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第九話 引っ越し

「随分と……なんだ、趣あるアパートに住んでるんだな」


 私のアパートに入るなり、日下部くんが顔を引きつらせて言うものだから、「古くてボロいって素直に言いなよ」と口が拗ねる。


「安くて、保証人がなくても入れるところが、都内だとここくらいしかなかったの」

「別に悪いなんて言ってない」

「私も、悪いなんて言ってないけど? 住めば都、よ」


 結構快適だったんだけどなぁ、と日下部くんが持ってきてくれた段ボールを組み立てながら肩を竦める。まぁ……取り立てに来たヤクザに殴られたり、蹴られたりした嫌な思い出もあるけれど。


「もう、次の土曜日にはここを引き渡さないといけないんだろ? 業者に頼んで、荷物を運んでもらおう」

「いや、業者って……そのお金がないから、引っ越しに困ってたんだけど」

「それくらい俺が出す」

「それはダメ。絶対に。私が一人で運ぶから大丈夫」

「一人で運ぶって、車もないのにどうやって運ぶんだよ」

「……台車とか使って」

「ここから俺のマンションまで?」

「それは……。でも、日下部くんにお金は絶対に出してもらいたくない」


お前なぁ、と日下部くんが呆れたように、頭をかく。


「意地張ってる場合か?」

「場合じゃないから、日下部くんの家に住むって決めたんでしょ」

「……別に俺は、羽柴のことをバカにしてないし、下に見てるわけでもない」

「それは分かってる。ただ、大事なときに、借りてばかりじゃ嫌なのよ」


 日下部くんは、腕を組んで「うーん」と大きく唸る。


「分かった。俺も手伝うよ。一緒に運ぶ。金は使わないから、それくらい良いだろ」


 根負けしたように日下部くんはそう言うと、私が組み立てた段ボールをひとつ持って、細かな荷物を丁寧にまとめていく。


「うん。ありがとう」

「それじゃあ、今日から運べるものは少しずつ俺の家まで運んでいこう」

「うん」


 ワンルームのアパートで、私はあまり荷物を持っているほうではないと思っていたけれど、引っ越しするたびに、それなりに運ばなくてはいけないものが多くて驚く。


「食器とかはどうする? 一応、持って行くか?」

「持って行く。新しい家が決まったら、そっちで使いたいし」

「テーブルは?」

「それは処分して、住む物件が決まったら新しいもの購入しようかな」

「分かった」


 それでも日下部くんが一緒に分別や梱包をしてくれるお陰で、一人で荷造りをするよりも作業スピードは圧倒的に早く、二日もあれば終わりそうだ。大家さんとの約束の土曜日までに、家を綺麗に開けることができそうで、ようやく安心できる。


「でも、羽柴が結構近くに住んでて、驚いた」


 不意に日下部くんが呟く。


「確かに。意外と会わないものだね」


 行くところも違うんだろうし、と言えば、日下部くんは眉を顰める。


「だって、絶対スーパーとか行かないでしょ?」

「……俺のことなんだと思ってんだよ」

「タワマンに住む、敏腕若手投資家セレブ」

「なんだそれ。俺は別に、普通だよ、普通。スーパーも行くし、自炊もする」

「ええ、そうなの? でも、ノリヤスとか絶対に行かないでしょ?」


 近所の激安スーパーの名前を言えば、日下部くんは「のりやす……?」とピンと来ていない顔をする。


「ほら、やっぱりセレブ」

「ちがっ、いや、ノリヤスは確かに行ったことないけど! でも、普通にスーパーは行く!」

「ふふ、分かった、分かった」

「分かってないだろ。っていうか、お前のほうこそ俺のことからかってるじゃないか」

「そうかも」


 はぁ、と日下部くんが大きく溜息を吐く。さっさと続きやるぞ、と言って、再び荷造りの作業に彼は戻っていく。

 そうかも、とは言ったけれど、別にからかっているわけじゃない。妬んでいるわけでもないし、私はただ、日下部くんが成功を掴んで、幸せでいてくれることが嬉しい。

 本人には絶対、そのことは伝えないけれど。



 土曜日の午後。最後の荷物を日下部くんの家まで運び終わり、綺麗に掃除を済ませたあと、大家さんに部屋の鍵を返す。住み慣れた場所になりつつあったから、名残惜しい。「お世話になりました」と、大家さんと住んでいた部屋にも向けて挨拶をして、私は新しい住処となる日下部くんの家へと向かった。


「引っ越し、お疲れさまでした」

「お疲れ」


 広いリビングに置かれたソファーに二人並んで座り、炭酸飲料の入ったペットボトルで乾杯する。

何度か訪れたことがあるこの部屋が、一時的とはいえ自分の家になるなんて未だに実感がない。日下部くんが私に貸してくれた一室は、本当に空き部屋だったようで、私の荷物を運ぶまで何も置かれていなかった。


「荷解き、どうする? 手伝おうか」

「全然大丈夫。仕事の合間に少しずつやっていくから」


 すぐに引っ越しをすることになるようにしたいし、いくつか荷物はそのまま段ボールに入れて残しておきたい。荷物を全て出してしまうと、こんな快適そうな家からは出辛くなってしまいそうだ。


「ああ……それで、これ。一応渡しとく」

「うん?」


 黒っぽい色の硬いカードを渡される。なにこれ? と、裏表をひっくり返しながら見れば、日下部くんから「カードキー」と返ってきた。


「鍵なの? これ」

「そう。下のエントランスと、部屋の玄関の鍵」

「ホテルみたい」

「俺が仕事で家にいないときもあるだろうから、羽柴はそれ使って勝手に入って来て。出るときは何もしなくていい、玄関もオートロックだから」

「オートロック!?」


 オートロックなんて、修学旅行先のホテルでしか体験したことがない。マンションでも、こういうシステムになっているところあるんだ、と感心してしまう。すごい、とお上りさん状態になっていると自分で感じていても、すごいものはすごいのだから仕方がない。


「あっ! そうだ、私から一緒に暮らす上で、提案したいことがあったの」

「提案?」

「そう。急なことだったのに部屋を貸してくれたり、荷物の運び出しを手伝ってくれたお礼に、家事は私に任せてくれないかな」

「いや、それはダメだろ」

「えっ、なんで」


 バッサリと即答で断られ、思わずズルッと転びそうになる。


「羽柴も仕事が増えてきて、疲れさせることはしたくない。俺は基本的に在宅だし、自分の分の洗濯くらいしてくれたらいいから」

「私のこと気遣ってくれるのは嬉しいけど、さすがにそういう訳にはいかないよ」

「ダメだ」

「私も譲れない。それなら、家賃をいくらか払わせて」

「それじゃあ、本末転倒だろ。金貯めるために、ここに住むことにしたのに」

「じゃあ、家事やらせて」

「だから、お前は、本当に……!」


 なんでそんなに頑固なんだ、と日下部くんが顔を歪める。それはそっちもでしょ、と返せば、日下部くんは盛大に溜息を吐く。


「もう分かったよ、好きにしろ」

「勝った」


 両手を上げれば、日下部くんは吹き出して、肩を震わせて笑う。


「祈里って、昔から頑固だよな」


 ドキッと胸が鳴る。

今、私のこと、祈里って言った?


「日下部くん、今……」

「あ、悪い。電話だ」


 言いかけた私の言葉を遮るように、テーブルの上に置いてあった日下部くんのスマートフォンが震えている。「もしもし」と電話に出ながら、日下部くんは書斎のほうへと歩いて行った。


 日下部くん、気付いていなかったのかな……。


「まさか、また祈里って呼ばれるとは思ってなかったな」


ソファーの背もたれに、深く背中を預ける。大きく溜息を吐いた。頬が熱い。

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