「楽清!まだボール磨きやるのか?そろそろ帰ろうぜ!腹減った!!」
部活が終わり、体育館裏の倉庫にボールを置きに来た沈楽清は、一つのボールが汚れていることに気がつき、持っていたタオルでごしごしと拭き始めた。
そうしてみると、次から次に汚れが気になり、気がつけば1時間近く、その場に座ってボールを磨いていたらしい。
寮へ帰ろうと声をかけてくれた友人の江陽明に、沈楽清はにこりと笑った。
「陽明。先に帰ってください。私はもう少しやっていきますから。」
「お前、本当にいつもなんで敬語なんだよ・・・親友の俺には別に普通にしゃべってくれたって・・・」
「すみません。昔からの癖なんです。」
五歳の頃から神童と呼ばれ、将来を嘱望された沈楽清に対し、周囲の大人たちが最初に叩き込んだのは礼儀作法だった。
丁寧で綺麗な話し方、「私」という一人称、他人に対する接し方や上手な受け答えの仕方。
特に中学時代にお世話になったジュニアユースの監督は、練習着一つ買えない貧乏な沈楽清がサッカーを続けられなくなるのを心配し、彼の母親を説得して沈楽清を自分の家に住まわせると、サッカーの技術はもちろん、日々の勉強や一般教養など、彼を一から教育していった。
全ては、沈楽清を世界で通用する一流の選手にするために。
『楽清。いいか。お前は母子家庭で貧困育ちだが、そんなの誰からも言われなくなるような立派な人間になれ。プロになっても初心を忘れるな。お前は一流のサッカー選手であると同時に一流の人間になるんだ。それが最大の親孝行だ。いいな!』
『はい、監督!』
あの一件以降、人の期待に応えることを生きる理由にしてしまった沈楽清は、監督の期待通りに育ち、いつの間にか大人と同じ話し方と対応をする、同年代の子よりもはるかに大人びた少年になっていった。
一度身についた習慣は、サッカー名門校に特待生枠で入ってからも変わらず、サッカーの実力は天才的で、勉強もトップクラス、その上、常に誰にでも優しく礼儀正しい沈楽清は、高校一年生にして多くの人から慕われ敬われる存在となっていた。
「レギュラーのお前がやらなくても、マネージャーとかに任せればいいのに、お前は本当にサッカーバカだな!」
「ボール磨き好きなんですよ。こうやって綺麗になるのを見ると嬉しいんです。」
ニコニコと笑いながらボールを磨く沈楽清の隣にドカッと座った江陽明は、やれやれといった表情で沈楽清の手からボールを奪うと、自分も鞄から手拭いを取り出した。
「二人でやった方が早く終わるだろ?さっさとやって帰ろうぜ。そんで晩飯な!」
「ありがとうございます。」
それから二人は黙々とボールを磨き続けた。
最後の一つを磨き終えた頃には、辺りはすっかり暗くなっていて、携帯を取り出した江陽明は「うげっ」と悲鳴を上げる。
「19時!寮!飯!終わっちゃう!!」
わたわたと帰り支度をした江陽明は、それでもなお悠長に他の道具を見ようとした沈楽清の手を掴むと、強引に倉庫の外に連れ出した。
「また明日手伝ってやるから!今は飯を食いに行くぞ!!」
「はい、陽明。」
友人の勢いに押されて倉庫を出た沈楽清は、ふと隣の倉庫を見る。
「楽清?」
「なんか臭いませんか?」
「え?何も?それより、飯!今日はハンバーグなんだって!!俺、メニュー見た時から今日をずっと楽しみにしてたんだから!!」
それでも何だか嫌な予感がした沈楽清は、お腹がすいたを連呼する友人を「すぐに行きますから、私のご飯も取っておいてください」とお願いして先に帰らせると、自分はその臭いがした方へと向かった。
(やっぱりタバコの匂いがする・・・先生がまだ残ってるのか?)
隣の倉庫の裏に行こうとした沈楽清は、そこへたどり着く直前に、たくさんの騒々しい笑い声の中から見知った声が聞こえてきて、その場に足を止めた。
(張先輩?)
張勇は強豪校のサッカー部員にしては珍しく、練習をさぼりがちで、出てきてもほとんど真面目に練習しない先輩だと沈楽清は記憶している。
もちろんレギュラーどころか、監督からは三軍以下の扱いをされている人物だった。
入学して早々にレギュラーになった沈楽清は、彼の顔や声こそ知っているものの、いつもあいさつ程度で一度もきちんと話をしたことがない相手だった。
(こんな時間に、先輩はこんなところで一体何をしてるんだ?今日も部活に来ている様子はなかったけれど。)
沈楽清は息をひそめて、倉庫の陰に隠れると、そっとそちらを伺う。
そこには何人かの男子学生と女子学生が、それぞれカップルになってベタベタとくっついていた。
高校生にもなれば、男女交際くらいは珍しくもなんともない。
たとえ彼らがそこでどんな行為をしていても、それが犯罪行為でなければ沈楽清はさっさと立ち去ったはずだった。
ましてや、本来はこういった親密な間柄の人間同士がイチャイチャしている場面が大の苦手な沈楽清のこと、顔を真っ赤にして逃げ出したに違いない。
しかし、生真面目で優等生な沈楽清の目に映ったのは、転がる酒瓶や女子学生たちのあられもない姿ではなく、自分の部の先輩が堂々とタバコをふかしている姿だった。