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第四話 新しい世界へ

 相手役の俳優さんとも合流し、挨拶を済ませ、台本の読み合わせも順調に終わった。翌日からは、桜井さんが借りたアパートの一室で本格的な撮影がスタートして、物語が少しずつ作り上げられていく。

 演技に対して細かく要望や指導が入るのは初めての経験で、勉強になることばかりだ。新しいことの連続に心が弾む。楽しいと感じたのは、何年ぶりのことだろう。

「良い顔してる」

 撮影終わりに電話で日下部くんに呼ばれ、訪れたマンション。淹れてくれたコーヒーを一口含んだとき、急に日下部くんにそう言われ、思わず咽そうになった。

「なに? 急に」

「桜井がお前のこと褒めてたから。撮影、順調そうだな」

「まぁ、順調かな。あ、そうそう。桜井さん、日下部くんの大学の後輩なんだってね」

今日聞いた、と続ければ、日下部くんは軽く頷く。

「梓先輩は優しいって言ってたよ。可愛い後輩なんだね」

「まぁ……」

 曖昧に肯定する日下部くんに対して、意外だ、と出かかった言葉を無理やりコーヒーと一緒に飲み込んだ。からかってるのか、と正直怒られるかと思ったから、曖昧でも可愛い後輩であると認めたことに驚いてしまった。日下部くんがこの役を手に入れてきてくれたとき、私に対して、「桜井に迷惑をかけるな」と言った言葉は、彼の本音だったのだろう。

「それで、本題なんだが」

「ああ、そうだった。話って?」

「仕事の提案だ。先方と荒木さんには軽く話を通してある」

「うそ、あれって本気だったの?」

「なんで冗談だと思うんだよ」

 不機嫌そうに日下部くんの目が細められる。

「だって、代表作もないのよ、私」

「それはプロデュースが悪かったんだよ。別に、荒木さんを否定するわけじゃないけど。女優やタレント、何にだってジャンルはあって、羽柴の魅力を最大限活かせる場所は絶対にある。羽柴や荒木さんは、それをちゃんと分かってなかったんじゃないか?」

「……それは、確かにそうかもしれない」

 とにかく何でも良いから役が欲しくて、手当たり次第、オーディションを受ける日々だった。とにかくお金が欲しいってことにばかり思考が持って行かれていて、自分の魅力なんて考えたこともなかった。

「羽柴ももう知ってると思うけど、芸能界は厳しい。この仕事しかないって思うなら、これなら誰にも負けないってことを見つけて、とことん売り込むしかない」

 そこでだ、と日下部くんはテーブルの上にいくつかの書類を並べる。

「ここ数年、注目を集め、息が長い女優っていうのは、異性だけじゃなく同性からも絶大な支持を得ている者が多い。羽柴は顔も綺麗だしスタイルも良いから、絶対そっちの方向で売り出すべきだ」

 真っ直ぐな瞳とストレートな言葉で日下部くんに「綺麗」と言われると、妙にくすぐったい気持ちになる。顔は赤くなっていないだろうか。顔がつい下を向いてしまう。

「分かりましたって言うのも、なんだか私が言うのは複雑なんだけど……。ナルシストみたいで。まぁ、それは置いておいて……この書類はなに?」

「俺が投資してるコスメやファッション系の会社だ。羽柴を使っても良いって言ってくれてる」

 視線を書類へ落とす。知らない企業名が書かれているものが多いが、いくつか有名なファッション誌やコスメブランドの名前も見える。「うそ……」と思わず呟いてしまえば、

「良い話を持って行くって言っただろ」

と、日下部くんはいらずらっぽく口角を上げた。日下部くんが持っている人脈の太さや、無名の私を使っても良いと言わせるほどの何かがあることに驚きを隠せず、「一体何者なの」と心の声が口から溢れ出た。


 一週間も経たないうちに、日下部くんから貰った話はあっという間に私のスケジュールを埋めていった。

 映画撮影と並行して、ファッション誌のモデル撮影やジュエル、コスメのCM撮影に挑む。

「日下部さんから話は聞いていたけど、まさか本当に仕事になるなんてね」

 びっくりだよ、と撮影現場まで送迎してくれた荒木さんはとても嬉しそうで、「これをバネにしていこう」と私の背中を励ますように優しく叩いた。

 スマートフォンがメッセージを受信して震える。送り主は日下部くんで、「堂々と胸を張れ」とだけ書かれていた。

 今日は、二十代からの支持を集める人気コスメブランド『Tutuチュチュ』の撮影が入っている。夏の新作コスメの発売が決まり、日下部くんが取り合ってくれたお陰でモデルに起用されることになった。いつか私も使ってみたいと憧れていたブランドだったから、とてもうれしい。

 撮影前に通されたメイク室で、プロのメイクさんに新作コスメを使ってフルメイクをしてもらい、いつもはストレートに下ろしているだけの髪も綺麗にセットされる。緩く巻かれたヘアスタイルは新鮮で、メイクをさらに美しく際立たせる華やかさがあって感動した。

 用意されていたシンプルな衣装に着替え、スタジオに入る。「おはようございます」と入り口で挨拶をすれば、そこにいたスタッフたちの視線が一気に私に向いた。

 品定めするような視線に怖気づきそうになるのを、奥歯を噛んでギュッとこらえる。日下部くんから送られてきた「胸を張れ」というメッセージを思い出して、一度ゆっくりと息を吸い込んで吐き出した。顎を引いて、肩が丸まらないように意識する。頭の先を糸で引っ張られているように背筋を伸ばせば、狭くなりかけていた視界が、一気に明るく広がったような気がした。今日、私は生まれ変わるような予感がする。


「これで撮影は終わりです。お疲れさまでした」

「お疲れさまでした。貴重な経験をありがとうございました」

「日下部さんが羽柴さんを僕たちに推薦した意味が分かりました。素晴らしかったです」

 今回、『Tutu』のプロモーション撮影のカメラマン兼監督を務めた男性に、そう握手を求められ、一瞬戸惑ってしまう。そんなことを言ってもらえるのは初めてで、本当に私に向けて言われた言葉なのか、うまく頭が理解してくれようとしなかった。

 そのあとも、メイクさんや照明さんたちに、「綺麗でした」、「美しかったです」とすれ違う度に言われ、褒められ慣れていない子どものようにソワソワして、顔に熱が集まってくるのが分かる。早く荒木さんのところに行って落ち着きたい、とスタジオの中をキョロキョロと探していれば、隅のほうで立っている荒木さんを見つけて走り寄った。

「荒木さん、早く帰ろう」

「……」

 おーい、といつだったか桜井さんにやったのと同じように、荒木さんの顔の前で掌をひらひらとさせる。荒木さんはゆっくりと私へ焦点を合わせると、「見て、これ」とワイシャツの袖を捲って腕を見せてきた。

「鳥肌、立ってる」

 俺の知らない祈里ちゃんがいた、と言う荒木さんの顔は、今まで見たことがないような、形容しがたい顔をしていた。

撮影には「うまくできた」という手応えは確かにあったけれど、みんなにそこまで絶賛されるような何かがあったかどうかは、私には分からなかった。


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