「またな、阿清。」
「ええ。炎輝兄様。ありがとうございました。」
陸承達が帰ってくる前にさっさと帰りましょう、と玄肖に促され、玄冬宮に入ることなく、天清山の屋敷へ帰る馬車に乗せられた沈楽清は、馬上から夏炎輝に向かって一礼すると、その姿が窓から見えなくなるまで、そのまま頭を下げ続けた。
「・・・夏宗主は、最後一体どうしたんです?」
馬車が走り始めて15分程経過したころ、向かいに座る玄肖の、少し不安そうな、不機嫌そうな声につられ、それまでそのまま外の景色を楽しんでいた沈楽清は彼をゆっくり振り返った。
(本当に、炎輝兄様のことになると、なんて分かりやすい・・・)
「どうして?」
「・・・すみません。普段、あまり二人がひっついているところなんて見ないもので、珍しいなと思いまして。」
(ああ、やっぱりそうなんだ・・・よくよく考えてみると、いつも飄々としたこいつが感情を顕わにするのは、『沈楽清』か炎輝兄様が関わる時だけだったじゃないか・・・)
いつもどこか違和感のあった玄肖という人間の正体がようやく分かった沈楽清は、彼の今までの言動が全て腑に落ち、彼に対して一歩踏み込む勇気が出る。
口では謝りながらも、どこか納得していない表情の玄肖に、沈楽清は小さくフフッと笑うと、玄肖の横に移動し、その身体に抱きついた。
「宗主?」
「不安にさせてごめん。ただ、寒軒のことを注意されていただけだよ。俺に何かあったら、栄仁兄様に合わせる顔がないって言ってた。」
「そうですか・・・そんなんより、どうしてん?急に子供みたいに抱きついて。こうすれば、先ほどの振る舞いが許されるとでも?もちろん今から説教やで。覚悟してくださいね。」
夏炎輝が沈楽清を抱きしめた理由を聞いてホッとしたのか、すっかりいつもの明るい調子に戻った玄肖を沈楽清はそのまま抱きしめ続けた。
少しでも、あの夏炎輝の温もりを、彼の最愛の人に届けられるように。
「俺になっちゃったせいで、あなたの大切な『沈楽清』がいなくなってしまって・・・それなのに、いつも守ってくれてありがとう。たくさんヒントがあったのに、今まで気がつかなくてごめん。」
「沈楽清?何を・・・」
「栄仁兄様。」
沈楽清の呼びかけに、その腕の中でビクッと玄肖の身体が震える。
「・・・私が前宗主とは・・・まさか、本当に熱でもありますか?」
「さっき炎輝兄様から玄肖のことを聞いたんだ。玄肖は洛寒軒を知るはずがない文官。でも、あなたは一目で寒軒が妖王だと気がついた。それに、本来のあいつの姿にも驚くことが無かった。あいつと初めて会った時、あんな状況でも俺は思わずあいつのあまりの美しさに見惚れてしまったのに、あなたはずっと睨んだままだった。」
「・・・違いますよ。あなたが人質になって慌てていて、彼の正体が誰かなんて二の次になっていただけですし、美貌に関しては好き好きがあるでしょう?私の好みではなかったというだけです。」
(いや、あいつの顔は全員が絶対に見惚れる!そう言い切れる自信がある!)
三日間あれほど見ていても一向に慣れず、その顔を見るたびに綺麗だなと感心している沈楽清は、洛寒軒の美貌に対しては、誰しも同じ反応で間違いないと信じている。
「・・・そう。でも、あなたは何度も俺のことを『阿清』って呼んでる。たぶん慣れというか、無意識だったんだろうけど。さっき、それも炎輝兄様に確認した。俺を阿清と呼ぶのは栄仁兄様と炎輝兄様だけだって。門弟が呼ぶのは不敬だとも聞いた。」
沈楽清は軽く嘘を混ぜつつ、腕の中の玄肖が言い逃れできないよう話を続ける。
「それに、俺の、いや『沈楽清』の幼い頃の話を知っていた。東嬴から来たばかりなのに、そんなのはおかしいだろ?」
「夏宗主から、あなたに仕えるにあたって色々な話を聞いただけですよ。」
「一番の証拠は、その身体の傷だよ。寒軒に聞いたんだ。あいつの九泉は、必ずその身体にあの剣特有の傷が残るって。あなたと一緒に修行してるとき、ちらっと見えた傷が、寒軒の身体にある傷と同じ形状だった。仙薬は傷一つ残さないはずなのに、その傷はどうして残ったままなの?どうして、寒軒と同じ傷跡なの?」
(いや、本当は玄肖の身体なんて見たことないし、剣の傷の形状なんて知らんけど・・・流石に、ヒーローが助けるのはヒロインに決まってる、それがセオリーだ!とか、原作者がそう言ってたなんて、意味不明過ぎて言えないし・・・でも、これ以上はネタが・・・どうしようかな?)
確信を得た本当の理由が言えず、とにかく思いつくまま玄肖にはったりをかました沈楽清には気づかず、玄肖は沈楽清の身体を、ぐいっと押しのけると、観念したようにモノクルを外してその手に取った。
「・・・本当に、あなたは勘が鋭い子ですね・・・沈楽清。」
(やった!良かった!)
心の中で万歳する沈楽清の目の前で、沈栄仁はモノクルの耳にかける部分についていた薄い水色の宝石を取り出し、沈楽清の目の前にかざす。
「術自体は簡単なものです。でも、意外に・・・炎輝ですら私に気がつかない。思い込みとは、本当に怖いものですね。」
玄肖は指に力を入れ、ぐっとその宝石を握りつぶした。
洛寒軒が赤い耳飾りを壊した時と同じように、沈楽清の目の前で粉々になった宝石が玄肖の指先から零れ、その身体に落ちていき、そのまま虚空に消える。
何も無くなった玄肖の指から、玄肖の顔へと視線を向けた沈楽清は、そのままぽかんと口を大きくあけ、しばしその姿に見惚れた。
(さすがは美玲姉が描いた、本来のヒロイン・・・)
全くの別人に変化していた洛寒軒とは違い、顔の一つ一つのパーツや背の高さなど、大まかな輪郭は何一つ変わっていない。
それでも、沈楽清の目には、目の前の人物はまるで別人のように映った。
亜麻色の緩やかなパーマがかかったような髪は、サラサラと流れ落ちる真っすぐな黒髪に。
エメラルドグリーンの瞳は、深い瑠璃色の瞳に。
たったそれだけの変化にも関わらず、沈楽清の目の前にいたのはまるで精霊や神様の類かと思わせるほど儚げな美人だった。
(最初に俺が感じていた違和感はこれだったんだ。玄肖は綺麗だけど、どこか作り物みたいで、なんかおかしいって・・・)
「栄仁兄様。」
「その呼び方は辞めてください、沈楽清。本来私には、その子の兄を名乗る資格がないんです。栄仁で大丈夫ですよ。以前も言ったように、私に敬語は必要ありません。」
「じゃあ、栄仁・・・いや、なんか呼びづらいから、栄仁さん、栄先輩・・・いや、栄兄でいい?」
「ええ、もちろん。では、私は貴方を楽清とお呼びしても?」
沈楽清の申し出に、沈栄仁はふわりと花が綻ぶように笑う。
その笑顔の美しさに、男だと分かりながらも、沈楽清はドキドキしてしまって顔が赤くなり、思わず顔を背けた。
(まさに羞花閉月・・・炎輝兄様とは太陽と月って感じで絵になるだろうし、これだけ綺麗なら超イケメンの寒軒とだって、きっとすごく・・・っていうか、もしかして本当はこの美形三人の三角関係の話だったとか?!)
沈楽清の中で世界一の美形である洛寒軒と、その彼に釣り合う美しさの沈栄仁が一緒にいて、洛寒軒が沈栄仁に向かって頬に手を伸ばし、優しく笑いかける。
そんな洛寒軒の姿をありありと想像してしまった沈楽清は、急に胸の辺りがモヤモヤし始めて、そこをぎゅっと強く掴んだ。
「そんなの嫌・・・」
「楽清?」
「ううん、なんでもない!うん、もちろんだよ。楽清って呼んで!ところで栄兄。俺、あなたに聞きたいことが・・・」
「なんでも答えますよ。元からそういうお約束でしたし。」
「あ、あのさ・・・」
(聞きたいこと・・・ええっと、聞きたいこと・・・どうしよう、何も思い浮かばない!)
沈楽清としては、門弟の玄肖が、どうして宗主の自分を洛寒軒に与えようとしたのかが疑問だった。
しかし、その玄肖の正体が沈楽清の兄である沈栄仁なのであれば、その理由は簡単だと思ってしまい、今はもう改めて彼に対して聞きたいことが無くなってしまっている。
(俺がいなくなっても、自分が宗主に戻ればいいんだから、そりゃ、俺の勝手にしていいって言うわ・・・もともと『沈楽清』は天清沈派内でなんの権力も仕事も持っていない存在だし・・・陸承の道侶にしたくない栄兄なら、余計に寒軒にどうぞどうぞって言いそうだ)
う~んと頭を悩ませた沈楽清は、先ほどの妄想がつい口をついて出る。
「栄兄・・・どうして、寒軒を裏切ったの?なんとなくだけど、寒軒は・・・たぶん、貴方の事・・・」
「・・・私も一度、あの子と生きる未来を考えたこともありました。全てを捨てて、藍鬼として、妖王と・・・でも、他でもないあの子が、それを良しとしなかった。」
そこまで言って沈栄仁は口ごもる。
「栄兄?それは、一体どういうこと?」
しかし、沈楽清が続きを聞きたそうにしているのを見て、わずかに微笑むと、自分の胸にいつもかかっている首飾りをその手に取り出し、ぎゅっと握りしめた。
「・・・あの子が私を慕った理由は、私があの子の師だったからです。私とあの子の関係は決して愛や恋といった温かいものではなかった。藍鬼は、あの子にとって、いつまでもどこまでも過去をつきつける残酷な存在でしかなかったんです。」