夏蒼摩に剣を突きつけた形で、洞窟の外へ出た沈栄仁は、その広がる光景に一瞬で顔が蒼白になった。
(痛み分けなんてものじゃない・・・このままでは・・・)
周囲は真っ暗闇で、華南夏派の掲げた松明の近くだけ周囲が見えるようになっている。
しかし、そのわずかな光でも戦況がはっきり見て取れるほど、おびただしい数の妖族の死体がそこには転がっていた。
(通りで血の匂いが強かったわけですね・・・さすが華南夏派と褒めたいところですが、妖王にとってこんな屈辱的なことはない。これ以上は・・・)
沈栄仁が洛大覚の声がする方へ視線を移すと、薄明りの中、夏炎輝と洛大覚が剣を交わしている姿が見えた。
(今の妖王はおそらく半分の力も出していない・・・今は、炎輝や数人の手練れ達と遊んでいますが、笑い声が少なくなってきている。これ以上機嫌が悪くなれば、その時は・・・)
早くどうにかしなければ、と考えた沈栄仁は、夏蒼摩を安全な場所で開放すると、寒軒を伴い、洛大覚の所へ走った。
沈栄仁たちが走ってきたのを見て、夏炎輝はその場から少しだけ距離を取る。
「妖王。遅くなりました。」
「藍鬼か。ずいぶんと遅かったな。おかげでたくさん殺されてしまったぞ。」
洛大覚のややキレ気味な声に、既に彼が不機嫌であることを察した沈栄仁は、相変わらず妖王を前にすると身体が強張る寒軒を自分の後ろに押しやって、洛大覚の前に膝まづいた。
「申し訳・・・」
沈栄仁が跪くと同時に、その頭にどかっと足を乗せてグリグリと踏みつけた妖王は、「仙人の肉が食べたい。おいしそうなのを数人生け捕りにして持って来い。出来なかったら、分かっているな」と沈栄仁を脅すと、自分はさっさと洞窟の中へ入っていってしまった。
「藍鬼!」
「・・・いいんです、寒軒。気にしないでください。それより、この場を収めましょう。」
「ああ・・・俺は、暗闇に紛れて、あいつ好みの仙人を何人か生け捕ってくる・・・どうしてもダメな奴はいるか?」
「・・・さきほどの蒼摩様には手を出さないでください。あの子は妖王好みの見た目ですが、炎輝の義母兄弟なんです。他にも、夏家の者・・・赤い髪の者は、どうか・・・」
「分かった。」
寒軒の気配が自分の後ろから完全に消えたころ合いを見図って、沈栄仁は、自分が外に出てきた時から自分をじっと見つめている男に向かって、その剣を構えた。
「華南夏派の宗主とお見受けします。私は藍鬼。あなた方の話す少女は既に妖王の腹の中。遺体は全て食べられて骨だけになっており、他の死体と見分けがつきません。白秋陸派の宗主にはお詫び申し上げます。次からはそう名乗っていただいたら、その者は開放するようにしましょう。なので、今回は手を引いていただけませんか?」
(我ながら無茶苦茶な言い訳ですが・・・さて、炎輝はどうするんでしょうか・・・)
藍鬼の姿の沈栄仁を食い入るように見つめていた夏炎輝は、沈栄仁の問いかけに呼応するように、自分の剣を彼に向ける。
(まぁ、そうですよね・・・)
「そんな言い訳が通用するとでも?妖王にも言ったが、私は戦いに来たのではない。大人しくその居住内を見せてもらえれば、それでいい。自分たちの目で、この場にいないことを確かめたいだけだ。」
「それは出来かねます、夏宗主。貴方だって、仙界の貴方の城を妖王に見せろと言われて、はいそうですかと素直に見せないでしょう?今回は、別に貴方の愛人を殺したわけではない。それなのに、どうして華南夏派がここへ?我々と交渉したいのであれば白秋陸派の人間が来るべきかと・・・それとも、まさか貴方もその彼女と関係が?十代半ばの少女と聞いていますが?」
沈栄仁の言葉の裏に込められた「男は若い方が好きですもんね、この変態」というメッセージを的確に読み取り、それに苦笑した夏炎輝は首を横に振ると「まさか」と爽やかに笑った。
「藍鬼殿。私には最愛の妻がいる。私にとって、妻は幼いころから憧れ続けた存在で、だからこそその人が私の物になってくれた時は天にも昇る心地だった。私はその人以外にはまるで興味がない。今は訳あって共にいないが、戻ってきてくれた暁には、その人を世界で一番幸せにするつもりだ。」
「そ、そうですか・・・」
(ほ、本当に、何を堂々と・・・周囲の目だってあるでしょうに!)
カッと仮面の下で顔を赤らめた沈栄仁は、夏炎輝のあまりにどストレートな告白に、気まずくなってその視線を逸らした。
「私の妻の話は置いておいて。さて、何か証拠でもない限り、こちらも手を引けないのだが・・・衣服でも宝飾品でも、骨でもいい。何か証拠を頂けないか?」
(たぶん、何も残ってないでしょうね・・・骨もあの積み上げられた中から探すのは・・・あ、それでも・・・)
「食料候補になっているその家の者はまだ残っている可能性があります。その者の証言でもよろしいですか?」
「分かった。」
「それでは連れてまいります。その場でお待ちください。」
そう約束して、さっさと洞窟の中に入って行った沈栄仁に対し、あっさりと剣を収めた夏炎輝は、沈栄仁を待つために洞窟の入り口に近づくと、そこへもたれかかった。
そんな夏炎輝の行動に、事情を知らない者達が一斉に「おかしいですよ!」「どうしてあの者を信じるんです?!」と反発する。
「・・・もしもあの者が嘘をついているなら、その時は容赦なく叩き切る。黄河!架緑!蒼摩!早くここから全員を撤退させる準備を始めろ!その捕虜と一緒に仙界へ帰り、天帝に報告するぞ。」
十分後、件の少女の下女を連れて来た沈栄仁は、もしかしたらこれも・・・と骨の山の中で拾った一枚の服を渡した。
「白秋陸派の紋様が入っていたので・・・もしかしたら、ですが・・・」
「分かった。感謝する。」
服を渡す時、互いの指がわずかに触れ、思わず沈栄仁はその手をはじかれたように後ろへ逸らした。
「あ・・・」
「藍鬼殿。ここで、少し待っていてくれませんか。」
下女と白い衣を自身の弟に預けた夏炎輝は、再び沈栄仁の所へ戻ると自身の剣を抜く。
「え・・・?」
「藍鬼殿。あなたは随分と強そうだ。一度手合わせを。」
そう言って、いつものように剣を振りかぶった夏炎輝の攻撃を、わずかに身を翻して避けた沈栄仁は、大きく飛び退って距離を取ると自分も剣を抜いた。
(一体、何を?!)
下女を返せば一件落着だと思っていた沈栄仁は、今、自分に無遠慮に打ち込んでくる夏炎輝の真意が分からず、とにかくその剣に合わせるように一撃一撃と交わしていく。
少しずつ、どんどん洞窟から離れた場所へ誘導された沈栄仁は、困惑しながらも必死になって応戦した。
すでに松明の明かりも届かず、細い月の月明かりだけで照らされた、お互いの姿すらよく見えない暗闇の中、その気配だけを頼りに二人が剣を交わす音だけが周囲に響き渡る。
「炎輝・・・」
「栄仁。少しかがんで。」
剣がぶつかり合う、そのわずかな間に夏炎輝に話しかけた沈栄仁は、夏炎輝のお願いに、何も疑わず、素直にその身を少しかがめた。
次の瞬間、わずかに身体が宙に浮き、そのままその場にひっくり返る。
「あ、足払いは卑怯・・・」
「栄仁・・・一発、私の頬を殴って。」
「はぁ?!」
「早く。」
請われるままに夏炎輝の頬を殴った沈栄仁の上に馬乗りになった夏炎輝は、殴られた腹いせに沈栄仁を殴るようなふりをして、振り下ろした手を身体寸前で止め、そっと沈栄仁の髪や首筋、仮面越しの顔に触れていく。
「炎輝・・・もう、ふざけてないで帰ってください。もしも、妖王がまた来たら・・・」
「栄仁。無事で良かった。」
「炎輝・・・」
「なぁ、栄仁。三年も音信不通。お前の姿が目撃されたという事だけで、最愛の妻が無事だと思わなくてはいけないお前の夫が、ようやく会えたお前に、ほんの少しだけでも触れたいと思うのは許されないのか?」
「・・・まだ、式を挙げてませんけど?」
今が真夜中という事もあって、最後に過ごした夜を思い出してしまい、気恥ずかしさを覚えた沈栄仁は、照れ隠しにぷいっと顔を横に背ける。
普段は大人びた沈栄仁の、自分だけに見せるその子供っぽい、なんとも可愛らしい様子に、夏炎輝は「何も変わってないな」と優しく微笑んだ。
「ああ、確かにまだ式はしていないな。」
「でしょう?ちゃんと用意していたんですよ。貴方が好きそうな衣装と装飾品に・・・貴方の衣装も、ちゃんと縫ってありますし。」
「あの忙しい中で、本当に私の服まで縫ってくれていたのか?本当に、お前は世界一綺麗で優秀だ。お前と結婚できる私は幸せ者だな。」
「炎輝・・・頭でも打ちました?」
憎まれ口をたたいた沈栄仁の仮面を、夏炎輝はそっと外す。
「お前は、やっぱり世界で一番綺麗だ。」
うっとりと沈栄仁の顔を眺め、そっとその頬を撫でた夏炎輝に、観念したように沈栄仁は嘆息すると、小さく夏炎輝へ手招きをした。
その右手に自身の手を絡めた夏炎輝は、自分よりも幾分か小さいその身体に覆いかぶさる。
「炎輝・・・近いうちに、絶対に貴方のところへ帰りますから・・・だから、もう少しだけ待っていてくれますか?」
「無理はするな。帰ってきてさえくれればいい。何年でも、何十年でも待つから。」
「・・・炎輝。私が、これ以上離れていたくないんです。早く貴方の所に・・・その腕の中に戻りたい。」
沈栄仁は夏炎輝の顔をしっかりと捕まえると、自分から夏炎輝に口づけた。
沈栄仁の誘いに呼応して、もみ合っているように見せかけながら、夏炎輝も何度も何度も沈栄仁に口づける。
「栄仁、愛してる。」
「私も同じです。炎輝・・・」
ほんのわずかな間、ぎゅっと強く抱き合って微笑み合った二人は、そんなやりとりなど何もなかったかのように、お互いにさっとその場から離れてにらみ合う。
沈栄仁が仮面をつけ直したタイミングで、二人は今度は修行の時のように真剣な表情で、しばらく剣を交え続けた。