夢を見た。
幼い俺が真っ白な建物の中を走っている。
建物の中は、何処に行っても行き止まりで、何度も同じ道を行き来して、迷いに迷ってたどり着いた先にいたのは、鬼のような形相の老婆。
その女は俺に真っすぐ突進してくると、その手に持っていた果物ナイフで俺の胸をズブリと深く一突きにした。
『お前は人を不幸にする。この人殺し!お前なんか生まれなければ良かったのに!』
何度ナイフを振り下ろされても死ねない俺は、泣きながらその老婆に許しを請い続けた。
「ごめんなさい!」
大声を出した沈楽清は、ハッと目を開けると、その場から飛び上がるようにして起き上がった。
はぁはぁと荒い呼吸を繰り返す。
額から流れた冷や汗を左手で拭いた沈楽清は、全身がひどい汗でぐっしょりと濡れているのに気が付いた。
琥珀色の大きな瞳からも涙が一筋流れていく。
(一体、いつまで・・・)
沈楽清は、左手で乱暴に目じりを拭うと、顔半分を押さえて唇を強く噛んだ。
寝間着が肌に張り付く気持ち悪さと己の見た夢から逃れたい沈楽清は、水でも浴びようと寝台を出ようとして、右手がその場から動かないことにようやく気がついた。
手のひらにしっかりと感じる、誰かの手の温かさと重み。
「桜雲・・・」
自分が寝ている寝台に、沈楽清の手を握りしめたまま、上半身うつ伏せで寝ている洛寒軒を見た沈楽清は、その姿に思わずくすりと笑ってしまった。
(すっごい窮屈そう)
背が高く手足が長い洛寒軒にとって、低めの寝台によりかかるのは随分苦しい姿勢なのか、その美しい顔の眉間にしわが寄ってしまっている。
昨日の優雅な寝姿から一転、仙界が恐れる妖王のあまりに滑稽な姿に、先ほどまでの暗い気持ちが解れていくのを感じた沈楽清は、自由な方の左手で洛寒軒の頭をそっと撫でた。
(心配して、一晩ついててくれたんだろうな・・・)
すでに室内に白い陽の光が入ってきているところを見ると、自分は随分長く眠ってしまったらしい。
「ありがとう。」
洛寒軒の頭を優しく撫でた沈楽清は、洛寒軒の右手の下から自分の右手をそっと抜き取り、名残惜しそうにもう一度、今度は繋いでいた右手で彼の髪に指を通してそのさらりとした感触を確かめた。
池にやってきた沈楽清は、その場に着替えをおくと、寝間着を脱ぎ、そのままザブンと池の中に潜る。
池畔を1m過ぎると急に深くなるこの池は、泳ぐことが好きな沈楽清にとって格好の修行の場でもあり、生活するのに必要な場所であった。
洗濯や水汲みのため、また修行後によく来てはお風呂代わりに使っている。
(お風呂は屋敷内にあるけど・・・玄肖が水を運んでくるのを見てしまってから頼みづらいんだよね・・・)
現代のライフラインがある暮らしを当たり前のものだと思って生きてきた沈楽清は、水とは蛇口をひねれば出てくるものだと認識していた。
しかしこの仙界では、水とは使用人が汲んできて、口に入れる前には一度しっかり沸かすもの。
湯を沸かすときには火の術を使えば一瞬だが、水を運ぶ作業は人力だった。
水の術もあるにはあるが、生活に使える感じではなく、それを知らずに風呂桶に水を貯めようとして術を発動させた沈楽清は、見事に風呂桶を氷漬けにして玄肖に叱られた。
そんなことを思い出しながら、水の中から天を仰ぐと、湖面に映った太陽がゆらゆらと光り輝いているのが見える。
(大丈夫・・・あれは夢なんだから・・・)
しばらくぼんやりとその光景を眺めているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた沈楽清は、水中から出ようと池畔まで泳いでいき、足のつくところまで来ると、その場に立ち上がった。
水から出た上半身に、いつもは癖のある鳶色の髪が、水に濡れるとまっすぐになって顔や背中にかかる。
(桜雲の髪、良いよなぁ。俺の髪は、乾くとどうしてフワフワになるかな・・・)
何度か触れた、あの絹糸のような黒髪。
洛寒軒のことを思い出しながら岸に上がった沈楽清が、顔にかかった髪をかき上げたところで、目の前に急に手拭いが差し出された。
てっきり誰もいないと思っていた沈楽清はびっくりして、手拭いを差し出した人物の方を仰ぐ。
「起きたなら俺も起こせ。断りもなしに勝手にどこかへ行くな。」
「寒軒!」
「一体どれだけ潜ってたんだ?顔が真っ青だぞ。」
ややムスッとした表情で手拭いを広げて沈楽清の頭にかけた洛寒軒は、その表情とは裏腹に、手拭いで沈楽清の顔についた水滴を優しく拭っていく。
母親のような優しい手つきの洛寒軒に大人しく身を任せていた沈楽清は、「ううん、何もない。大丈夫だよ」と微笑んだところで彼の瞳に映る自分が一糸まとわぬ姿なのに気が付いた。
(ちょ、ちょっと、待って・・・)
沈楽清の髪をゴシゴシと拭く洛寒軒の目線がゆっくりと、髪を伝う雫に従って、自分の鎖骨から胸、その下へと移っていく。
「本当にお前は細いな。腰なんて女よりも・・・」
「エッチ!!」
洛寒軒に身体を上から下まで見られた沈楽清は、右手を振り上げると洛寒軒の頬を思いきり引っ叩いた。
「裸を見たのは俺が悪かったが、わざと覗いた訳でも、無理やり脱がせたわけでも、襲ったわけでもないんだが?今まで危険な目に遭ってもぼーっとしてたのに、なんで今回だけこんなに反応が良いんだか・・・」
「ごめんなさい・・・本当にごめんなさい・・・」
「おはようございます、宗主・・・って、その頬どうしたん?」
長椅子にかけてそっぽを向く洛寒軒と、その前でひたすら頭を下げる沈楽清の所へ、いつもの調子でやってきた玄肖は、洛寒軒の真っ赤に腫れた右頬を見て思わず吹き出した。
「昨日の今日で、今度は何をしましたん?」
「・・・急に黙っていなくなったこいつを探しに行ったら水浴び中で、手拭いを差し出した途端にこの扱いだ。着替えを手伝ってもらう立場なんだから裸なんて見られ慣れてるだろうに。」
「桜雲・・・本当に俺が悪かったって・・・ねぇ、そろそろ機嫌直してよ。なんでも言う事聞くからさ。」
顔を自分の方へ向けようとしない洛寒軒に泣きを入れる沈楽清を見て、ますます面白くなってしまった玄肖は洛寒軒の腫れた頬を覗き込む。
「宗主は箱入りやからしゃーないやろ。にしても、立派な紅葉やね。ええもん見たわ。春やのに。」
「やかましい!」
「一応言っとくけど、宗主は普段から身の回りのことは一人でするので、私は手伝ぉてへんのよ。なにせ極度の恥ずかしがり屋さんやから。」
「恥ずかしがるまでは分かるが、いきなり殴るのは・・・ああ、藍鬼の弟だったか、こいつは・・・そんな所ばっかりあいつに似てどうするんだ。」
ケラケラ笑う玄肖と、ますます機嫌が悪くなっていく洛寒軒を前に、それまで小さくなって謝っていた沈楽清は、おもむろに洛寒軒の両肩に手を置くと、彼に向かって諭し始めた。
「まぁ、その顔と身体だし仕方ないと思うけど、あんまり遊び歩くと刺されちゃうこともあるから気を付けた方が良いと思うよ。女の人は怖いからさ。あ、ごめん。寒軒が好きなのが女性とは限らないか。」
「・・・急にお前は何を言い始めたんだ?」
「え、だって、俺みたいな反応は初めてってことは、他の人たちはそうじゃないってことでしょ?桜雲は経験豊富なんだぁって・・・」
一瞬の沈黙の後、腹を抱えて笑い始めた玄肖を横目に、洛寒軒は沈楽清の柔らかい頬
を両手でむぎゅっと掴むと、思いきり真横へと引っ張った。
「川や池に行けば、誰かが水浴び中なんて日常茶飯事だろうが!この世間知らず!人を好色家呼ばわりしやがって!」
「アガガガガ・・・ご、ごめんなひゃい!」
「アッハッハッハ!」