鼻歌を歌い、何ならスキップだってしてしまっていたかもしれない。
数分前の虚しさもあるけれど心が軽くなったと言って浮かれていた自分に、浮かれるのはまだ早いと教えてやりたい。
アパートまで帰ってくると、私の部屋の間に、白髪交じりの初老の女性が立っていた。それが大家さんだと気付いて、会釈をする。大家さんも同じように頭を下げると、言いにくそうに一度、二度、言葉を淀ませてから、
「単刀直入に言うわね……この部屋を出て行って欲しいの」
と、申し訳なさそうに言った。
「どうしてですか……?」
「同じアパートに住んでいる方から、祈里ちゃんのお部屋にヤクザの方が出入りしているって苦情が入ったの。そういう方と関わりがある人の入居は、ちょっと難しくて」
ひとつ前のアパートも、そのもう一つ前の家も、今日と同じことを言われて住めなくなった。今、目の前にいる大家さんと同じように、みんな眉を下げて、「ごめんなさいね」と続けるところまで同じだった。
「あの、もうそういう方は、来ません。すみません、ご迷惑をお掛けして。全て、今日終わったので」
「うーん、そうは言っても……ねぇ」
大家さんは腕を組んで、顎元に手を当て、悩むような仕草をする。
「今後も絶対にないって証明できる?」
絶対、と何度もその言葉を反芻する。絶対を、どうやったら私は証明できるのだろう。絶対、あの人たちがもう来ないってことを。お金は全部返した。東間たちが、私に執着する理由は何もない。何もないけれど、どうしたら「絶対」を信じてもらえるのだろう。
――……父が、またお金を借りてしまったら。
――……東間が、私のことを恨んでいたとしたら。
言い出したらキリなんてなくて、絶対なんてどこにもないような気さえしてしまう。
「ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありません。……いつ、出て行ったら良いですか?」
今後も迷惑をかけてしまうかもしれない。そう思うと、ここにはとてもいられないと思ってしまった。
大家さんからは、一週間を目途に出て行って欲しいと告げられた。それに頷いたものの、内心とても焦っている。
それなりにお金は貰えるようになったものの、借金の返済と母親の治療費に当ててしまっていたため、貯金はゼロに近い。引っ越し資金もなければ、新しい物件を借りるためのお金も足りない。このままでは、一週間後、何も決まらないまま家を出ていくことになり、路頭を迷う羽目になってしまう。
どうしよう、と頭を抱える。
『人気急上昇中の女優I、借金返済に追われホームレスに!?』
『女優・羽柴祈里、実は家無し女優だった』
脳裏には、発売されてもいないゴシップ記事のタイトルが次々と浮かんでくる。借金返済に追われ、毎日ヤクザが取り立てに来ている女優も最高級にヤバイと思っていたけれど、ホームレス女優なんて知られてしまった日には、これまで得た仕事が全てなくなってしまうのではないか。
さぁ、と顔面の血の気が引いていくのが分かる。このままでは、私の女優人生にも幕が下りてしまう。落ち着いていることなんて当たり前に出来ず、部屋の中に入ったばかりの私はもう一度バッグを引っ掴んで、コスモプロダクション目掛けて家を飛び出した。
「家がなくなる!?」
事務所に入るなり泣きついた私の言葉を、荒木さんは大きな声で繰り返した。私たち以外、ここには他に誰もいないけれど、「声が大きいよ!」と人差し指を口元に立てて当てる。荒木さんは「ごめん」と謝ると、「ど、どういうこと?」と困惑した声を潜めた。
「家に、何度か借金の取り立てが来てたの。それを近所の人に見られてたみたいで……」
「でも、今日、借金返し終わったんだよね?」
「うん。でも、今後も絶対にヤクザが来ないか証明出来るかって言われて……私、何も言えなかった」
「あー……」と荒木さんも、納得したように頷く。
「引っ越し資金もないし、物件を借りるときに払うお金も、さすがに一週間じゃ貯められないし」
「最悪、ここに荷物まとめて持ってくるしかないね」
「ごめんね……」
「まぁ、仕事も入って来てるし、少しずつお金貯めて、新しい家探そうよ」
「うん。……はぁ、本当に迷惑しか掛けてない」
嫌になるよ、と両手で顔を覆う。荒木さんの優しい手が、私の背中を柔らかく摩ってくれた。事務所にも早く、借りているお金を返したい。一人前に働いて、これまで荒木さんにお世話になった分、しっかりと恩返しをしたいと思っていたのに。私の生活が全く安定しないことが本当に申し訳なくて、心がずっしりと重くなった。
「あのー……」
不意に、事務所内に私と荒木さん以外の声が響く。来訪者の予定もなく、あまりに突然のことに、「誰?」と荒木さんと顔を見合わせていれば、「日下部ですけど」ともう一度、声が響いた。
「えっ!? あ、日下部さん!? すみません、全然気付かなくて」
荒木さんが慌てて入り口のほうを振り返る。そこにはスーツのジャケットを腕に掛け、ワイシャツの袖を捲った日下部くんが立っていた。
「いえ。突然来て、すみません。近くで『Tutu』のプロデューサーと打ち合わせしてたんで、そのまま荒木さんともお話できればと思って来たんですけど」
日下部くんの視線が、私のほうへと動く。きっと今は、情けない顔をしているから、日下部くんに顔を見られないように慌てて下を向いた。
「羽柴、ごめん」
「な、なにが?」
「話、聞く気はなかったんだ。声掛けたんだけど、二人とも気付いてなくて。一回、戻ろうかとも思ったんだけど、聞こえちゃって」
「……うそ、やだ。話聞いてたの? 家追い出されたとか、すごく恥ずかしいんだけど」
やめてよ、と笑って返す。重い話にはしたくない。見られていたのだから、手遅れかもしれないけれど、日下部くんには心配かけたくない。必死に思考を回転させて、明るく見えるように取り繕う。
「日下部くんのお陰で、仕事は上々だから、すぐに引っ越しもできるし大丈夫だよ。一時的なものだからさ」
心配しないで、と言えば、日下部くんは少し黙ったあとに、「羽柴が良ければだけど」と前置きをして、口を開いた。
「引っ越し費用が貯まって、次の家が決まるまで、家に来るか?」
「え……? ごめん、もう一回言ってくれる?」
「だから、引っ越し資金が貯まって、次の引っ越し先が決まるまで、俺のマンションに住まないか? って。 ちょうど一つ、使ってない部屋があるんだ」
日下部くんの話を咀嚼し、自分の中に落とし込むまで数秒。日下部くんと、一つ屋根の下で共に暮らすことになるのだと理解して、「いやいやいや」と断りの意味を込めて両手を大きく左右に振る。
「事務所に荷物運んで寝泊りするよりは、よっぽど良いと思うけど」
「俺も、日下部さんが良いのであれば、それに賛成かな」
「ちょっと、荒木さんっ。前は、困ったら事務所に泊まって良いって言ってたのに」
「泊まると住むは違うでしょ。ここ、安い物件だから、防犯もあまり意識してないし。俺としては、祈里ちゃんの安全が一番だから」
荒木さんにそう言われると、なにも言い返せない。だからと言って、今の自分では新しい物件を探すことも引っ越しをすることもできない。うーん、と堪らず唸り声が出てしまう。
「……分かった。日下部くん、しばらくお世話になっても良いかな……?」
自分でも分かるくらい苦々しい顔をしてしまっていたに違いない。日下部くんとは離れようと決意したばかりなのに、どうしてこうなってしまうのかな。「お前のことなんて忘れた」と私を突き放そうとした日下部くんは、一体どこに行ってしまったのだろう。