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第六話 病室の花束

「羽柴祈里さん、クランクアップです」

カットとOKの声が上がったあと、桜井さんの言葉がアパート内に響く。

「お疲れさまでした、羽柴さん。本当にありがとうございます」

桜井さんから労いの言葉とともに、大きな花束を差し出される。

「私のほうこそ、こんなに素敵な役を演じることができて、すごく嬉しかったです」

花束を受け取りながらそう返せば、桜井さんはとても嬉しそうに笑ってくれた。

「完成したら、すぐに羽柴さんに連絡しますね」

「楽しみにしています」

初めての映画撮影と、ヒロイン役。カメラの前でちゃんと演技をするのも初めてで、今できる全てを出し切ったけれど、それが上手く出来ているかは正直自信がない。桜井さんのイメージ通りに出来ていれば良いのだけれど……。これまでの女優人生の中で、一番真摯に向き合った役だからこそ、不安が残る。


「祈里ちゃん、家まで送るよ」

撮影で借りていたアパートの前、車を前につけた荒木さんが助手席の窓を開け、私に声をかける。

「ありがとう。でも、今日はこのまま病院に行こうと思ってる」

「ああ、お母さんのところ?」

「うん」

「分かった。じゃあ、俺はそのまま事務所に帰るから、何かあったら連絡して」

うん、ともう一度頷けば、荒木さんはゆっくりと車を出す。それに手を振って見送り、私はそれとは反対の方向へと歩き出した。


大きな花束を抱えたまま、最寄りのバス停からバスに乗る。十五分ほど揺られると、「S総合病院前」というアナウンスが車内に響き、降車を知らせるボタンを押した。

バスを降りれば、すぐ目の前に視界に入りきらない大きな建物がある。バスの中で聞いたアナウンスと同じ、『S総合病院』と書かれた円状の自動ドアを抜け、受付の前を横切り、入院病棟があるほうへと足を進める。

エレベーターで六階にまで上がる。途中すれ違う看護師さんに「こんにちは」と頭を下げて、母がいる病室まで寄り道はしなかった。

 中央よりも少し奥にある個室。

スライド式の扉の横、「羽柴みよこ」と母の名前が書かれた名札が貼ってある。こんこん、と控えめに二回ノックをしたが、中からは返事がない。通りがかった看護師さんが、「今、寝ているかも」と教えてくれて、物音を立てないように静かに中に入った。

看護師さんの言う通り、真っ白なシーツの中、母は穏やかに寝息を立てていた。ピッピッと規則正しい心モニターの音のほうが大きい。

母が体を壊してから、もう何年になるのだろう。

借金まみれの父親は、借金取りから逃れるために家に帰って来なくなった。その代わり、今度は母が「家族だから」を理由に借金の返済を迫られ、朝から晩まで働くようになった。

借金の返済に加え、娘である私に不自由させたくないからと、母は寝る間も惜しんで働いていた。すぐに私も、同じように働いて、母を楽にしてあげたかったのに、間に合わなかった。

母の体は想像以上にボロボロで、退院しても、どこかで無理をするとすぐに倒れてしまう。何度も入退院を繰り返し、その度に母の体は細く、小さくなっていってしまっている気がする。

母の手に触れる。細く、冷たい腕を温めるように優しく撫でた。

「お母さん、私、映画に出るんだよ。今日、撮影終わったの。お花、飾っておくね」

起こさないように、小声で独り言のように話しかける。

今日貰った花束からいくつか見繕って、病室に飾ろう。そう思い、サイドテーブルの上にある花瓶を見れば、すでに色とりどりの花が咲き誇る花束が飾られていた。

「またある……」

 度々、こういうことがあった。私が来るよりも前に、綺麗な花が病室に飾られている。

 私以外に、母に会いに病院に来る人はいないはずだ。父親にはここのことは教えていないし、仮に知ったとしても、こんな綺麗な花束を持ってくるとは考えにくい。

花の綺麗さから、この数日の間に飾られたものだろう。

「一体誰が……?」

看護師さんたちなら、誰か知っているかもしれない。今日こそ聞きに行こうと思ったところで、病室の扉がノックされた。検温の時間らしく、体温計を持った看護師さんが入って来る。

「あの、この花って、誰が持ってきたか分かりますか?」

「あれ? 祈里さんじゃなかったんですか? えー、誰だろう」

二日くらい前から飾ってありますよ、と看護師さんも不思議そうな顔をしながら教えてくれる。

「前からこういうことあって……。私以外に誰か来てたりします?」

「あ、たまぁにですけど、みよこさん、誰かとお話されてる声が病室から聞こえてくることあるんですよ」

「え?」

「いつも、大切な人が来てたって言われるから、てっきり祈里さんが来てるのかと思ってたけど、違ったのかな」

「大切な人……」

祈里さんじゃないなら、恋人とか? と看護師さんが、ふふっと笑いながら言う。まさか、と私も笑ってしまったけれど、大切な人と母が言っているなら、そのまさかもありえるのかもしれない。父とは離婚していないし、長年会っていないとはいえ、不倫になってしまうのか……? ちょっと、今はあまり考えないようにしよう。聞かなかったことにもしよう。

窓から差し込む太陽の光を浴びて、飾られた花がキラキラと光っている。誰が持ってきてくれたかは何も分からなかったが、不思議と気味の悪さは感じなかった。久しぶりに会った母が、とても気持ち良さそうな顔で眠っていたからかもしれない。

自分が持っていた花束の中から一本抜き出して、同じ花瓶の中に挿し入れた。

「私が持ってきたお花も綺麗でしょ」

母に話しかけながら、ベッドの横に置かれた丸椅子に腰かける。

「お母さん、もう少し待っててね」

母のことは、命に代えてでも私が守る。そう決めたんだ。

母の手を包むように両手で握って、私たちに一日でも早く普通の幸せが来ることを祈った。


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