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第二話 驚きの提案

 今まで得たどんなお金よりも、今封筒に入っているこの十万円はとても重く感じる。日下部くんに言われたことが、ずっと心に残っているからだろうか。


――日下部さん。確かに厳しい人だけど、あんな風に言うのは珍しい。


 あの日の帰り道、荒木さんが困ったように私にそう言ったからだろうか。

 都内にある雑居ビルの三階。突き当りの部屋。闇金融から指定された支払い期日、私は十万円が入った封筒を胸に抱いてその扉を開けた。

 煙草の煙で満ちた部屋は白っぽく、苦い香りがする。


「全然、足りてない。俺は、今日までに五十万持ってこいって言ったよな」


 バンッと大きな音を立てて、封筒がガラステーブルに叩きつけられる。胸元が大きく開いた黒シャツに、黒いスーツを着た男……東間環とうまたまきは、ソファーにどっかりと座り、くわえていた煙草の煙を吐き出した。


「すみません。でも今は、これだけしかなくて……。今回の仕事が終わったら、あと十万入ります。残りのお金も、何とかして集めてくるので……」


「祈里、お前、女優やってんだっけ? もうやめちまえよ。そんな金にならねー仕事」


 吸い始めたばかりで、まだまだ長い煙草を東間は勿体ぶることなく灰皿に擦り付ける。ぐにゃぐにゃに曲がった煙草が、いくつも灰皿に並んでいた。


「顔と体だけは上等なもん持ってんだから、もっと金になる良い仕事教えてやろうか?」


 そう言って立ち上がると、東間は私の隣に移動してきて、頬をぐっと掴んで強引に私の顔を振り向かせる。首にピリピリと痛みが走った。


「それなら簡単に金も返せるぞ?」

「やめてください……」

「でも、お前もろくに返済できねーなら、またお前の大事な大事な母さんに取り立てに行かないといけなくなるなぁ」


可哀想に、東間がわざとらしく眉を下げる。顔から血の気が引いていくのが自分でも分かる。


「それは! それだけは、絶対にやめてください……!」

「まぁ、俺も祈里をいじめたいわけじゃないからな。一つ、考えてやってもいい」

「きゃっ、」


 視界がぐるっと回る。下品なシャンデリアがぶら下がった天井が見えて、東間がにやっと口角を上げて私を見下ろしている。背中を嫌な汗が伝った。


「今夜一晩、俺の相手をしてくれるならこの十万は返さなくていい。そのままお前にやるよ」


 Tシャツがたくし上げられる。腹回りを這う東間の手に、ぞわぞわと悪寒が走った。


「いやっ、やめて……っ」

「俺が十万でお前を買ってやるっつってんだよ」


 ソファーに押さえつけられた体は、体格差のある東間から抜け出すなんて不可能だ。私には、何もない。失うものも、何もないけれど、日下部くんから受け取った十万円が、私の体に変わってしまうことが、どうしても許せなかった。


 まだ動かせる右手で、何かないかと手探りで探す。指先に、冷たく硬い何かが触れる。これなら……。


 それを無理やり引き寄せて掴み、東間の頭目掛けて思い切り叩きつけた。視界に曲がった煙草が舞って、灰皿であることに気付く。


「いってぇ! 何しやがる……っ」


 頭を抱え体を起こした東間の隙を見て、東間の体の下から抜け出す。


「祈里! テメェ、待て!」


 掴まれる腕を振りほどいて、乱れた服を整えるよりも先に、入ってきた扉へと無我夢中で駆け出した。ドアが閉まる直前、頭から血を流す東間に一瞬怯みそうになった心を奮い立たせて。


 エレベーターは、待っている間に追いつかれて捕まるかもしれない。薄暗い階段を一階まで駆け下りて外へ飛び出す。少しでも早く、この場所から遠くに行きたい。横断歩道があるけれど、赤信号で数十秒待つ時間ですら惜しい。


 甲高いブレーキ音が響く。ヘッドライトの真っ白な光に目が眩む。ドンッと横から誰かに強く押されるような衝撃が体を襲う。突き飛ばされるような形で、その場に倒れ込んだ。


「大丈夫か……って、お前、」


 日下部くんの声がする。


「救急車、すぐ呼ぶから……」

「待って、呼ばないで」

「は? なに言って、」

「私は大丈夫だから。ちょっと打っただけ。日下部くんの車、止まる直前だったし」


 だから、と続ける。


「救急車呼ぶ代わりに、私を車に乗せて」


 日下部くんに縋りつくように立ち上がった私が、困惑した日下部くんの瞳に映る。演技でもこんな必死な顔ができたら、もっと早く、自分の実力で良い役がもらえたのかな。



「本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫よ。少し遠くのネットカフェとかで下ろしてくれたら」


 バックミラー越しに日下部くんと目が合う。彼は眉根を寄せていた。


「大体、あそこ、闇金の事務所だろ? 何であんなところ……」

「余計なお世話。もういいから、どこかで下ろして」


 詮索されては面倒くさい。日下部くんにヘルプを求めたことが間違いだったかもしれない。


「ほっとけるわけないだろ。大体、あのときだって俺は、納得してなくて」


 途中まで言いかけて、彼は「しまった」という表情とともに口をつぐんだ。

「やっぱり、私のこと、覚えてたの?」

「もういい。お前のことなんて忘れたんだ、俺は」

「どっちなのよ……」


 溜息が零れる。車の窓を流れる景色に、目が疲れる。瞳を閉じれば、鼻の奥がツンと痛くなった。泣きたくなってしまったのは、なぜだろう。

 こんなときに、日下部くんと手を繋いだあの日を思い出してしまったのは、なぜだろう。



「って……なんで、日下部くんの家に連れてくるかな……」

「何かあってからじゃ寝覚めが悪いだろ。そもそも轢いたのは俺だし、手当てくらいさせろ」

「あれは私が飛び出したから」

「人が飛び出してくるかもしれないって思って運転しろって教習所で習うだろうが」


 何も言わない私を、日下部くんは「もしかして、免許をお持ちでない?」と言いながら振り向いた。頷いてみせれば、「そっか」と納得したように彼もまた頷く。


 前来たときはじっくりと見る暇がなく気付かなかったが、日下部くんの部屋はモダンな家具でそろえられていてとてもおしゃれだ。さっきまでいた闇金融の事務所とは全く違う、ルームフレグランスか何かの甘い香りがほのかに漂っている。


「病院、本当に行かなくていいんだな?」

「うん。明日から撮影が始まるの。桜井さんの映画。迷惑はかけたくないし、腰を打ったくらいだから大丈夫」

「それなら、せめて冷やしとくか……。ソファーにうつ伏せになって」


 日下部くんに促されて、素直に真っ白で大きなソファーの上にうつ伏せになる。

 私の家にあるベッドよりも寝心地が良い。きっと順調な人生を歩んでいるんだろう。胸の奥がジンと熱くなって、奥歯をぐっと噛み締めた。

 広いアイランドキッチンの奥で、冷蔵庫を開けたりしていた日下部くんは、しばらくすると私の傍まで戻って来た。


「服、めくるぞ」

「どうぞ」


 そっとシャツがめくられる感覚。ひんやりとした空調が背中に触れたあと、もっと冷たい何かが当てられて、「ぎゃっ」と可愛らしくない声が口から溢れ出た。


「冷やしたタオル当てとく。悪いな、もうアザになってる。俺のせいだ」


 あ、と言いかけて、続きはそのまま飲み込む。きっとそれは、さっき車にぶつかったことが原因ではなく、借金取りに暴力を振るわれたときにできたものだ。日下部くんのせいじゃない、と言いたかったけれどそれを言う前に、先に口を開いたのは日下部くんのほうだった。


「やっぱり、良い」


 ぼそりと呟かれた言葉が理解できなかった。「良い」? 「良い」って言った?


「え……なに?」

「この腰のクビレ、最高じゃないか? 服を着てたときは気付かなかったが」

「ちょっ、撫でないで!」

「こんな綺麗な腰に、アザを作るなんて、俺は本当になんてことを……」


 私の腰をなぞる日下部くんの指から逃れるように、慌てて体を起こす。振り向いた先、ソファーの横に腰を下ろしている彼は、本当に落ち込んでいるように顔を覆っていた。


(一体、何なの……)


「悪いけど、そこに立ってみてくれるか?」


 落ち込んでいるのかと思えば、今度は立てと言われる。


「え? 立つの?」

「早く」

「……こう?」


 ソファーから起き上がり、日下部くんに見えるよう壁際に両手を体の横にそろえて立ってみる。


「服が悪いのか? 全然、魅力がない」

「急にディスらないでよ」


 顎に手をやり、じっと私の体を見つめる日下部くんの視線に、居たたまれなくなって目を逸らした。


(日下部くんって、こんな人だったっけ……)


 長い沈黙のあと、「羽柴」と日下部くんに名前を呼ばれる。「なに?」と視線を戻せば、真っ直ぐに私を見つめる瞳とぶつかった。


「金に困ってるのか? あの頃から、ずっと」

「……関係ないでしょ。日下部くんには。あのときも言ったけど」

「困ってるなら、俺が……」

「絶対にやめて。これは私の問題なの」


 日下部くんを、私の家の事情に絶対に巻き込みたくない。あの日、そう決めたんだ。日下部くんの幸せを、私は願っていたから。


「それなら……」


 日下部くんが続ける。低い声が一層、ぐっと低く落とされた。


「ビジネスとして、俺は羽柴と組みたい。女優として、お前をトップに立たせてやる」


 長い前髪の下。日下部くんの切れ長の目が、私を捉えて放さない。

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