「楽清!」
自分を労わるような、心の底から心配しているような声が聞こえた気がして、沈楽清はその目をゆっくりと開けた。
寝台の横に目を向けると、洛寒軒が自分を心配そうにのぞき込んでいるのが見える。
「桜雲・・・?」
沈楽清がゆっくりと上半身を起こそうとするのを見て、洛寒軒はその手で沈楽清のふらつく身体を支えた。
洛寒軒に抱きかかえられる形で起きた沈楽清は、昨晩と同じく自分が泣いていることに気が付く。
(なんか、寒軒の前では、泣いてばっかりな気がする。あっちの世界で、人前で泣いたことなんて、あの時以降一度もなかったのに・・・)
沈楽清は、指で涙を拭うと、洛寒軒の身体越しに室内を仰いだ。
室内はまだ暗く、夜明け前なのだろう。
昨日、不可解な動きをした洛寒軒が長椅子で眠ったのを見た沈楽清は、部屋を抜け出して夕食の食器を水につけ、衣裳部屋で寝間着に着替えると、自分もさっさと寝台に横になったはずだった。
しかし、夢見が悪くてあまり眠れなかったらしい。
「お前、昨日といい今日といい、尋常じゃないうなされ方をしているが、一体何の夢を見ているんだ?いつもそうなのか?」
「え?あ、うん、大丈夫!昔から、よく見るやつで・・・ごめんね、起こしちゃった?アハハ、よくお化けに襲われるんだ。ぬりかべみたいなデカいのに押しつぶされて苦しくてさ。子どもみたいだろ?」
うなされているという言葉に一瞬ギクリとした沈楽清だったが、それを誤魔化すように洛寒軒へ微笑んだ。
(大丈夫。今までだって、これでこれ以上追及されなかった)
しかし、努めて明るく笑う沈楽清に対して、どこか苛立った様子の洛寒軒は思いきり顔をしかめる。
「・・・お前は、簡単に泣く癖に、自分がつらい時はいつも笑うんだな。昨日の怪我の時といい、さっき俺が困った顔をした時といい・・・人を傷つけることは泣いて嫌がるのに、どうして自分が傷つくのは平気なんだ。」
洛寒軒の鋭い指摘に、一瞬瞳が揺らいだ沈楽清だったが、次の瞬間ハッとした表情を浮かべると無理やり笑顔を作った。
「平気・・・」
「話してみろ。話すことで少し楽になるかもしれない。一体どんな夢を見てるんだ?」
「大丈夫。本当に大丈夫だよ。昔のことなんだ。だから、大丈夫。」
じゃあもう一度寝るね、と再び寝台に横になろうとした沈楽清の肩を洛寒軒はぐっと掴むと自分の方へ向かせる。
「楽清!そんなに辛そうな顔で泣いているのに、大丈夫なわけないだろう?!」
「・・・寒軒、ありがとう。ごめんね・・・でも、話せない。」
(話したら、俺が『沈楽清』じゃないってバレる。それに、きっと信じてもらえない・・・)
俯いた沈楽清に対し、洛寒軒はぐっと奥歯を噛みしめると、顔を背けた。
「やはり、俺が、信用できないか?」
「違うよ!そうじゃないんだ!そうじゃなくて・・・俺は・・・」
「いい、すまない。大丈夫だ。起こしてすまなかった。」
どこまでも頑なな沈楽清を見て、諦めてスッと寝台から離れようとした洛寒軒に対し、慌てた沈楽清は思わず洛寒軒の腰に抱きつく。
「ごめん!でも、話しちゃいけないって言われてるんだ!約束したんだ、玄肖と。約束は絶対に守らないといけないから・・・話したいけど、話せない。ごめん、桜雲。でも、俺は、お前のこと・・・」
「・・・楽清。じゃあ・・・にしたら、俺に全てを話すか?」
必死で謝る沈楽清に、背を向けたままの洛寒軒は聞こえないくらいの低い声で彼に問いかけた。
「え?」
「俺の妻になったら、お前はあいつの言う事ではなく、俺のいう事を聞くのか?お前の夫であれば、お前は俺に全てを話せるのか?」
「桜雲?」
「ずっと疑ってはいたが、お前のあまりに慣れてない様子から、俺の勘違いかと思っていた。でも、やっぱりお前たちはそういう関係だったんだな。お前の年齢ならば無理もないか。それなら、あいつの発言も納得できる。いくら側仕えにしても、本来は門弟が言えるようなことではないはずだが、恋人だというなら話は別だ。初めてでないのなら、俺も・・・これ以上、我慢する必要はないな。」
「桜雲?さっきからブツブツと何を・・・桜雲?!」
がたんっ
いつも寝ている寝台がミシミシと音を立てて揺れる中、急に視界が切り替わった沈楽清は、ぽかんと口を開けて寝台の天井と目の前にある洛寒軒の顔を見つめた。
頬に当たるさらりとした絹糸のような髪と押さえつけられた両手首に感じるわずかな痛みだけがリアルに感じられる。
しかし、自分より一回り大きな男の身体を全身で受け止めても、何度も繰り返される洛寒軒の突飛な行動に慣れてしまったため、沈楽清は自分が押し倒されたことにも何の警戒心も抱かなくなってしまっていた。
今度は一体何?と、自分に馬乗りになっている洛寒軒をきょとんと見つめ返す。
そんな沈楽清を、玄肖への嫉妬心から押し倒した洛寒軒は、そのまま沈楽清の上に覆いかぶさるとその耳元で囁いた。
「楽清。三つ目の道だが・・・」
「三つ目?」
「陸承は論外で、人を殺すのも嫌なら・・・俺の、妻にならないか?」
「・・・妻?」
「そうだ。」
いきなり妻と言われ、妻というキーワードを上手く脳内変換できない沈楽清は、頭の中を整理するように洛寒軒に確認し始めた。
「誰の?」
「俺の。」
「誰が?」
「・・・お前だ。他に誰がいる。」
「何をするの?」
「龍王窟で一生共に過ごす。修行をしたり、話したり・・・あとは、そうだな。俺は家を空けることもあるから、お前に家事をやってもらえたら助かる。」
「なるほど。ああ、そう・・・そうかぁ、妻かぁ・・・って、妻?!」
ようやく思考回路が繋がった沈楽清は、洛寒軒から逃れようとジタバタと身体を動かすも、体格差がありすぎて一ミリもその場から逃れることができず、ほどなくして疲れはてて動きを止めた。
岩のように動かない洛寒軒の身体の下でゼイゼイと荒い息を繰り返した沈楽清は、あのさ、と洛寒軒に質問する。
「これから妖界へ一緒に行って、ずっとお前と一緒にいるってこと?それがお前の言う妻?」
「ああ。」
(寒軒と一緒にいるだけなら良くないか?こいつといるの、楽しいし。)
先ほど聞いた宗主の重責と洛寒軒の隣の二択であれば、洛寒軒の隣にいる方がずっと気楽に決まっている。
宗主はもっとふさわしい人がやればいい。
洛寒軒の側で、一緒に修行して、彼のために家事をして、一生を共に過ごす。
『妻』という表現にひっかかりを覚えた沈楽清だったが、彼の話した内容には大きな魅力を感じた。
(寒軒、ちょっと口下手だもんな。実際には親友とかルームメイトになってくれってことだろ?全然いいっていうか、むしろ願ったり叶ったりだ。これで、こいつや陸承に殺される可能性は完全に無くなるわけだし。いや、家事をしながら一緒に暮らすなら・・・家族と一緒に暮らすようなものか?)
洛寒軒の瞳の中に見え隠れする情欲に一ミリも気が付かない鈍感な沈楽清は、洛寒軒へにっこりと微笑んだ。
「うん、いいよ!それなら、ずっとお前の側にいるよ。家事は得意なんだ。任せて。」
そう返事をした沈楽清に一瞬目を大きく見開いた洛寒軒は、沈楽清の両手首を拘束していた手を離すと、右手を沈楽清の頭に回し、左手で左頬を優しくそっと撫でた。
「本当にいいのか?・・・俺で。」
(俺でいいのかって・・・桜雲は変なところで謙虚なんだな。一緒に暮らすだけだろ?)
確認する洛寒軒のひどく緊張した声や強張った表情を和らげてもらおうと、沈楽清はふふっと微笑むと、自分の目の前にある洛寒軒の頬を両手でそっと包んだ。
「うん!」
「・・・宗主はどうするんだ?」
「俺には向かないと思う。それこそ玄肖とか・・・もっとふさわしい人がやった方が天清沈派のためになるんじゃないかな?俺はお前と一緒に行くよ、桜雲。」
「玄肖は、いいのか?忘れられるのか?」
「玄肖?」
(ああ、妖界に行くからってこと?さすがに連れていけないもんなぁ・・・そりゃ離れるのは寂しいけど・・・)
出会って一か月の関係とは言え、玄肖が自分によくしてくれた恩は忘れていない。
しかし、さすがに洛寒軒を露骨に避けている玄肖を、妖界へ連れて行くことなど到底叶わないだろう。
「・・・うん・・・大丈夫。これからは、お前がいてくれるんだろ?」
「分かった。」
沈楽清の返事で上半身をわずかに起こした洛寒軒は、自分の服の帯をほどいて、ぐいっと上半身の服を脱いだ。
そして沈楽清の着物に手をかけると、その帯を一気にほどく。
シュルっと幽かな衣擦れの音と、地肌に洛寒軒の肌が直接触れるしっとりとした温かい感触に、未だに何もわかっていない沈楽清は「は・・・?」と小さく声を間抜けな声を出した。
「じゃあ、これからお前を、俺の妻にする。」