「・・・それが、二人の過去?」
想像を超えた内容に絶句した沈楽清は、もうどうしていいか分からず、その視線を彷徨わせた。
そんな沈楽清に、昔の話ですよ、と沈栄仁は微笑む。
「それで、どうして、寒軒を裏切ったの?」
「簡単ですよ。阿清をまた人質に取られたので。」
「・・・なるほど。」
(栄兄にとって『沈楽清』はよっぽど大切な存在なんだな・・・)
自身の命や貞操を投げうってでも、常に『沈楽清』を助けようとする沈栄仁に、ますます申し訳なさを感じた沈楽清は「俺でごめん・・・」と謝った。
そんな沈楽清に「貴方のせいじゃないでしょう?」と沈栄仁はその頭を優しく撫でる。
「それに、貴方もとてもいい子ですから。可愛い私の弟分として、私は貴方も大切に思っています。まぁ、こんな汚れた人間が兄では、貴方の方が堪らないかもしれませんが。」
朗らかに笑いながら自己卑下する沈栄仁に、たまらない気持ちになった沈楽清は彼の隣に移動すると、その身体をぎゅっと抱きしめた。
「栄兄・・・大好きだよ。その話を聞く前も、聞いた今も、俺は栄兄が大好きだ。栄兄に会えて本当に良かった。だから・・・今日まで生きていてくれて、ありがとう。そして、『沈楽清』と寒軒を守ってくれてありがとう。栄兄、大好き。」
「楽清・・・」
「本当に・・・二人が生きていてくれて良かった・・・」
(もし、二人がいなかったら・・・俺は・・・そいつの小鳥だった・・・)
陸承と洛寒軒に乱暴されるだけでも恐ろしかったのに、そんな残虐な男に飼われて、夜な夜ないたぶられていたかもしれないという恐ろしい事実を知った沈楽清の身体がぶるりと震える。
そんな沈楽清を躊躇いがちに、でもしっかりと抱きしめ返した沈栄仁は、その頭を優しく撫でた。
「本当に・・・あなたはいい子ですね、楽清。」
自分と洛寒軒の過去をあっさり受け止めてくれた沈楽清の度量の広さに感謝しつつ、沈栄仁は、今度は自分が彼に対して感じた違和感を確かめようと口を開いた。
「私も一つ、貴方に確認したいことがあります。」
「何?」
再び沈楽清を向かいに座るよう促した沈栄仁は、彼を緊張させないようその両手を自分の手で包み込んだ。
「なぜ今日あんなに怒ったのか、ちゃんと理由を教えてもらえますか?」
「え・・・?あ、それは・・・」
明らかに動揺して言いよどんだ沈楽清の手を、沈栄仁は安心させるようにぎゅっと握る。
「楽清。貴方を責めるつもりで言っているのではありません。妖王への誹謗中傷は聞くに堪えないものばかりでしたし、実際の彼を知っている・・・いえ、彼を大切に思う貴方からすれば、とても耐えられるものではなかったでしょう。でも賢い貴方は、最初は愛想笑いであの場をやりすごそうとした。それなのに、急に烈火のごとく怒ったと思ったら、まさかあんな大立ち回りをするなんて・・・」
「・・・ごめんなさい・・・」
ふぅっとため息をついた沈栄仁に、沈楽清は素直に謝る。
自分の行動一つで天清沈派そのものが危うくなると洛寒軒から聞いていたにも関わらず、あろうことか天帝の前でぶちぎれて、数人を殴り倒し、挙句の果てには妖王を擁護する爆弾発言をした。
しかも、それを止めようとした沈栄仁の手を思いきり振り払って。
「二度としません。本当にごめんなさい。」
「・・・あなたが酷く怒ったのは、これが二回目ですよね?一度目は私が貴方に命を差し出すと言った時。そして今回。私は、貴方は賢い子だと思っています。そんな貴方が、怒りで周囲がまるで見えなくなってしまうほどの衝動に駆られる、そのきっかけや理由は一体何なんですか?」
「・・・」
「原因が分からないようでは、この先、貴方を止めることも、そうならないよう周囲を止めることもできない。今回は風宗主が助けてくれましたが、彼女や炎輝がいなければ、今頃どうなっていたか・・・賢い貴方なら、わかりますよね?」
努めて穏やかに諭す沈栄仁に、沈楽清は小さくうなだれた。
沈楽清は、話そうか話さないかで迷い、口を開きかけては閉じるを何回か繰り返す。
その間、沈栄仁は何も言わず、そっとその手を握り続けた。
「あのね・・・俺の父さんの話なんだけど・・・」
「はい。」
長い長い沈黙の後、ようやく話し出した沈楽清に、沈栄仁はまるで母親を思わせるような慈悲深い微笑みで応じる。
「母さんから聞いた話なんだけど、俺が生まれた日はすごい嵐で、小さな電力会社に勤めてた父さんは、復旧作業が必要になるだろうからって会社の命令で帰ってこれなかったんだ。そんな時、予定日よりもずいぶん前に産気づいた母さんが思わず不安になって父さんに電話をかけた。救急車を呼んだ父さんは、母さんや俺が心配だからと、他の人が止めたにも関わらず病院に向かったんだ。『楽清のためなら、死んだって惜しくない』って言って。」
「素敵なお父様ですね。」
「まぁ、そこだけ聞けば、家族思いの良い父親なんだろうけどさ。本当にバカみたいな話なんだけど、それで事故に遭って死んだんだ。母さんは、俺を生んだ直後に、父さんが死んだと聞かされた。死に目にも会えず、入院していて喪主もできなかった。俺がそんなタイミングで産まれたせいで。しかも、危険行為で自殺とみなされて保険金すら出なかったんだ。」
「楽清・・・それは・・・」
俯いて顔は見えないが、沈楽清の肩がわずかに震えたと感じた沈栄仁は、沈楽清を慰めようと口を開きかける。
しかし、沈楽清がハハハっと笑い出したのを見て、その慰めの言葉を飲み込んだ。
「・・・何が、おかしいんです?」
「ああ、これ、昔の話だから。しかも、あちらの世界の話。たださ、それ以降『お前のため』って言葉が大嫌いになった。特に、それで死んで行かれた日には目も当てられない。だって、俺はそんなことしてって頼んでない。何の責任も取れないんだから。」
沈楽清は、口元は笑っているのに、目は一切笑っていない不気味な表情で、瞬きもせずに沈栄仁の顔を見た。
その怒りと悲しみが混じった瞳と暗い声に、それまでそんな沈楽清を見たことが無かった沈栄仁は言葉を失って黙り込む。
顔色が悪くなった沈栄仁を見て、ハッとした沈楽清は、気を取り直して、いつものようにニコッと笑ってみせた。
「ごめん。本当に大丈夫だよ。でね、俺が父さんの事を知ったのは、四歳の時だった。俺が事故に遭いかけて、母さんが病院で大泣きして、その時に言われたんだ。『お前なんか生まれてくるんじゃなかった。お前みたいなのは誰からも必要にされないし、誰からも愛されない』って。まぁ、俺,本当にゴリラみたいな見た目しててモテなかったし、唯一才能があったサッカーも出来なくなっちゃったから、あの人が言ったことは全部当たってるんだけどね。」
「そんなことはない!」
辛い内容にも関わらず、にこにこと笑いながら話す沈楽清の言葉を、途中で遮った沈栄仁は沈楽清の顔をそっと両手で包み込んだ。
「そんな呪いみたいな言葉・・・たった四歳の子になんてことを・・・そんなのは一切真に受ける必要なんてないんですよ。楽清、貴方は良い子です。私も炎輝も、妖王も、みんな貴方が大好きです。愛されていないなんて、そんなこと・・・」
「栄兄、それは俺が『沈楽清』だから・・・」
「それは違う!阿清と、貴方は全然違う。あの子のままであれば炎輝があんな風に接することも、妖王が本気で貴方を妻にと望むこともなかったはず・・・でも、すみません・・・貴方はいつも元気で、何があっても明るく笑っていたから、ずっと私は、貴方は愛され恵まれ育った苦労知らずの子どもだと思っていました。」
「やだな。苦労知らずだよ。すごい貧乏だったけど、サッカーをやり始めてからは、みんなが差し入れとかなんやかんや食わせてくれるようになったし、服もお下がりをくれたし、中学では監督の家に居候させてもらって、高校からは寮があったから住むところも温かい食事も三食あったし・・・しかもさ、サッカーが出来なくなってプロになれなくなって、何の価値もない俺に、母さんの再婚相手が大学費用を出してくれたんだ。俺、中学で家を出てから家に帰らなかったから、その人に一度も会ったことないのにさ。だから、なんとしてでも留年せずに、公務員に、体育教師になろうって決めたんだ。早くお金を返したかったから。」
「楽清・・・」
「ただ、まぁ、なんかこうして、全然違う生き方になっちゃったから、お金返せなくて、そこは本当に申し訳ないんだけど・・・でも、今なんてさ。健康な体で、高級ホテルみたいな綺麗な部屋で毎日見たこともないような綺麗な服を着て、たくさん本もあって、毎日修行や勉強をさせてもらえて・・・俺は、すごく恵まれてるよ。いつもありがとね、栄兄。」
変わらぬ笑顔で話す沈楽清に、かける言葉が見つからない沈栄仁は、ただぎゅっとその華奢な身体を抱きしめた。
話している内容のほとんどは、ここではない世界の話なので、言葉の意味は沈栄仁には分からないものが多い。
ただ、推察するに、目の前の沈楽清はとんでもなく辛い目に小さい時から遭ってきた子どもだという事を理解した沈栄仁は、「なんでもない」とヘラヘラと笑い続ける沈楽清の頭を何度も優しく撫でた。