天清神仙と妖王の密通に始まり、その混乱に乗じた沈栄仁と夏炎輝による謀反など信じられないような話が次々と起こり、混乱を極めていた仙界だったが、天帝の命によりその落ち着きを取り戻した。
華南夏派は新宗主を立て、天清沈派は行方不明となる前に残されていた沈楽清の書簡により、死んだ陸承に代わり、白秋陸派の陸貴が新宗主となることが決定した。
天清沈派内部ではこの決定を快く思わない者は多かったが、前宗主である沈栄仁と江陽明が罪人となり、陸承が彼らに殺されてしまった今となってはもうどんな決定にも逆らうことなど出来なかった。
「では、新しい宗主が二人もいることですし、最初は自己紹介からお願いできますか?」
月に一度開催される宗主が集まる会議が開かれ、風金蘭が新しい宗主二人に声をかける。
「華南夏派の夏黄河と申します。」
「天清沈派の陸貴と申します。」
夏炎輝に外見も中身もよく似ている夏黄河に「いつも大会ではご活躍ですわね」と声をかけ、風金蘭は扇で口元を覆って陸貴に「よろしくお願いします」と微笑んだ。
陸壮とよく似た怜悧な美貌ではあるが、どこか意志薄弱そうに見える陸貴にどうして陸壮が彼を今まで天帝の身代わりとしていたかを理解する。
これから苦労しそうですことと内心ため息をつきつつ、難しい顔をして座っている自分の正面の男の顔を見る。
風金蘭の視線を受け、陸壮は嘆息すると立ち上がって天帝に近づいた。
「天帝。この者達が新しい宗主となります。どうか一言賜りますようお願い申し上げます。」
天帝が座る玉座までの階段をゆっくりと登り、彼の身体を隠すように覆う幾重ものドレープ状の布を上げ、陸壮が中に入って行こうとしたその瞬間。
ヒュッと風切り音が室内に響き、椅子に座っていた天帝の身体がぐらりと傾いて前のめりに床に落ちた。
「天帝?!」
床に落ちた男に間近にいた陸壮が駆け寄り、その身体を抱き起す。
しかしその左胸に深々と矢が刺さっていることに気がつき、陸壮は大声を出した。
「天帝が殺された!」
目の前の出来事についていけず、唖然とする夏黄河とやや無感情で父親を見つめる陸貴。
その横で風金蘭が「何ですって?!」と芝居がからないように注意しながら声を上げた。
かつて夏炎輝の演技がひどいと笑ったことがあったが、実際にやってみるとなるほどこれは難しいなと風金蘭は実感する。
「一体誰がこんなことを?!」
風金蘭のその言葉でようやく事態が飲み込めた夏黄河は風切り音がした方を振り返った。
いつの間にか部屋の入り口に立っていた一人の全身をすっぽりと外套衣で覆われた男に注目する。
手には弓を持っており、それが天帝を射た獲物だと夏黄河は悟った。
「お前は誰だ?!外にいた護衛達はどうしたんだ?!」
天帝の間に来るまでの間は多くの人であふれ、更にはここの門番には各家の腕利きを集めている。
その中には自分の弟もいたはずなのにどうして?まさか・・・と夏黄河は嫌な想像に顔を歪めた。
「・・・少し眠っていただきました。無用な殺生は避けたかったもので・・・」
少し高めの物静かな声が室内に響く。
その聞きなじみのある声に「・・・天清神仙?」と風金蘭が恐る恐る声をかけた。
その声に応えるかのように沈楽清は外套衣を取る。
鳶色の豊かな髪にあどけない少女のような可愛らしい顔。
いつもと同じ白い服。
しかし、明るい琥珀色だった瞳が、今は血のような赤へと変質していた。
「・・・その目は・・・?」
兄のところへよく遊びに来ていた天清神仙と顔見知りだった夏黄河が沈楽清に問いかける。
「ああ、これですか?私は妖王に妖族にしてもらったのですよ。」
私はもう彼のものなのでと嫣然と微笑んだ沈楽清は手を軽く振る。
その簡単な仕草にもかかわらず、ドンっという音と共に、部屋の壁に大きな穴が空いた。
彼の手に残る赤い光からは妖気が立ち昇っていて「ね?」と沈楽清は妖しい笑みを浮かべる。
「仙根を妖根に変えるなど、そんなことあるわけが・・・」
「不思議ではないでしょう?なぜ妖族と通じるのを禁じていると思っているのです?何度も彼と契り、彼のものをここで受け止めているうちに・・・」
いつもの彼が纏っていた清廉な雰囲気はもはやどこにもなく、淫靡な笑みを浮かべて沈楽清は自身のお腹をそっと押さえる。
「お前の話などどうでもいい!なぜ天帝を殺した?!」
陸壮の怒声に沈楽清はそちらを冷たい目で睨みつける。
「死んだ兄たちはずっと天帝はいらないと言っていました。私はその遺志を継いだだけのこと。」
「一体お前は何を言っているんだ?!天帝はいらない?!どうしてそんなことを・・・?」
「だって・・・ほんの一時期妖族の討伐に出ていた時期もあったそうですが、その男がこの三百年一体仙界に何をしてくれたというのです?ただそこに座って眺めていただけではありませんか。多くの仙人が妖族に殺されても何もせず・・・今回だってそう。私が妖王と通じていても六年もの間気がつきもせず、私の兄の正体も見破れなかった。兄たちを処分したのも白秋陸派でしょう?ではその男は一体仙界に何をしてくれたんですか?それに、本来はとても強いはずなのに・・・こんな私の一撃で殺されるようなか弱い存在だったなんて。彼は私と同じ神ではなかったのですか?」
理路整然と淡々と言葉を並べる沈楽清にしばらく言い返す言葉が見当たらず、四家の当主はそのまま沈黙した。
今までの経緯を考えても、確かに天帝が表立って動いたことなどないと夏黄河もそう思い至る。
「しかし!それでも天帝は・・・!」
「いつまでお飾りが必要なのですか?自分たちでやっていけるはずなのに!天帝と天帝の側仕え。そんな制度があるからおかしくなるのです。沈家の前の張家だって、天帝と交わることが無ければ今でも仙界で薬師として活躍していたことでしょう。父も天帝と関わらず、一宗主のままならばきっと今も生きていた。風桜蘭殿もです。結局はそんなおかしな制度で全員の運命が狂ってしまっただけではありませんか!私も・・・私もそのせいでずっと閉じ込められて生きて来た。ただ神仙というだけで!」
「・・・天清神仙・・・」
「風宗主。貴女は私に良くしてくださいました。夏黄河殿も。陸壮殿。白秋陸派とは私の夫との間に浅からぬ因縁がありますし、貴方からは私は蛇蝎の如く嫌われていたと思っていますが、もう個人的な恨みなど捨てましょう。兄たち三人の件も今さら言っても詮無いこと・・・」
沈楽清は一呼吸置くと、その場にいる全員に宣言した。
「私は妖王の妻としてこれから妖界で生きていきます!私と妖王の力は皆さまご存じでしょう?」
逆らうなと暗に脅しつける沈楽清に夏黄河が唇を噛む。
「私たちからの要望は二つ。二度とお互いの世界に干渉しないこと。もう一つ。たとえ生まれつき仙根を持つ子が生まれても二度と天帝として擁しないことです。もしも違反を見つけた場合は・・・私と寒軒がその子を殺す。」
「・・・わかりました。」
「陸貴?!」
「わかりました。仙界は貴方のその言葉に従いましょう、天清神仙。」
息子のその言葉で天帝の身体を離して陸壮が彼に駆け寄り、その胸蔵を掴み上げる。
「貴様!一体何を!」
「・・・父上。天帝が殺され、この仙界でも抜きんでた実力者だった夏炎輝と沈栄仁、江陽明ももういません。今の仙界などその気になれば天清神仙と洛寒軒だけで滅ぼせてしまう。それに対抗しようなど愚かの極みです。彼らの要望が仙界を牛耳ることであればもちろん抵抗しますが、天帝を擁しないということだけならば容易いではありませんか。」
静かに答えた陸貴は、父の手を離させると沈楽清に向かって一礼した。
「従いましょう、天清神仙。以後は四家・・・いえみんなで話し合い、この仙界をおさめていきます。」
打ち合わせをしていなかったはずの陸貴の真摯な態度に、ああこの人もまた全てを知っているのか、と沈楽清は彼に同情した。
『沈楽清』が天清山の屋敷に閉じ込められてきたのと同じ期間、彼もまた天帝のふりをするために、天帝としてここに閉じ込められてきた存在だった。
「風家もそれに従いましょう、天清神仙。私はたった一人の娘を失いました。天帝を擁すればいずれは花嫁が必要になる。もうあのような思いをする者は出したくありません。」
風金蘭が追随し、夏黄河もそれに頷く。
「今、論じれるほどの知識が宗主になったばかりの私にはない。もしもいずれ異論があれば、直接貴方か妖王に話をさせてもらう。よろしいか?」
「もちろんです。」
三家の当主と沈楽清は陸壮を見る。
四人の視線を感じた陸壮はぐっと拳を握りしめると苦々しい声で「わかった」と承知した。
それを見て、沈楽清が扉に向かって身を翻す。
扉の向こうで待っていた黒衣の男の腕に納まった沈楽清はそのまま姿を消し、彼が二度と仙界に戻ってくることは無かった。