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第三話 監督・桜井瞬

 東間やその取り巻きがアパートの周辺で待ち伏せしているかもしれないから、その日は帰ることは諦めて、日下部くんが住むマンション近くにあるネットカフェで一夜を過ごすことにした。

 フラットタイプの部屋は、窮屈だけれど横になることができた。


――女優として、お前をトップに立たせてやる。

――近いうちに、良い話を持って行く。


 目を閉じながら、日下部くんの言葉を思い出す。ウエストラインを褒められたと思ったら、急にそんなことを言われて意味が分からない。女優として全くの無名である私を、彼はどうやってトップにまで持って行くつもりなのだろう。


 日下部くんの真剣な瞳を思い出して、胸が高鳴りかける。思わず目を開けてしまう。いやいや、とかぶりを振って、寝返りを打った。

 明日からは桜井監督の下で撮影が始まる。分からないことを考えるよりも、まずは目の前のことに集中しなくては。日下部くんのコネを使って得ることができた役だったとしても、全身全霊で打ち込みたい。借金返済という不純な動機から始まった仕事ではあるけれど、女優として役に真剣に向き合いたい。

 少しでも体を休めるために、もう一度、今度はしっかりと目を閉じた。



 翌日、事務所の前で荒木さんと待ち合わせをして、事前に教えてもらっていた撮影スタジオへと車で向かう。


「着替え持ってきてって言うから、何かと思えば……。なんで、昨日と同じ服なの?」


 後部座席で着ていた服を脱ぎ、荒木さんに見繕ってもらったクラシックワンピースに袖を通す。バックミラー越しに目が合った荒木さんは、怪訝そうな顔をしていた。まともな楽屋もない現場にばかり入っているから、私の着替えなんて荒木さんは見慣れてしまっているようだった。


「ちょっとね。色々あったの」

「色々って。まぁ……もう、祈里ちゃんも大人だから、別に良いけど」

「やだ、違う。そういうのじゃないから」


 東間に襲われたことや日下部くんの車に轢かれたことなどをごっそり省いて、昨日あったことを説明すれば、荒木さんは珍しく眉間に深く皺を寄せた。


「つまり、ヤクザに家の周りを張られてるかもしれないから、帰れなかったってことでしょ? それならまだ、男の家で一晩過ごしてるほうがマシだった」

「ごめんね、いつも心配かけて」

「まぁ、そういう祈里ちゃんで良いって言ったのは俺だし。次からはネットカフェじゃなくて、事務所に泊まりな。連絡してくれたら鍵、開けるから」

「うん。荒木さん、ありがとう」


 いいよー、と、いつものように軽くて朗らかな返事が返ってくる。バックミラーから見える荒木さんの眉間には、もう皺はなくなっていてホッとした。

 もうすぐ着くよ、と言われ、ワンピースや髪形に乱れがないかを確認する。第一印象を大切に、と事務所に入ってから何度も荒木さんに教えられてきた言葉を胸に刻んで、口角を意識してキュッと上げた。



 小さな撮影スタジオのエントランスで、その人、桜井瞬さんは出迎えてくれた。


「桜井監督、この度はうちの羽柴を起用してくださり、ありがとうございます」

「いえいえ、僕にとっても、とても有難いお話でしたから」


 荒木さんに対し眉を下げて笑う顔には、まだどこか幼さが見える。

 桜井さんは、想像していたよりも随分と若く、驚いてしまった。「駆け出しの監督」だと日下部くんからは聞いていたし、若い人だろうとは思っていたけれど、十代後半にも見える容姿だ。


「ほら、羽柴。挨拶して」

「あっ、はい! コスモプロダクション所属、羽柴祈里です。よろしくお願いいたします。この度は、貴重な機会をいただき、ありがとうございます」


 荒木さんに促され、慌てて頭を下げる。

 しかし、何拍か置いても、桜井さんからは何も返ってくる気配がなく、おそるおそる顔を上げた。桜井さんが、じっと私を見ている。長い沈黙が流れる。一体、これは……?


「あの……」


 私より頭ひとつ分ほど背の高い、桜井さんの顔の前で、掌をひらひらと振ってみる。すると、桜井さんはハッと意識を取り戻したように体を半歩引くと、「いや、あの、」としどろもどろに「桜井瞬です。よろしくお願いします」と頭を下げてくれた。そして、ぎこちない手振りでスタジオの奥を指し示す。


「どうぞ、中へ。これからの撮影のこと、説明しますね」

 先を歩く桜井さんの背中から、荒木さんへと視線を移す。荒木さんは、しばらく何かを考えたあとに合点がいったようで、「さすが祈里ちゃんだなぁ」とからかうように笑った。何のこと? と聞き返してみたけれど、「いいや?」とはぐらかされるだけで、荒木さんは何も教えてはくれなかった。



 桜井さんが撮影しようとしている短編映画は、長く同棲しているアパートの一室を舞台に、彼氏と彼女の価値観の違いや惰性、妥協、愛情を描く恋愛ものなのだそうだ。

 その彼女役を私が演じ、相手役は、最近発売された清涼飲料水のCMで注目を集めている俳優さんだった。今日は、別の撮影が押しているらしく、一時間ほど遅れて来るらしい。

 桜井さんの話を聞いている途中、荒木さんは誰かから電話がかかってきたようで、席を外した。

 桜井さんに通されたスタジオの中には、大きな傘みたいな照明が二つと、アンティーク調の椅子とテーブル、観葉植物や花がいくつか飾られている。映画の撮影で使うようには見えない。それに気付いたのか、桜井さんは「撮影はアパートを一室借りてるので、そこでやります」と教えてくれた。


「実は台本も昨日完成したばかりで。今日から撮影って言ってたのに、段取り悪くてすみません」

「いえ、私は全然大丈夫ですよ」

「彼氏役の藤吉ふじよしさんが来たら、読み合わせしましょう」

「はい」

「それまで、カメラテストで羽柴さんのこと、少し撮影しても良いですか?」

「もちろんです」

「じゃあ、そこに立ってもらって……」


 指示されたように、色とりどりの花が飾られた中に立つ。

 大きな撮影用のカメラ越しに桜井さんと目が合った気がした。


「まさか、こんなに綺麗な人が来るとは思ってなくて、驚きました」


 照れたように桜井さんがカメラを回したまま笑う。


「マネージャーさんが送ってくれた宣材写真とか動画、見てたはずなんですけどね」

「そんなに褒めても何も出ませんよ?」

「あ、もしかしてお世辞だと思ってます?」

「はい」

「お世辞じゃないですよ。僕、今、すごく困ってて。どうやったら、羽柴さんの美しさを損なわずに撮影できるだろうって」


 桜井さんがカメラから顔を上げる。腕を組んで考え込む姿に思わず笑ってしまった。


「梓先輩も、すごい人紹介してくれたな……」


 私と同い年の日下部くんのことを「先輩」と呼ぶということは、桜井さんはやはり年下で間違いないだろう。自分よりも年下の相手に上手なお世辞を言われるなんて思ってもいなかった。桜井さんはきっと、初対面で、女優としての経験が少ない私を、ほぐしてくれているのだろう。優しくしてもらった分だけ、しっかりと期待に沿える演技で返したい。視線をください、と言われ、カメラを見る目にも熱がこもる。

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