「蒼摩。」
次期宗主となる夏黄河に名前を呼ばれた夏蒼摩はその泣き腫らした目を寝台から上げた。
「・・・まだ泣いているのか、蒼摩・・・」
「だって、炎輝兄様が・・・栄仁様と一緒に謀反を起こそうとして死罪になるなんて・・・遺体すら返してもらえないなんて・・・」
「蒼摩・・・」
「そもそも死んだはずの栄仁兄様が生きていたとか一体どうなっているんですか?!あの真っすぐで誰より義侠心に熱い炎輝兄様が、どうしてこんなことに・・・」
そのまま泣き崩れる弟へ近づいた夏黄河は夏家の人間だと証明する自分と同じ赤い髪をそっと撫でた。
「私だって信じられない。ただ似ているから寵愛していたと思っていた玄肖殿が本物の栄仁様だったというだけでも驚きなのに。二人と江陽明が手を組んで天清神仙を攫って謀反・・・その中でよりにもよって陸承殿を殺すなんて・・・もう一体何がどうなっているのか・・・幸いにも天帝が夏家に恩赦を与えてくれて私が宗主を継げることにはなったが・・・その分、二度と兄様達の名を公に出す訳にはいかなくなった。真相を明らかにすることも諦めた方が良い。そうでなければ華南夏派が終わる。いいな、蒼摩。」
「・・・はい・・・」
嗚咽を漏らしながらもしっかり頷いた夏蒼摩に、お前はいい子だと頭を撫でた夏黄河は弟の夏架緑に呼ばれて、夏蒼摩の部屋を出て行った。
残された夏蒼摩はしばらく泣き真似を続けていたが、近くに誰の気配もないことを確認し、ぴたりと泣くのを止める。
「ばっかみたい・・・玄肖が沈栄仁だって、ちょっと注意して見ていれば誰でも分かるのに、なんで誰も気がつかないのか・・・炎輝兄様もあんなに愛してるって言いながらさ。まぁ、解放してやった後に兄様の側を離れなかったのは意外だったけど・・・」
夏蒼摩の中の沈栄仁という人は弟の沈楽清至上主義の人だった。
弟のために前妖王に汚され、弟のために妖王に殺されかけ、弟の側にいるために地位も名誉もかなぐり捨てて玄肖という別人になった。
「一生、兄様に関わらなければ、あいつは許してやっても良かったのに・・・」
それなのにちゃっかりと夏炎輝に近づき、玄肖のまま愛されようとしている彼が許せなかった。
だから沈栄仁を罠にはめて彼の最愛の人である兄に乱暴させた上に監禁させ、二人をこのまま仲違いさせるつもりだった。
予想では沈栄仁は夏炎輝を捨てて沈楽清を救いに来て、そこで殺されるはずだったのにと夏蒼摩は親指の爪を噛む。
「炎輝兄様まで死なせるつもりじゃなかったのに・・・」
「そうか。私は殺すつもりじゃなかったのか。その言葉で少しは安心した。」
ふいに窓の方から声が聞こえて、夏蒼摩は寝台から飛び起きた。
「お静かに、蒼摩様。」
そのまま部屋の入り口を目指そうとした蒼摩の首筋にピタリと剣が当てられ、夏蒼摩はその相手を鬼の形相で睨みつける。
「沈栄仁・・・!」
「・・・お久しぶりです、蒼摩様。」
僅かにその瞳に悲しみが浮かんだ沈栄仁の目を見て、夏蒼摩はハハッと笑うと窓辺に佇む自身の兄の方へ顔を向けた。
「大事な弟が剣を向けられているのに、そうやって見て見ぬふりするんですか?炎輝兄様。あなたも彼らと同じで弱い人間を見捨てる側だと?」
「・・・蒼摩。もう私たちは死んだ身。だからお前を殺すために来たんじゃない。最後に話をしに来ただけだ。」
淡々と感情を切り離した声で話す兄にハッと嘲った夏蒼摩は大声を出す。
「ほら、今に人が・・・」
しかし何度叫んでも誰も来ないことで、夏蒼摩の顔に焦りが見え始めた。
「・・・そんな、どうして・・・?」
「貴方は私たちを調べていた。でも、一番大切な前提が欠けていたんです。」
楽清と沈栄仁が名を呼び、その場に金聯を掲げる。
「栄兄。結界は維持できてる?」
「上出来です。」
沈家兄弟二人の会話に「ありえない」と夏蒼摩は呟いた。
「通信先から結界を張った?そんなの普通出来る訳が・・・」
「出来るんですよ。途方もない神気を持つ天帝と同じ存在の天清神仙であれば。かつてこれは天帝が私の父に持たせたものでした。どこにいても父を守るため、天帝は側にいないときはこれで常に結界を張って彼を守り続けた。今回はそれの応用です。」
「まぁ、視覚で対象物を捉えない限り無理なんだけどね。という訳で初めまして。夏蒼摩殿。天清沈派元宗主の沈楽清と申します。兄と洛寒軒から貴方の事は聞きました。その上で貴方に一つお聞きしたい。一体私が貴方に何をしたというのですか?」
金聯越しに疑問をぶつけた沈楽清をきつく睨みつけた夏蒼摩は「お前のせいで!」と彼に吠えた。
「あのヒキガエルは俺を笑って犯しながら、こんなのじゃなくて初めから天清神仙を連れてこいと俺を引き渡した奴に言ったんだ!こんなのじゃ一つも満足しない。さっさと行為を終えたあいつは、この程度食べる価値もない。適当に遊んでから全部喰っていいぞとあいつの部下の群れに放り込んだんだ!今から自分は美しい仙界の花を手折りにいくからと!」
自分が知らない事実に沈栄仁が顔色を失う。
金聯を掲げた手がブルブルと大きく震えた沈栄仁に、夏炎輝は駆け寄ると彼の手から剣と金聯を受け取り、耳を塞いで自分の後ろにいろと囁いた。
「あの日、天清神仙があのヒキガエルのところに連れて行かれていれば、私は今も普通にこの家の四男として活躍できた!それなのに、あの一件で妖族に犯されてしまった以上、私はもう表舞台に出ることが許されなくなった!だって、私を犯した全員を沈栄仁と洛寒軒が殺したっていう証拠はどこにもない!いつ誰に過去をばらすと脅されるか分からないんだから!」
「私と寒軒はあの場にいた全員を殺しました!そして貴方に仙薬を飲ませて身体を治し、身を清めて仙界へ帰した!貴方には何も無かったと皆にそう見せようと思って・・・貴方にも全てを忘れて生きていくように言ったではありませんか!大丈夫だから、何も心配するなと。」
沈栄仁の反論に夏蒼摩は信じられないと彼に吐き捨てる。
「何?あんたは同じ頃に妖王に汚されていて俺を救えなかったって謝ってたよね?あんたはあんな醜い男たちに犯されて、そんなにすぐに立ち直れたの?あのぬめぬめした舌や手が全身に這いまわる感覚を一度も思い出さずに?悪夢を一度も見ず、誰かに触られることに恐怖も感じずにいられたの?!ああ、それとも別の奴に慰めてもらってた?仮面外した顔を陸承の家で見て驚いたけど、洛寒軒ってすごい美形だもんね。あいつに慰めてもらって上書きしてもらってたってわけだ!」
「蒼摩!栄仁達はお前を救ってくれたのに!それなのに、それ以上こいつらを貶めるような発言をするな!」
激しい怒りから咄嗟に剣を持つ夏炎輝の手が震え、夏蒼摩の首が傷つき、血が落ちて襟元を赤く染めていく。
夏炎輝の怒りようで何かを察した夏蒼摩は、夏炎輝の後ろで彼を止めようとその身体に抱きついている沈栄仁に図星なんだねと言い放った。
「大したもんだね。貴方には炎輝兄様が、洛寒軒には沈楽清がいるのにその二人が出来てるなんて。ねぇ、天清神仙。自分の男が自分の兄のものだったって知ってどんな気分?」
「・・・別に?」
意地悪な質問をする夏蒼摩に金聯越しに沈楽清が返した言葉は意外にもあっさりしたものだった。
「出会う前の夫の過去なんて知りませんよ。少なくとも今、洛寒軒が愛しているのは私です。それに、世界で一番彼を愛しているのも私なので。」
「・・・私も阿清と同じだ。私が栄仁を愛している。それ以外はどうでもいい。」
普段はあまり聞かない沈楽清の惚気に毒気を抜かれた夏炎輝がそれに追随する。
そんな二人を見て、それ以上の攻撃は無理だと分かった夏蒼摩はつまんない奴らと口を尖らせた。
「蒼摩。お前の恨みは分かった。でもどうしてこいつらなんだ?お前を襲い妖界へ連れて行った奴じゃなくて。」
「は?そんなの、もう殺されちゃった妖王の側近って聞いて・・・」
夏炎輝の問に答えようとした夏蒼摩の耳に陸壮と洛寒軒の会話が急に聞こえ始める。
「え?何?」
「黙って最後まで聞け。話はそれからだ。」
夏炎輝の言葉に従い、黙って彼らの会話を聞いていた夏蒼摩は、自分を攫った人物に愕然としてその場に膝を着いた。
「そんな・・・だって、ずっと・・・あの人、私が可哀想だって・・・ずっと味方でいてくれて、私がもう一度仙人として復帰できるようにって・・・だから協力しようってずっと・・・」
「・・・でも貴方も楽清を無断で連れ去ったりして彼を騙していたでしょう?自分が有利に立てるよう、情報を小出しにして・・・ただそれで私たちは助かりました。最初から貴方と陸宗主が完全に手を組んで手の内を見せあっていたら、きっと本当に殺されていました。」
沈栄仁は夏蒼摩に心から同情しますと伝え、夏炎輝に剣を引くようお願いする。
「さようなら、蒼摩様。二度とお会いしないことを願っています。」
「蒼摩。もしも次に栄仁や楽清を狙うことがあったらお前を殺す。覚悟しておくんだな。」
二人の姿が消えたと同時に、夏蒼摩の部屋に張られていた強力な結界が消え失せる。
「蒼摩!何があった・・・蒼摩?蒼摩?!」
ずっと部屋の中に入れず手をこまねいていた兄たちが見たのは、部屋の中で狂ったように笑う弟の姿だった。