「桜雲・・・本当にごめんなさい・・・」
「あの、夕食を、持ってきたんだけど・・・お腹すいてない?」
「・・・寒軒、俺が本当に悪かったから。お前も俺を殴っていいから、ここを開けて・・・」
(ど、どうしよう・・・)
自分の部屋の寝室の扉がぴったり閉められ、何度声をかけても謝罪をしても、中にいる洛寒軒からうんともすんとも返事をもらえない沈楽清は、途方に暮れてその場に立ち尽くした。
お盆に乗せたお茶も夕食もすっかり冷めてしまっており、なんならそれを持つ腕が少しずつしびれ始めている。
洛寒軒の精神状態を表しているかのように、もうすっかり暗くなったはずの室内からは明かり一つ漏れてこない。
強引に開けることもできるが、何となくそれはしてはいけない気がして、沈楽清は扉の前でずっと謝り続けていた。
(昼にすぐ謝りに来なかったのが悪かったかな・・・でも、なんか声かけちゃいけない気がして・・・時間が経った方が良いのかと思って、そっとしておいたんだけど・・・)
あの後、思わず叩いてしまった沈楽清に「しばらく俺に近寄るな」と言って、洛寒軒はその場からすぐに立ち去ってしまった。
かける言葉が見つからない沈楽清はどうすることも出来ず、あれこれ悩んだ末に、素直に彼の言葉に従い、彼をそっとしておいたのだが、1時間2時間と経つうちに次第にソワソワし始めた。
空が赤く染まり始め、とうとう部屋の前の廊下に本を持って来て読んでいた沈楽清が、さすがにそろそろどうにかしたいと思っていた所へ、まさかそんな事態になっているとは思わない玄肖がいつもの調子で夕食の材料を運んでくる。
「という訳なんだけど・・・どうしよう・・・どうしたらいいと思う?」
「出会って三日目にして、もう痴話げんかですか?」
藁にも縋る思いで洛寒軒との出来事を伝えた沈楽清に対し、玄肖は思いきり笑うと、さすがに目に余る沈楽清の言動に対して手厳しいことを言い始めた。
「率直に言うて申し訳ないやけど、そら完全に宗主が悪い。そんな状況で拒否するとか鬼ですか?ましてや、あんたからさんざん誘うような言動をしといて。今回は二人の問題やから、部外者の私には何も出来ません。私が入ると、かえってややこしくなりますよ?」
そう言って沈楽清と共に料理だけ作り、玄冬宮へ戻っていった玄肖を、冷たい奴と沈楽清は心の中で詰りながらも、それが正論だと分かっているので、とにかく洛寒軒が何か反応してくれるまでは声をかけ続けようと扉の前に居続けることにした。
(ご飯、温め直してこようかな・・・)
ただでさえひどく怒らせた人物に、さすがに冷め切った食事を食べさせるのは躊躇われる。
そう思った沈楽清が炊事場へ行こうと身体の向きを変えた時、計ったようなタイミングで自分の部屋の扉が自動的に開いた。
「・・・入れ。」
とてつもなく不機嫌だと分かる洛寒軒のいつもよりずっと低い声に、ここは俺の部屋なんだけど・・・と沈楽清は思いつつも、下手なことは言わず、部屋の中に身体を滑り込ませた。
洛寒軒が術で開けた扉は、沈楽清の身体を中に招き入れると、再びぴたりとしまる。
「寒軒・・・本当にごめんなさい。」
「うん。」
真っ暗な部屋の中、長椅子に座ったまま何も言わない洛寒軒は、相変わらず沈楽清から顔を背けたままだった。
長椅子の前に置かれた机に料理の乗ったお盆を置いた沈楽清は、夕食を食べられるようにセッティングしながらチラチラと洛寒軒へと視線を送る。
(やっぱり、まだ怒ってる・・・)
あまりの気まずさに、洛寒軒を直視することが躊躇われた沈楽清は、せめて手元だけでも見えるようにと蝋燭に火を点けた。
わずかな炎に照らされた室内で、洛寒軒の方を思いきって見た沈楽清は、洛寒軒の赤く色づいた両頬が何より先に目に入ってしまい、それ以上目を上げられなくなる。
お盆から料理をいくつかその場に置きながら、沈楽清は洛寒軒へと恐る恐る声をかけた。
「本当にごめんなさい、桜雲・・・あの、ごはん、これとこれを温め直してくるから、こっちを先に食べてて・・・」
「そのままでいい・・・作ってくれてありがとう。」
いつものように自分の隣を手で叩いた洛寒軒の求めに従って、もしかして許してくれた?!とパッと顔を明るくした沈楽清は自身の湯呑をもって彼の隣に座った。
しかし、「いただきます」と挨拶をして黙々と食べ始めた洛寒軒の隣で、何を話していいのか分からず、気まずい空気の中、ただ黙ってお茶をすすり始める。
「・・・すまなかった。」
食事を終えた洛寒軒はお茶の最後の一口を飲み干すと、隣でモジモジしている沈楽清に対して口を開いた。
「あ、謝らないといけないのは、俺のほうだよ!ごめん、どうしていいかわからなくて、その・・・つい、手が出てしまって・・・」
「・・・大丈夫だ。お前は仙人なんだ。しかも色々あったしな。よくよく考えてみれば、お前は俺が嫌いに決まっている。」
「はぁ?!お前が嫌いなんて、そんなことあるわけないだろ?!」
ガタッと長椅子から立ち上がった沈楽清の方をちらりと見た洛寒軒は冷たくフッと笑う。
そのひどく冷めた瞳に、沈楽清の身体がビクリと震えた。
(いやだ・・・桜雲に、嫌われたくない・・・)
両手で自分の服をぎゅっと握りしめた沈楽清の、まるで親に怒られた子どものような仕草を見て、小さく笑った洛寒軒は胸の前でゆっくりと大きく手を広げた。
「本当に、俺が嫌で殴ったのでないのなら・・・続きをしようか?」
「つ、続き?!」
「おいで。」
戸惑う沈楽清から目をそらさず、真っすぐ見つめてくる洛寒軒に、沈楽清の喉仏が上下する。
(いつもみたいに従うと、なんかダメな気がする・・・けど、もし行かなかったら・・・桜雲を失ってしまう・・・)
この人を失いたくない。
心がそう叫んだ沈楽清は、おずおずとその手を洛寒軒に向かって伸ばし始めた。
心臓がバクバクいって、全身の血が沸騰するくらい熱い。
沈楽清は自分がどんな表情をしているか分からず、この部屋がほの暗くて本当に良かったと心の底から思う。
「楽清、からかってすまない。冗談だ。ところで・・・」
ぷっと吹き出した洛寒軒が自分に対して何か言っている気がするが、今の沈楽清には何も聞こえず、ただ、その広い胸と逞しい腕に全ての意識が集中する。
(もう、どうにでもなれ!)
洛寒軒の膝の上に自ら座り、ぎゅっと目を瞑ってその胸に飛び込んだ沈楽清は、あまりの恥ずかしさで口から心臓が飛び出しそうだった。
ドクンドクンと大きく胸が高鳴り、なぜか泣き出しそうになる。
そんな情けない自分の姿を見られたくなくて、沈楽清は手をわずかに動かし、風を起こすと室内の蝋燭の火を消し去った。
わずかな星や月の光しか無くなった真っ暗な室内で、沈楽清は洛寒軒の首に自ら腕を回して、その身を委ねる。
「桜雲・・・ごめんなさい・・・嫌わないで・・・」
「っ?!」
一方、まともに口づけ一つ出来ないお子様な沈楽清を、何度も叩かれた腹いせに少しからかってやろうと思っていた洛寒軒は、沈楽清の大胆な行動に驚いてしまい、彼の方が思わず固まってしまった。
てっきり顔を真っ赤にして怒るか、もじもじ恥ずかしがるかの二択だと思っていたのに・・・と洛寒軒は思いながらも、三界の嫌われ者の自分に対して、いつも自分から歩み寄ってくれる沈楽清のいじらしさに、驚きと共に嬉しさがこみあげてくる。
いつもは無表情なその顔に、かすかに笑みが浮かんだ。
「楽清・・・このまま、聞いてくれるか?」
自分の腕の中で少し震えている沈楽清に、愛おしさを感じてしまった洛寒軒は、沈楽清の高めの体温やどこか甘い香りに自分の理性を総動員しながら、ただ優しく沈楽清を抱きしめると、本来は昼に話そうと思っていたことをゆっくりと話し始めた。
「今、お前にある道は大きく三つだ。一つは陸承の道侶になること、もう一つはここで名実ともに宗主になること。・・・最後は、後で話す。」
「陸承の道侶は、嫌!俺を殺したい奴に嫁ぐなんて、絶対に嫌だ!ありえない!!」
原作で、洛寒軒からどれほどの目に遭わされても全て静かに受け入れて殺された『沈楽清』が、唯一「嫌だ!やめて!」と泣き叫んで抵抗したのは陸承から乱暴されている間だけだったと沈楽清は朧気ながら思い出す。
強引に『沈楽清』を抱き、更には他の男に与えて、拷問を加えた末に殺すように仕向けた残虐な男。
会ったこともないけれど、そんな男の妻になるなんて虫唾が走る。
「わかった。」
陸承への憤りから、わずかに震えた沈楽清の肩を洛寒軒は落ち着かせるようにそっと撫でた。
(寒軒にはとても言えないけど・・・もしかして、お父さんがいたら、こんな感じなのかな?)
自分と年が変わらない男に対して何を?と皆から言われそうだが、洛寒軒には初めて会った時からどこか懐かしいような、ずっと前から知っているような、こうして側に居るのが当然のような、そんな不思議な感覚を沈楽清は抱いていた。
その正体が何なのか、ずっと分かっていなかったが、こうしてくっついている時の安心感や、彼の体温のあまりの心地よさから、これは会ったことも見たこともない「父」と同じなのではないだろうかと沈楽清は思い始める。
自分へ甘えるように腕の中で身体を動かした沈楽清に、まさか父親扱いされている思わない洛寒軒は、沈楽清にスリスリと身体をなぞられ、思わず変に反応してしまいそうになる自分を必死で鎮める。
ごほんと大きく咳払いをすると、洛寒軒は努めて平静を保ちながら話を続けた。
「次に、宗主になる道だが、これに関しては、藍鬼の受け売りになる。仙界の人間でない俺の話が正解かどうか分からないが・・・」
そこまで言って黙ってしまった洛寒軒を、不思議に思った沈楽清は、肩に埋めていた顔をあげ、洛寒軒の顔を見る。
薄暗くて、ほとんど何も見えない中、それでも、洛寒軒が自分に対してひどく悲しそうな顔をしたのを目にしてしまった沈楽清は、何とも言えない気持ちになり、拳をぎゅっと握ると洛寒軒の肩に再び顔をよせた。
しばらくお互いに無言で抱き合ったまま、徐々に寒くなってきた室内でその体温を分け合う。
「・・・お前は、本当に、宗主になりたいんだよな?」
洛寒軒の問いかけに、どういう意味だろうと思いながらも、小さく沈楽清は頷いた。
「だったら・・・俺を殺せるか?楽清。」
洛寒軒の感情を押し殺した声に、沈楽清はその腕の中で大きく目を見開いた。