「楽清!ちょっと、急に走ったら危ないってば!」
六歳の洛美鈴は二つ下の従弟と手を繋いで、近所の公園に行くために道路の端を歩いていた。
狭い道なのに、一体何を急いでいるのか、自動車が猛スピードで走ってくるこの道は、事故が絶えず、年に一度は大きな事故が発生しているが、未だに行政からの働きかけはない。
「だって、早く行かないとブランコ取られちゃうじゃん!」
祖母に買ってもらった真新しいブランド物の子ども服を着た沈楽清は、時々まだ着なれないズボンの裾を踏んで転びそうになりながらも、公園に向かってちょこちょこと短い脚で懸命に駆けていく。
洛美鈴は決して足が遅いわけではないが、この従弟は足が速すぎて、一年前から彼が本気で走るとまるで追いつけなかった。
「楽清!止まりなさい!!」
「や~だよ!美鈴姉が早く来ればいいじゃん!!」
誰のいう事を聞かない腕白なガキ大将の沈楽清は、洛美鈴だけではなく幼稚園や近所の子どもともこんな調子なので、言い争いや喧嘩が絶えない。
とはいえ、運動神経抜群で幼い割によく頭の回る沈楽清に勝てる者などおらず、それがますます彼を天狗にさせていた。
父親はおらず、実親の経営する会社の中で働く忙しい母親に代わって、彼を育てている祖母は「あらあら元気ねぇ」と笑うばかりで彼に一切注意しようとしない。
いくらなんでも従弟を自由にさせすぎだと、洛美玲は幼いながらに沈楽清の在り方に不満を抱いていた。
「あっ!」
公園にたどり着く寸前で、別の子どもが公園へ入っていこうとするのを見た沈楽清は、ブランコが取られる!と思い込み、走るスピードをさらに上げようとした。
公園の前にある信号のない横断歩道を、周囲の確認もせずに沈楽清が足を踏み入れたその時。
キキィィィ
耳障りなブレーキ音と「楽清!!」と叫ぶ従姉の声が聞こえ、沈楽清の身体は後ろへ倒れた。
「阿清!」
事故に遭って病院へ搬送されたと通報を受けた沈楽清の母親は、彼が運ばれたという病院へ駆け込んだ。
病棟の看護師に「こちらです」と案内された病室を前に、蒼白な顔をした彼女は何度も深呼吸して息を整え、その扉を開ける。
「母さん?」
幼い沈楽清は、いつもほとんど顔を合わせない母親が突然すごい形相で現れたことに驚いて目を丸くさせた。
「え・・・なんで?仕事は?」
「阿清・・・無事、なの?」
「うん。全然大丈夫だよ!目の前で車が止まって、びっくりして倒れちゃっただけだもん。」
沈楽清はベッドの上に立ち上がると「ほら!」と母親の前でくるくる回る。
頭をぶつけて出血でもしたのか、坊主頭に包帯を巻いてはいるものの、他に大きなけがのなさそうな沈楽清を見た母親は、ほっと胸を撫でおろした後、思いきり息子の頬を引っ叩いた。
「いたっ!」
てっきり自分を心配して来てくれたと思った母親からぶたれた沈楽清は、何をするんだよと言い返そうとしたが、ギクリとして口をつぐむ。
目の前では、いつも毅然としていて自分に対して厳しい母親が、沈楽清のいるベッドサイドで子供みたいに大声を上げて泣いていた。
「かあ、さん?大丈夫だよ、俺、痛くないし。ね?」
オロオロと沈楽清が声をかけるも泣き止む様子のない母親に、どうしていいか分からない沈楽清はギュッと自分が着ている服を掴み、その場に立ち尽くす。
(なんだよ・・・俺が死んだみたいじゃないか・・・)
「母さん・・・」
小さな手を伸ばした沈楽清は母親の頭に触れようとしたが、その手を横から強い力で叩いて阻まれ、沈楽清はびっくりして自分を叩いた人物を見つめた。
「・・・おばあちゃん?」
「その汚い手で触るんじゃないよ!この疫病神!!」
沈楽清に向かってそう怒鳴った祖母は、沈楽清の母親を抱きしめると、彼女の耳に二言三言話しかけ、連れ立って外に出て行ってしまった。
「え・・・?」
何が起こったか分からず、しばらくその場から身体を動かすことが出来ずにいた沈楽清だったが、とりあえず、母親と祖母を追おうと、ぴょんとベッドから飛び降り、とことこと廊下を歩き始めた。
ずいぶん歩いた先、廊下を曲がったところのソファに二人が座っているのが見えた沈楽清は、二人の所へ行こうと足を速める。
「母さ・・・」
「だから、あの時堕ろせばよかったんだよ!」
自分の母を抱きしめた祖母の、叫ぶような金切り声が聞こえ、沈楽清はビクリとその場で足を止めた。
「母さん。でも、私・・・」
泣き止んだ沈楽清の母親は、祖母の胸の中で涙を拭いながら、諦めたような悲しい笑顔を浮かべている。
「あいつさえできなければ、あんたは今頃、大学教授になれるくらい優秀だったのに!あいつとあのバカな男のせいで、お前は・・・」
「でも、母さん。私はあの人を本気で・・・」
「別に二人の交際を反対してはいなかったさ!でもあの時、あいつを諦めれば、お前も成功していたし、あの男だってきっと今も生きていた。あの疫病神のせいで!しかもなんだって、あんな可愛くないガキなんだい!今回の件で可愛い美玲があんなに傷ついて泣いているのに、本人は何の怪我もなく呑気に笑っているなんてね!」
「母さん。もうその辺で・・・」
「この際だから言わせてもらうけどね。あいつの父親とそっくりなあの顔をみるだけで、私は毎日吐き気がするんだよ!あの男、最後に残した言葉が『楽清のためなら命なんて惜しくない』って言ったそうじゃないか。本当に死ぬ阿呆がどこにいるんだい!しかも、保険金も出ないような死に方をして!そんな男に似ているあいつは、絶対にロクな人間にはならないよ!!」
「母さん!」
沈楽清の母親は、まだ何かを言おうとしている祖母を止めようと、その声を遮るように大声を出す。
ここが何処かを思い出し、周囲に人がいないか確認するために顔を上げた彼女は、視界の端に沈楽清の姿を認め、その目を大きく見開いた。
「阿清、どうして・・・」
「母さん・・・おばあちゃん・・・」
幼い沈楽清には、二人が話していた内容は難しすぎて、詳細は一切分からなかった。
しかし、祖母の言う「あいつ」が自分だという事だけは理解が出来て、ポロポロと涙を流し始める。
「俺・・・何かしたの?おばあちゃん。」
「何かしたかだって?!この際だから教えてやろうかね。あんたの父親はあんたのせいで死んだんだ。それに、お前が出来たせいで私の娘は不幸になった!お前なんか生まれなければ良かったのに!いつも大きな顔して自分が王様みたいな振る舞いをして、みんなに迷惑をかけて!あんたみたいなのは誰も好きにならないし、誰からも必要とされないよ!!」
「母さん!!」
祖母の胸から抜け出た母親は、沈楽清を強く抱きしめると「阿清。なんでもないの。忘れなさい。」と彼の耳を塞いで繰り返す。
しかし、沈楽清は抱きしめてくれる母親よりも、今まで沈楽清に対していつも笑顔でどこまでも優しかった祖母の豹変ぶりの方から目が離せなくなり、彼女ばかりをじっと見つめ続けた。
(俺は、生まれなければ良かった・・・誰も好きにならない・・・誰からも必要とされない・・・)
その意味はわからなかったが、彼女の一言一言は幼い沈楽清の心にグサリとナイフのように深く突き刺さり、その心を抉っていく。
祖母の本音と鬼の形相を見た沈楽清は、大粒の涙を流しながら母親と祖母に向かって何度も謝った。
「ごめんなさい。これからは、いい子になるから。」と。
その半月後、別人のように大人しい良い子になった沈楽清と祖父の会社を辞めた母親は、二人で暮らすために、立派だった祖夫母の家からボロボロのアパートへと移り住んだ。