で答えた。

「と、とにかく! ご飯、行きましょうか!」

そうかと思えば、桜井さんはパッと顔を上げて両手を叩く。

「そうですね、行きましょうか」

「羽柴さんのお口に合えば良いな」

「よく行くお店なんですよね。 楽しみです」


桜井さんが連れてきてくれたお店は、昔ながらな雰囲気のある居酒屋さんだった。桜井さんは本当にこのお店によく来ているようで、店主さんとも女将さんとも親子のような仲の良さを感じられた。

借金返済に追わていたこともあって、ハタチになってからも居酒屋やバーなどでこうやって知り合いと時間を楽しむ機会はほとんどなく新鮮だ。お酒だって、取り立てに来た人に半ば強制的に呑まされるか、東間に付き合えって言われて呑まされるかのどちらかで楽しかった思い出だってないし……。つい表情が歪みそうになってしまっていることに気付いて、嫌な思い出を振り払うようにブンブンと頭を振った。

オススメの料理を教えてもらって頼んだり、呑んでみたかったお酒を頼み、映画についてや演劇についての話を中心に穏やかな時間を過ごすこと約一時間。

「羽柴さんのことぉ、祈里さんって呼んでもいいですかぁ?」

「そ、それは良いんですけど、」

桜井さんがビールジョッキ片手にめちゃくちゃ酔っ払っている。

「瞬ちゃん、呑みすぎじゃない? お水持ってくるわね」

珍しい、美人さんと一緒だからかしら、とお皿を下げに来てくれた女将さんは、赤い顔をして間延びした言葉を吐く桜井さんにフフフと微笑ましそうに笑いながら、厨房のほうへと去っていく。

「僕、祈里さんを見たとき衝撃が走ったんですよ。美人すぎて」

「それは、ありがとうございます。あの、そろそろジョッキ置いたほうが……」

「梓先輩が祈里さんを使ってくれって僕に言った理由は、カメラ越しに祈里さんを見たときに分かりました。人の視線を引き付ける魅力がある人だって言ってたのは、本当だったんだなぁって」

え? と聞き返した私の言葉が聞こえなかったのか、桜井さんは気にする素振りを見せずに話続ける。

「演技も上手だから、祈里さんを主演にしても絶対に後悔しないって言ってたんですよ」

「ちょ、ちょっと待って。日下部くんが、そう言ったの?」

 桜井さんの話を制止するように掌を彼の前に差し出せば、ようやく桜井さんは言葉を止める。一瞬、キョトンとしたように瞳を瞬かせてから、「そうですよ」と大きく頷いた。

「僕が女優さんを探してるって言ったら、すぐに良い女優がいるーって。祈里さんのこと話してくれたんです」

「私はてっきり、うちの荒木さんが日下部くんづてに桜井さんに話してくれたのかなって思ってて」

「あー、それよりも前の話ですよ。僕からコスモプロに連絡しようと思っていたら、荒木さんから連絡があって。あ、でもこれ、梓さんに言うなって言われてたような気がする……」

バレたら梓先輩に怒られる、と言っているくせに、桜井さんは楽しそうに笑っている。

日下部くんから桜井さんに私の話をしていてくれていたなんて知らなかった。それならそうと、知らないフリなんてしないで、再会した日にそう言ってくれたら良かったのに。私のことなんて覚えていない、知らないと言いながらも、覚えてくれていたことはこれまでの関りから分かったけれど……。日下部くんの気持ちが分からず、頭が混乱してくる。

「そういえば、二人は中学時代に付き合っていたんですよね?」

「やだ、そんなことまで知ってるの?」

「ハッキリと梓先輩に訊いたわけじゃないですけどね。梓先輩、ずっと祈里さんのこと気に掛けているみたいだし、まだ祈里さんのこと好きなんじゃないですか?」

いや、と首を横に振る。グラスに半分ほど残ったお酒を一口呑めば、甘いジュースのような味が口の中に広がった。甘ったるくて、違うお酒にすれば良かったと少しだけ後悔する。

「今も好きってことはないんじゃないかな。再会したとき、私のことなんて覚えてないって言ってたくらいだし」

本当は会いたくなかったのかも、と返せば、桜井さんはどこか不満そうに「ふぅん」と相槌を打った。

「同情で気にしてくれてるだけなのかもしれない」

「梓先輩が同情ねぇ……。まぁ、僕もよく分からないですけど。あ、それじゃあ、祈里さんは? 今、誰かと付き合ってるとか」

「私はいないですよ、恋愛、下手くそなので」

 あはは、と自虐的な笑いで誤魔化す。これまで自分を取り巻いてきた環境と、日下部くんを傷つけたあの日を思い出して、自分は恋愛なんてしてはいけないと本気で思っている。自分が恋愛面で幸せになる未来は、正直あまり想像できない。

「そうなんですか? それなら、僕、立候補しようかなぁ」

「立候補?」

「祈里さんの、恋人に」

 そっと内緒話をするように声を潜め、桜井さんは向かいの席から少しだけ身を乗り出すように言う。にっこりと微笑む瞳はとろけるようで、酔っぱらって言われた冗談なのだと解釈した。

「呑みすぎですよ。すみません、お水もう一杯ください」

 他の席の注文を取り終えた女将さんに向かって手を上げて声をかける。賑やかな店内の中に「はーい」と良く通る声が響いた。

 桜井さんがぼそりと何かを言ったような気がして聞き返したけれど、彼は「何にも言ってないですよ」と笑っただけだった。


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