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第七話 これで終わり

 自宅アパートのテーブルの上、積み重なったお札を慎重に何度も数え直す。五回近くそれを繰り返して、数え間違いがないことを確信してようやく、私は両手を上に上げた。


「これで、全部返せる!」


 今までは利子で増えた分を何とか返せるかどうかで、それに加えて安いところを選んでいても、家の賃貸料や光熱費、母の治療費を払わなければいけなくて、借金が減らない日々だった。

 けれど、桜井さんの映画のギャラの残りと、CMや雑誌モデルのギャラが入って、利子分も含めて全部返すことができる。多少、生活費を切り詰めて無理したところもあるけれど、これを東間に返したら全部終わる。

 手数料などで減る分を極力減らしたくて、給与を一時的に現金手渡し、さらに本来は事務所へ入る分も、後から返すからという私のわがままを荒木さんが受けてくれたから、自分の予定よりも早くお金を集めることができた。

 そして何よりこれは、日下部くんが私に合う仕事をたくさん見つけてくれて、それが成功したから出来たことだ。

 日下部くんを私の家庭事情に巻き込みたくないと思っていたのに、結局助けてもらってしまった。お金を直接出してもらったわけではないけれど、それ以上のことをしてもらった気がする。これ以上は、絶対に迷惑をかけられない。もう会わないほうが良いって伝えられなかったけれど、借金を返済し終わったら、少しずつフェードアウトして、日下部くんからまた離れることにしよう。


 大きめのバッグに入れたお金を抱えて、東間がいる事務所のドアノブに手を掛ける。

 最後に東間に会った日のことを思い出して手が震える。頭を殴って逃げてしまったから、正直何をされてもおかしくない。これまで、仕事先や自宅へ東間やその弟分たちがやって来なかったのが不思議なくらいだ。

でも、そんな不安もお金を返したら全て終わる。彼らと縁を切って、それからもう二度と会うことはない。さっさとお金を渡して、家に帰ろう。

気持ちを落ち着かせるために一度大きく深呼吸をしてから、「よし、行くぞ」と小さく気合いを入れた。


「よぉ、祈里」


 扉を開け中に入ると、東間はいつも通りソファーに足を広げて座り、煙草に火をつけているところだった。入ってきたのが私だと分かると左手を上げた。


「俺にあんなことされたのに、よくここに一人で来れたな」


東間が立ち上がり私の隣まで来ると、グッと肩を引き寄せられる。甘いムスクの香りと、煙草の苦い香りが混ざって鼻をつく。髪をさらりと撫でられて、ぞわぞわと嫌悪感が背中を走った。


「そういえば、この前の残りの金額はどうなった? 金が入ったらすぐに返しに来るって約束だっただろ」


 東間がニヤリと嫌な笑みを浮かべる。


「返す当てがないなら、俺がちょっと良くしてやっても……」

「あります、お金。持ってきました」


 抱き寄せられた体を捩って、早くこの場から去りたい一心で、バッグの中に手を突っ込む。お札の束を掴んでガラステーブルの上に置けば、東間から「は?」と間の抜けた声が上がった。


「利子分も含めて、全部あります」

「全部? どうやってこんな金……」

「あなたがやめたほうが良いって言った、女優の仕事で」


 全部お返しします、と目を丸くして私を見る東間の胸を押して、体を離す。

 東間は、近くにいた弟分に「数えろ」と指示を出す。「はい」と返事をした彼は、札束を手に持つと、慣れた手付きで一枚、一枚数えていく。


「全額あります。利子分も含めて、全額」


 弟分が、伺うように東間の顔を覗く。東間は何も言わない。


「全部返したので、これでもう終わりですよね? 今後、私たちに関わらないでください」


 すっかり軽くなったバッグを肩に掛け直し、逃げるように入って来た扉のほうへ向かう。背中に、東間が絞り出すように「祈里」と私を呼ぶ声が聞こえたけれど、聞こえなかったフリをした。振り返る理由は、どこにもない。



 東間たちの事務所が入っている雑居ビルの階段を駆け下りる。外の空気に触れて、ずっと詰まりそうで苦しかった呼吸が少し楽になる。

 ひとつ、前に進んだ。ひとつ、大きなことが終わった。あと、もうひとつ。私と母が幸せになるためには、やらなければいけないことが残っている。

 バッグからスマートフォンを取り出す。アイコンをタップして開いた連絡先の中、『お父さん』という文字の上で、親指が一瞬迷う。吐いた息が震える。借金の返済が全て終わったら、こうするって決めていたんだ。意を決して、父親の携帯電話へ通話をかける。

 この携帯番号にかけるのは何年ぶりだろうか。もしかしたら、もう使っていないことも考えていたから、とりあえずコール音が鳴ってホッとする。しかし、電話に出たのは父親ではなく、留守番電話サービスのハキハキとした女性の声で、『発信音のあとに、お名前とご用件をどうぞ』と案内を受けた。ピーという電子音が頭に響く。


「お父さん、祈里です。お父さんが借りてたお金、今日全部返し終わったよ。だからもう、お母さんと私に近付かないで。お願いします」


 メッセージを残して通話を切る。目の奥が熱くなって。涙が零れる。それが頬を伝って落ちてしまう前に、目元を手で雑に拭った。涙が溢れる理由は、心の奥の奥では分かっているけれど、分かっていないフリをしていたかった。やり直しなんてできないくらい、私たち家族は壊れていることを分かっているから。今の今まで、少しでも自分の中に、そんな気持ちがまだあったことに驚いている。


「これで良かったし、これで終わり」


 長い間、よく頑張ったんじゃないかな、と自分自身を心の中で労り褒める。長年望み続けて、ようやく終わりにすることができたんだ。間違いなんて、どこにもない。家族に対しても終わりを告げてしまったことに、心にはぽっかりと穴が開いてしまっているけれど、きっとこの虚しさもいつか癒えるはずだ。眩しいくらい青い空を見上げて、もう一度深く、思い切り息を吸い込んだ。



 これで良かったのかという迷いや不安は、多少心の中に残っているけれど、それでも肩に重く圧し掛かっていた荷物が下りたことに解放感も感じている。明日からはようやく私も自分らしい人生を歩むことができるのだと、希望が持てる未来に心も弾む。

 まずは帰って、久しぶりに美味しいものを食べて、ゆっくりお風呂に入ろう。明日はオフだし、夜更かししてテレビを楽しむのも良いかもしれない。

 自然と鼻歌も歌いたくなってくる。歌はあまり得意ではないのだけれど。

 出かけるときよりも軽い足取りだったからか、いつもよりも早くアパートまで帰って来られた気がする。

 これからは取り立てが家にくる心配もないし、東間たちが家の周りをうろついているのではないかと心配する必要もない。それだけで、心の中がすっと軽くなるのを感じる。

 怯えて暮らさなくて良いって、なんて幸せなのだろう。

 そう、思っていたのだけれど。

 私はもう一度、地獄へ突き落されることになる。


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