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第十三話 濁す言葉

 すべての仕事が終わり、居候している日下部くんのマンションに着く頃には二十三時を回っていた。

 エントランスを通って、エレベーターに乗る。日下部くんの部屋がある階数で降りるのも慣れてきて、自分がもうここで一ヶ月ほど生活していることに気付く。


(もう一ヶ月も経ったんだ……)


 早く新しい家を見つけないと。いつまでも日下部くんのお世話になるわけにはいかない。彼の優しさや人の良さに甘えてしまっては、私もあの人と何も変わらない。私たちが関わって良いことなんてないって、ずっと分かっているはずなのに……。


 日下部くんの部屋の前まで来て溜息が溢れる。次の休みには物件を探しに行こうか、と悩みながら、エントランスの扉を開けたものと同じカードキーで玄関扉を開けようとしたときだ。中から鍵が開く音がして、玄関扉が開かれる。鉢合った日下部くんと私の「あっ」という声が重なった。


「た、ただいま」

「あ……ああ。」

「どこか出掛けるところだった?」


 どうぞ、と日下部くんが通れるように少し体を横にずらせば、「いや」と日下部くんが言葉を濁す。顔を見れば、少し気まずそうに眉を下げていた。


「いや……ちょっとコンビニに行こうかと思ってたんだけど、やめとく」

「そうなの? 連絡してくれたら、帰りに寄って買ってきたのに」

「何か買いたいものがあったわけじゃないから」


 日下部くんはそう言って、そのまま部屋の中へ戻っていく。私もその後を追うように玄関でヒールを脱いで、部屋の中に入った。

 部屋に荷物を置いてから、シャワーを浴びてリビングへ行く。日下部くんには事前に、帰りが遅いから夕飯はいらないと伝えていたのだけれど、キッチンに立っていた彼から「軽食でも作ろうか?」と声が掛かった。


「でも……」

「お茶漬けくらいでも良ければ。俺も食べようと思ってたし」


 くぅ、と小さくお腹が鳴る。荒木さんの車の中でコンビニのおにぎりを食べたのは何時間くらい前だっただろうか。


 私のお腹の音が聞こえたのか日下部くんが小さく吹き出した。


「……それじゃあ、お願いしても良いかな」


 きっと私の顔は、真っ赤になってしまっていたに違いない。



 海苔とほぐした鮭の香り。それから、温かいお茶の香りにホッと心も体も安らぐ。サラサラとお腹を満たしてくれるお茶漬けは、この時間に食べるには負荷も少なくちょうど良かったかもしれない。


「桜井の映画のポスター、見た。昼に出掛ける予定があって、駅前のビルで」

「桜井さんが、結構宣伝に力入れてくれてるみたいで……」

「そうだろうな。桜井は今までこういう宣伝したことないから」

「そうなの?」

「小さい劇場で上映して、それが口コミで広がっていくって感じだったから。よっぽど自信があるんだろう」


 ごちそうさま、と先に食べ終わった日下部くんは食器をシンクのほうへと下げにいく。

 自信作だと桜井さんも言っていたことを思い出していれば、


「ポスターで足止めてる人も多かったよ」

と日下部くんが続けて口を開いた。


「ありがたいよね、本当に。写真撮影してくれる人とかもいて。それが自分っていうのが、すごく不思議」


 私もしっかりと手を合わせて「ごちそうさま」と言って、空になったお茶碗とお箸を持ってシンク前に立つ日下部くんの隣へ行く。


「足を止めたくなる気持ちは、俺も分かる」


 私が蛇口をひねって水を流すのと、日下部くんが小さく呟いたのが同じタイミングで、水が流れる音でうまくその声を拾うことができなかった。


「ごめん、もう一回言ってくれる?」

「いや、別に何も言ってない」

「うそ、何か言ったでしょ?」

「……最近、太ったんじゃないか?」

「うそ!?」

「うそだよ、冗談」


 歯磨いて寝る、と言って日下部くんは早々に私の隣を離脱しようとする。ちょっと、と呼び止めようとしたけれど、日下部くんはそれを無視してリビングから洗面所のほうへと去って行ってしまった。



 次の日の朝は、日下部くんのほうが仕事で先に家を出てしまって、顔を合わせることはなかった。

二夜連続放送の特別ドラマへの出演が決まって、事務所に届いた台本を荒木さんの車の中で目を通す。


「主演じゃないのは残念だね」

「そんなことないよ。セリフがある役がもらえるだけで、本当にうれしいし」

「……途中で犯人にやられちゃう役だけど」

「立派な死に様を見せます」


 期待してます、と荒木さんが笑う。

 演劇の中でウェディングドレスを着ると婚期が遅れるだとか、役で死ぬと長生きするとか聞いたことあるけど本当なのだろうか。どれも迷信であると思うけれど。


「そういえば昨日、帰る時間が遅くなっちゃったから、日下部さんに祈里ちゃんのこと駅まで迎えに行って欲しいってお願いしたんだけど、迎えに来てくれた?」

「え?」

「遅い時間だったのに、二つ返事で『良いですよ』って言ってくれて、本当にありがたいよね」


 昨日の夜、駅で日下部くんには会っていない。その代わり、玄関先で日下部くんに鉢合わせた理由は、私を迎えに来るためだったということなのだろうか。

 気まずそうなあの表情の裏にそれがあったことが分かって、妙に自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じる。私のために、と自惚れてしまいそうな自分がいる。




 桜井さんから連絡があったのは、その日の夜のことだった。


「ずっと食事に誘いたかったんですけど、何かと忙しくて」

「映画の公開直前ですから」

「急なんですけど、今週の金曜日は時間ありますか? 僕の行きつけの店で良ければなんですけど」

「仕事が十七時まで入っていて、十九時くらいからでも良ければぜひ」

「僕は大丈夫です。それじゃあ、金曜日の十九時に。待ち合わせ場所はあとで地図送りますね」

「はい。楽しみにしていますね」


 はぁ、と大きく息を吐き出す音のあと、「緊張したぁ」と和らいだような桜井さんの声がスピーカー越しに聞こえてきた。それに面食らっていれば、「僕も楽しみにしています」と可愛らしく言われてドキマギしてしまったまま通話が終了した。


「……桜井?」


 お風呂上りの日下部くんが、頭をタオルで拭きながらリビングへと戻って来た。通話の終わり掛けの声が聞こえていたのだろう。


「あ、うん。金曜日の夜に食事に行こうって。だから、その日は私の夕飯はなしでお願いします」

「分かった」


 冷蔵庫を開けて、ペットボトルに入った水を日下部くんが取り出す。一口それに口をつけたあとに、「羽柴は……」と話しかけられて、「うん?」と首を傾げた。


「いや、なんでもない。楽しんで」

「……? うん」


 バスタオルが頭から掛けられているせいで、日下部くんがどんな表情をしているのかうまく見えなかった。仕事がまだ残っているからと、自室へ戻っていく日下部くんの背中を見送る。

 日下部くんは、何を言いかけてやめたのだろう。彼は今、私のことをどう思っているのだろう。どちらも、聞いてしまってはいけない気がして、私はそのまま黙っていることしかできないけれど。

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