洞窟の入り口に近づくにつれ、濃くなる血の匂いに、その匂いには慣れているはずの沈栄仁と寒軒ですら、思わずその鼻を袂で覆った。
「華南夏派は、一体どんな軍隊を率いてきたんだ?」
「分かりません。でも、炎輝自ら率いてきたとなれば、主力部隊は全員揃っているはずです。それに、今回の行動が、華南夏派のみなのか、他家も伴っているのかも不明ですので総数までは・・・」
その時、洞窟の外から洛大覚の愉悦交じりの笑い声が聞こえてきて、沈栄仁はさらにその足を速めた。
たくさんの妖族の死体も、紅い衣の仙人の死体も気にせず、一心不乱にかの人の元へとその足を進める。
「藍鬼!」
寒軒に腕を引っ張られ、彼の胸に抱きかかえられた沈栄仁の耳元で、ひゅっと何か音がして、その耳をかすめていく。
「っ!」
次いで、耳に焼けつくような熱さを感じた沈栄仁は、それが夏家の火矢だと気がつき、寒軒に注意を促した。
「寒軒!この矢は特殊な矢で、相手に当たるまで追跡します!」
「分かった。」
そう言って、剣を抜き、沈栄仁の耳をかすめた火矢を叩き切った寒軒は、矢をつがえている数人めがけてすっとその手を一閃させた。
そのわずかな動きで、その手の先にいた全員の身体が、何か鋭利な物に切られたように二つに分かれて崩れ落ちる。
「寒軒!」
「・・・不可抗力だ。向かってくる以上、手加減は出来ない。」
思わず寒軒の身体にしがみついた沈栄仁の責めるような瞳から、寒軒はわずかに視線を逸らす。
「すみません・・・さっさと彼らをここから退却させましょう。」
「ああ。」
手をわずかに動かしただけで一気に数人を殺した寒軒に恐怖を感じたのか、やや腰が引けている華南夏派の面々の顔をざっと見渡した沈栄仁は、その中に知り合いの顔を見つけた。
(良かった。彼がいるなら交渉できる)
沈栄仁は、スラリと剣を抜くと、あっという間に目星をつけた仙人の後ろに回り込み、その首元に剣を突きつけた。
「この者の命が惜しければ、全員動くな!」
そのどこか聞き覚えのある声に、沈栄仁と寒軒に対して攻撃しようと、矢をつがえていた仙人達の動きが一斉に止まる。
「・・・私は藍鬼。ここへ華南夏派が攻めてきたと報告を受けて来ました。退けば深追いはしません。命が惜しければ、さっさとここから立ち去りなさい。」
『藍鬼』の名に手を止め、弓を下ろす者が多い中、事情を知らないのか、一人の若者がそのまま彼を射殺そうと再び弓を構える。
「やめろ!!」
その様子に、藍鬼の手の中にいた人物が大声で制止すると、全員にその場から退くよう命令した。
「私はいいから!早く宗主のところへ行って合流し、このことを伝えろ!」
その言葉に異を唱える者もいたが、事情を知っている者達にその手を引かれ、全員があっという間にその場から立ち去っていく。
(さすがは炎輝の兵。良く統制が取れていますね・・・)
緊張をほぐそうと、ふぅと小さく息をついた沈栄仁は、手の中の人物を開放すると、周りに誰もいないのを確かめてから仮面を外し、彼に対して深々と頭を下げた。
「本当にすみませんでした。ご協力ありがとうございます。」
「義兄上!私なんかに、そのような真似はお辞めください!」
「・・・申し訳ありませんが、今は藍鬼と。でも、お久しぶりですね、蒼摩様。本当にご立派になられましたね。15でもう一個師団の将とは。当家の楽清も貴方のように勇敢であればいいのに。さすがは夏家の男ですね。」
にこにこと優しい笑顔で世辞を言う沈栄仁に、寒軒は「この世渡り上手」とぼそっと声を出した。
そんな寒軒の臀部をぎゅっとつねった沈栄仁は、横で飛び上がる寒軒の方には一切目を向けず、変わらぬ笑顔で目の前の男に応対する。
「でも、今回は、一体どうしてこんなことを?」
沈栄仁に『蒼摩』と呼ばれた夏炎輝に少しだけ似た赤髪の青年は、以前と少しも変わらない沈栄仁の美貌とその柔らかな物腰に安心したのか、今回の顛末を話し始めた。
「実は三日前に・・・」
「という、訳なんです。」
「なるほど・・・」
(まさか、先日捕まえた中に、陸壮殿の愛人がいたなんて・・・どうしてさっさと仙界に連れて行って囲わなかったのか・・・ああ、愛琳様か・・・)
三日前、妖王の命で人界へ行った沈栄仁と寒軒は、一気に多くの獲物を獲ようと、町の外れにあった大きな屋敷を襲った。
(確かに見目麗しい若い女性がいつもより多くいるなとは思いましたが・・・せめて彼女たちの誰か一人でもそう言ってくれれば良かったものを・・・)
仙界は一夫多妻制で、人界で得た夫人や愛人は自分の屋敷で囲うのが慣例なため、沈栄仁は捕まえてきた相手が、まさかそんな存在だとは夢にも思わなかった。
(それにしても、妖王も大概だと思いましたが、あの白秋陸派の宗主もなのか・・・)
「自分で取り返しに来れば面白かったのに・・・あの白蛇。そしたら小児性愛者と罵ってやったのに。」
「義兄上?」
ぼそっと本音が出た沈栄仁に、絶対に耳に届いていたはずの夏蒼摩は小首をかしげ、その様に思わず寒軒が吹き出す。
「なるほど。この前他の奴が話してた、沈家兄弟は仙界きっての清純無垢なお姫様達だっていう噂は伊達じゃなかったんだな、藍鬼。お前は綺麗な言葉しか言っちゃいけないらしいぞ。」
「・・・私をからかっている暇があったら、さっさと牢からその女性たちを開放してきてください。引き渡して帰ってもらいましょう。」
「無駄だ。」
華南夏派がここへ来た理由が分かり、これで手打ちに出来ると喜んだ沈栄仁を、寒軒は真正面からばっさりと否定する。
「なぜです?もし妖王が怒ったとしても、他の獲物を与えれば・・・」
「そうじゃなくて、美しいもの好きな仙人に好かれるほどの見目麗しい少女が、今も生きていると思うのか?もう三日も前の話だぞ?」
「・・・」
冷静な寒軒の言葉に、それはそうですね・・・とこめかみを押さえた沈栄仁は、大きなため息を一つついた。
仮面をつけ直し、夏蒼摩の首へ再び剣を向ける。
「すみません、蒼摩様。このまま炎輝の所へ案内してください。」