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第五話 変わるもの、変わらないもの

 日下部くんが用意してくれた仕事は無事に全ての撮影を終え、一ヶ月が過ぎるころには雑誌が店頭に並び、CMがテレビで流れ、街中にポスターが貼られるようになった。

 メディアへの露出が増えていくにつれ、女優になってすぐのころに開設したきり使っていなかったSNSアカウントのフォロワーが爆発的に増えて、荒木さんと一緒に事務所で狼狽えてしまった。

「な、なにか投稿したほうが良いかな……」

「と、とりあえず、自分がモデルをやった雑誌やコスメの宣伝はしても良いかもね」

「そ、そうだね」

 二人でパソコンの画面を覗き込み、生唾を飲み込んだ。事務所にも私に関する問い合わせが増えてきているらしく、今まであまり鳴らなかった荒木さんのデスクの上の電話がよく鳴るようになった。

 事務所からの帰り道、赤信号で止まった交差点の奥にある商業ビルのモニターに、先日撮影した『Tutu』のCMが流れている。画面いっぱいに映し出された自分の顔に、「うわっ」と思わず声を上げそうになってしまって、慌てて口元を両手で押さえた。

「祈里ちゃん、美人」

 隣に立った大学生くらいの女の子たちから自分の名前が飛び出して、思わず耳をそばだててしまう。

「今月のライム見た?」

 モデルで参加したファッション誌の名前が挙がった。

「見た、見た! スタイルも良くて憧れる」

 ちらりと横を見れば、スマートフォンのカメラを大画面に向けていて、『Tutu』のCMを動画撮影しているようだった。

まだ実感がない。つい先日まで、知らない誰かから自分の名前が出ることなんて全然なかったから、不思議でしょうがない。自分ではない、誰かのことを話しているのではないかと思ってしまうくらい。

 モニターの中で、夏らしいキラキラとしたデザインが施されたファンデーションのコンパクトを持った私が微笑んでいる。これは夢、だったりしないかな……。


 短編映画の撮影で訪れているアパート。休憩時間に、外の空気を吸おうとベランダに出た。夕日を浴びてオレンジに染まった住宅街が目の前に広がっている。

 日下部くんが持ってきてくれた仕事以降、最近は少しずつ映画撮影以外の仕事も増えてきて、こうやってゆっくりする時間もあまり取れていなかった。ふぅ、と息を吐き出すのとほぼ同時に、手に持っていたスマートフォンが着信を告げ震える。

 ディスプレイを見れば、『日下部梓』と表記されていた。

「見たよ、羽柴の『Tutu』のCM」

  どこか上機嫌そうな日下部くんの低い声が、スピーカー越しに聞こえてくる。

「もっと早く私からお礼を言いたかったんだけど、忙しくてなかなか時間取れなくて……」

「知ってる。どこ行っても、羽柴の顔見るし、名前聞くから」

 すごいな、と日下部くんが笑う。

「すごいのは、日下部くんでしょ。あの仕事がなかったら、こんなにも注目集めてないよ」

「何言ってんの? ここまで反響が大きいのは羽柴だからだよ。想像以上だった」

「そんなこと……」

「確かにブランドのネームバリューはあるけど、こういうのに無名のやつが使われると大抵は反感を買うことのほうが多いんだよ。それまでモデルやってた人気ある奴と比べるから」

と、日下部くんは「正直、賭けに出たところはある」と続けた。

「ここまで好感のほうが大きいっていうのは、羽柴の実力。実際、どれも……」

 日下部くんが何かを言い淀む。

「うん?」

「いや、別に何でもない」

「え、うん。それなら良いんだけど」

 何を言いかけたのか気にはなるけれど、教えてくれそうな雰囲気はなく引き下がる。うん、と日下部くんは頷いたきり何も言わなくなって、静かな時間が流れる。何か話題を出したほうが良いだろうか、それとも通話を切る流れに持って行ったほうが良いだろうか。

 悩んでいれば、「あー……」と日下部くんが脱力したような声を上げるから驚いてしまった。

「日下部くん?」

「ごめん。本当に良かったなって思ったら、気が抜けた」

「え?」

「羽柴がいろんな人の目に留まってくれて、すげー嬉しい」

 喜びを噛み締めるような日下部くんの声に、心が小さく音を鳴らす。

 目を優しく細め、嬉しそうに笑う日下部くんの顔が脳裏に浮かぶ。

 そうだ。いつも日下部くんはそうやって噛み締めるように笑って、私のことなのに自分のことみたいに一緒に喜んでくれていた。今みたいに、「すげー嬉しい」って笑ってくれて……。

 それなのに、私は……。

 ギュッと掴まれたように胸が苦しくなる。

 もう二度と会わないほうが良い。ずっとそう思っていたし、やはり今もそうするべきかもしれない。

 そうしないと、私はまた、日下部くんを傷つけてしまう気がする。

「ねぇ、日下部くん。やっぱり、私たち――……」

「ん? あ、悪い。これから人と会う約束してるんだ。話なら、また今度」

「あ、うん。また、ね」

 通話が切れる。ベランダの柵に手をついて項垂れる。

 もう会わないほうが良いって、言えなかった。

 もし言えてたら、日下部くんは、なんて返してくれたかな。

再会したあの日のように、日下部くんの態度が冷たいままだったら良かったのかもしれない。ずっと私を恨んでいるような素振りを見せてくれていたら、昔の日下部くんと重なって見えてしまうことなんてなかったかもしれない。

 ねぇ、日下部くん。

 今、あなたには、どんな風に私が映っているのかな。

「羽柴さん。そろそろ撮影、再開しましょうか」

 桜井さんの声に思考が引き戻される。「はい!」と返事をして慌てて振り返れば、ベランダへと続く窓際に立った桜井さんが「ゆっくりで大丈夫ですよ」と吹き出し、優しく笑った。

「あ、羽柴さん。今日、駅で羽柴さんのポスター見ましたよ」

 これ、と桜井さんはポケットからスマートフォンを取り出すと、その画面を私に見せてくれる。私のポスターとツーショットになるように、桜井さんがピースをして写っていて、何だか微笑ましい。

「すごく綺麗です。目を奪われました」

 画面から桜井さんへと視線が上がる。目が合った彼は、想像以上に真剣な目をしていて、どきりと心臓が音を鳴らした。

「こ、これ、カメラマンさんがすごく上手に撮ってくれたんですよ!」

 私もびっくり、とわざと冗談めかして返す。

「僕も、このポスターや『Tutu』のCMに負けないように、羽柴さんの魅力を引き出していきますね」

 ふわりと桜井さんが、いつものように柔らかく笑う。

「それじゃあ、みなさん。撮影再開しまーす」

 桜井さんが部屋の中を振り返ると、スタッフさんたちに呼びかける。撮影中、よく見かける姿で、いつもの空気に戻っていく。

 初めて会った日に言われたのと同じように、桜井さんのさっきの発言は、お世辞だったのだろう。スタッフさんや、相手役の藤吉さんを褒めているところも、この撮影中に何度も見かけている。きっと褒めて伸ばすタイプの人なのだ。

 そう思うと、一瞬でも好意を向けられているのではないかと思った自分が恥ずかしい。

「よろしくお願いします!」

 気持ちを入れ替えるために頬を軽く自分の両手で叩いたあと、桜井さんの呼びかけに応える他のスタッフさんたちに続いて、私もいつもより大きな声で応えた。


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