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第十一話 知らなかった表情

 夢も見ずに朝までぐっすりと眠ったのは、久々だった。

 あくびを噛み殺しながら、リビングへと出れば、まだ日下部くんは寝ているようで、静かな時間が流れている。

 せっかくだから、二人分のコーヒーを淹れて、目玉焼きと簡単なサラダを作る。日下部くんが起きてきたら、トーストを焼こう。まるで同棲したてのカップルみたいだ――。

「いやいやいや、違う違う」

 何を考えているんだ、私は。私たちのそういう甘酸っぱい関係は中学生のころで終わっているし、今は理由があってこうなっているだけで、断じてそういうのではない。時々、日下部くんから出る意図しているのかしていないのか分からない甘い言葉に、心が揺れ動きそうになるときもあるけれど、今の私たちはあえて言葉にするならばビジネスパートナ―。それ以上でも、それ以下でもない。

 自分にそう言い聞かせていれば、私の中で噂の日下部くんが起きてきた気配がする。日下部くんの寝室から、まだ寝惚け眼な様子で日下部くんはリビングへと顔を出した。

「おはよう」

「……ん」

「コーヒー、まだ淹れたてで熱いよ」

 湯気がのぼるマグカップを口元まで運んでいた日下部くんの動きが止まる。少し間も置いてから、ふぅと息を吹きかけると、ゆっくりと啜った。「熱い……」と小さな呟きが聞こえてくる。日下部くんは、寝起きがあまり良くないのだろうか。

 目もろくに開いていない様子の日下部くんが危なっかしくて、目が離せない。


 日下部くんが起きてきて、五分くらい経った。コーヒーを何口か啜って、ようやく目が覚めてきたのか、少しずつ日下部くんの動きもしゃっきりとしてくる。

「悪いな、朝食作ってもらって」

「たまたま私のほうが早く起きただけだから」

「ダメなんだよ、朝は。全然目が覚めない」

 長い前髪の下にある目を、日下部くんは手でゴシゴシと擦る。

 家での仕事が多いのもあって、夜遅くまで起きてしまったり、昼まで寝てしまうこともあるのだと日下部くんは言う。

「でも、今日は早いんだね」

壁に掛かった時計を見れば、まだ朝の七時を回ったところだ。私は、雑誌の撮影が入っているからこの時間に起きたけれど、日下部くんの話ではこんな時間に起きるのは珍しいことなのではないだろうか。

「今日は俺も打ち合わせがあるから」

「そうなんだ」

「うん。それより、羽柴も今日はこれから仕事だろ? 俺はまだ時間あるし、洗い物とかやっておくから」

「わ、もうこんな時間。ありがとう」

 自分の分の食器を、水を張ってシンクに置いておく。間借りしている部屋に戻り、外出用の服に着替え、身支度を整える。

「いってきます」

 と、日下部くんに言って部屋を出る。「いってらっしゃい」と返ってきたことが、何だかむず痒い。アパートに一人で住んでいたころは、「いってきます」と部屋の中に言ってみても、当たり前に返ってくる言葉はなかったから、変な感じがする。


 撮影現場に到着する少し前。スマートフォンが震えて、着信を告げていることに気付く。今日は荒木さんが別件で私について来られなかったから、ちゃんと現場に到着したかどうかの確認の電話だろうか。バッグからスマートフォンを取り出す。てっきり荒木さんの名前が表示されていると思っていたから、『桜井瞬』と表示されている名前に驚いてしまった。

「おはようございます、羽柴さん」

「おはようございます。びっくりしました、桜井さんから電話なんて」

「すみません、こんな早い時間に」

「大丈夫ですよ。何かありました?」

「ああ、大した用事ではないんですけど。映画が完成したので、その連絡を」

「完成したんですか? おめでとうございます」

 ありがとうございます、と電話越しでも桜井さんがハニかんでいる顔が浮かぶ。上映が楽しみです、と返せば、桜井さんは「そのことなんですけど」と続けた。

「実は完成披露試写会があって。良かったら、羽柴さん、来ませんか?」

「良いんですか?」

「もちろんですよ。来ませんかっていう、僕の言い方が悪かったですね。ぜひ、来てもらいたくて。主演なんですから」

 主演という言葉を噛み締める。ああ、そうか。私は、とても重要な役を演じたんだと、桜井さんの言葉で実感する。

「ぜひ、行きます。よろしくお願いします」

「良かった。こちらこそ、お願いします。あとで荒木さんにスケジュール送っておきますね」

 それじゃあ、と話を切り上げるような言い方とした桜井さんの言葉が、一瞬詰まる。電話を耳に当てたまま、桜井さんに見えているわけでもないのに、「どうしました?」と首を傾げてしまった。

「近いうちに、羽柴さんとお食事に行きたいんですけど、どうですか?」

 そんなこと? と、一瞬呆けてしまう。撮影期間中に一緒に食事をしに行ったこともあったから、言い淀むようなことだっただろうかと不思議に思う。

「はい、もちろん」

「本当ですか!?」

 パッと電話越しでも分かるくらい、桜井さんの声のトーンが上がる。

「来週とか、どうですか?」

「夜なら、空いてる日もあると思います」

「分かりました。僕も予定が分かったら、すぐに連絡します」

 賑やかな余韻を残したまま通話が切れる。年齢以上に丁寧で、しっかりとした受け答えをしてくれることの多い桜井さんの、弾むような声は初めて聞いた気がする。

 今朝の寝起きの悪い日下部くんといい、今の桜井さんといい、今日は朝から新しい一面を発見してしまう日なのだろうか。

 寝惚け眼でコーヒーを啜る日下部くんを思い出して、思わず笑ってしまう。

日下部くんは中学生のときから知っている相手だけれど、あんな一面を持っているなんて知らなかった。後輩の桜井さんは、日下部くんの寝起きが悪いことを知っているのだろうか。桜井さんは桜井さんで、日下部くんに対しても私にしたのと同じように、後輩らしく声を弾ませることもあるのだろうか。桜井さんから見たら、日下部くんはどんな先輩なのだろう。今度食事をしたときにでも、訊いてみることにしよう。


 今回上映される桜井さんの短編映画によって、私の女優としての人生が、また大きく一歩踏み出すことを、このときの私はまだ知らなかった。


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