自分が名乗ったとたんに腕の中でまるで気を失ったように生気のなくなった沈楽清に、不思議そうな顔をした洛寒軒は彼の頬をそっと撫でる。
「どうした?」
「・・・」
ずっとそれまで表情豊かだった沈楽清のこと、名乗ればさぞや面白い反応が返ってくると思っていた洛寒軒は、自分の名だけで急に人形のようになってしまった沈楽清に対して、ややつまらなさを感じてしまう。
そうとは言え、人質にするのに丁度いい沈楽清を離すわけにはいかず、そのまま横抱きに抱き上げると倒れている玄肖に近づいた。
「おい、いい加減起きろ。」
洛寒軒に思いきり蹴り飛ばされた玄肖は、地面を転がると、ようやくその意識を取り戻した。近くにあった剣をその手に取ると、剣を支えに何とかその身体を起こす。
「宗主を、離せ・・・」
蹴られたときに唇の端を切ったのか、血が流れているのに気が付いた玄肖は、ぐいっと強引に服で拭うと、その場に立ち上がり、ふらつく足で洛寒軒へ近づこうとする。
「・・・お前も、こいつも、ろくに話を聞いていないのか?それとも理解する頭がないのか?俺はただ話が聞きたいだけと言っているのに、どうしてそうも喧嘩腰で挑んで来ようとする。天清沈派は力の差も見極められないほど阿呆の集まりか?そもそも、そんな俺をここへ連れてきたのはこいつだが?」
玄肖から距離を取った洛寒軒は、その腕の中で大人しく抱かれている沈楽清を玄肖に見せる。
人形のように無表情で、まるで動かない沈楽清に、玄肖は「宗主?」と声をかけるが、全く返事がない。
「お前、宗主に一体何をした?!」
「・・・名乗っただけだが?むしろ俺が聞きたい。こいつは急にどうしたんだ?」
「自分の兄を殺した人間の名を聞いて、平静でいられるとでも?」
言い返した玄肖に、ため息をついた洛寒軒は腕の中の沈楽清を見る。
「だとしたら、宗主失格だな。俺に立ち向かってくるならいざ知らず、こんなふうに腕の中で大人しくしていてどうする。」
「・・・あんたは、私に聞きたいことがあるんやろ?なんでも答えるので、聞ぃたらちゃっちゃとこの場からいなくなってもらえませんか?」
今、腕の中にいる沈楽清が『沈楽清』ではないと気づかれる訳にはいかない玄肖は、ふらつく身体の支えにしていた剣を再びその場に捨てる。
恭順の意思を示した玄肖に嘘はないと感じた洛寒軒は、自身は再び長椅子に座ると、腕の中の沈楽清を大きなぬいぐるみのように膝の上に抱きかかえる。
「一つ目。今日よこしてきた仙人達は一体なんだ?あえて人間の姿をしていたのに、どうして襲う?なぜ、俺があそこにいると分かった。」
「・・・それに関しては、当家は無関係です。それとも天清沈派の人間だという証拠でも?」
「藍鬼の件を考えれば、お前たちが一番俺を殺したがってると思っているが、違うのか?」
「ちゃいます。少なくとも、宗主も私も誰にも命じていません。それに、天帝からもあんたの討伐命令は出とらへん。出たところで、行くのはその子やない。あんたに道侶を殺された華南夏派の宗主が一番あんたを殺したいやろから、たとえ相討ちになったとしても彼が行くやろ。」
「・・・俺と相討ちとはずいぶん大きく出たな。」
淡々とした玄肖の答えに、やや不服そうな顔をしながらも、まぁいいと洛寒軒は話を続ける。
「二つ目。お前とこいつは何故あんな場所に来た?天清沈派の敵討ちでも、天帝の命でもないなら、あの場に来た理由は?」
あの場にいた目的を尋ねられた玄肖は答えに窮して黙り込む。
本当の事を話すわけにもいかないが、下手な嘘をつけば、命の危険があるのは玄肖自身ではなく彼の腕の中の沈楽清になる。
少し考えた玄肖は、やがて観念したように話し始めた。
「・・・その方は天清神仙。生まれつき特殊な存在や。そんな宗主が、今日、あの場所で貴方と陸承が出会うのを止めないと殺されると言うので、私が一緒に貴方を止めに行きました。」
「白々しい。」
玄肖に向かって無造作に手を振った洛寒軒から鋭い刃のような風が放たれ、結界でガードをしたはずの玄肖の頬や腕をいとも簡単に傷つけていく。
声は挙げずに痛みに耐えた玄肖だったが、立っていることが出来なくなり、その場に膝をついた。
そのドサッと身体が崩れた音に、ピクリとわずかに沈楽清の身体が反応する。
「お前は、今がどういう状況か忘れたのか?嘘をつくなら、もう少しまともな嘘をつけ。俺に殺されるとこいつが知っているなら、どうして俺を助ける。それに俺がこいつを殺す理由は?まさか俺が藍鬼を殺したから、その弟も殺すだろうと?」
「嘘はついていません。・・・あんたは、その子が嘘をつくように見えますか?」
一番深く傷つけられ、だらんと下がった右腕を左腕でかばいながらも、玄肖は悲鳴一つ上げずに毅然と洛寒軒を睨みつける。
「あなたは今夜、当家の陸承と通じ、その子を殺すはずだったんです。」
「・・・陸承?誰だ、そいつは。」
嫌悪感で眉をひそめた洛寒軒の様子に、玄肖は本当に彼が陸承を知らないことを確信する。
「間者を送り込んできて暗殺しようとした挙句、次は陰謀論か?そこまでして俺を滅ぼしたいなら、いちいち因縁をつけずに、いっそ妖界へ総攻撃でもかければいいだろう。それとも神聖なお前たちは大義名分がないと出来ないとでも?その割にろくでもない奴が多い気がするが?大体、妖族が食料として人間を食べるのは悪なのに、自分たちが人間や妖族を犯したり、殺したりするのは良いときている。それは一体どんな判断基準なんだ?」
吐き捨てるような洛寒軒の痛烈な批判に、心当たりでもあるのか、言い返すことをせず玄肖は黙り込む。
「藍鬼の件もそうだが、あいつが間者だなんて事はもう何年も前から知っていて、その上であいつとはうまくやってきていた。それなのに、ある日突然剣を向けてきたのはあいつだ。それを討っただけなのに『藍鬼を俺が殺した』?大人しく殺されろとでも?逆恨みも甚だしいな!」
「・・・それは、本当ですか・・・?」
自身の腕の中で、それまで人形のようだった沈楽清がかすかに震える声を出したのに気が付き、洛寒軒は沈楽清の方へ視線を向ける。
「・・・あなたの言った話は、本当ですか?桜雲・・・いえ、洛寒軒。」
怯えたようにその身体は小さく震えながらも、大きな琥珀色の瞳は真っすぐに洛寒軒の目を見つめてくる。
「・・・疑うのか?」
自分をどこまでも真っすぐに見つめてくる沈楽清に対し、視線を外さないまま、洛寒軒は静かに問いかけた。
「わかりません。俺は、ここ以外のこの世界を何も知らないので。」
「知らない?ずいぶん無責任だな。この家の主ではないのか?」
「・・・俺は、この屋敷から出てはいけないと言われています。だから、宗主の仕事をしたこともないし、書物の中でしかこの世界のことも知りません。だから、貴方が正しいかどうかは分からない。」
「宗主!」
急に話し始めた沈楽清が何を言う気か分からず、玄肖は慌てて止めに入ろうとする。
「宗主!そいつは妖王です!耳を傾けるのは・・・」
「うるさい。」
再び玄肖に向かって手を振ろうとした洛寒軒の腕に、沈楽清はしがみつくと、その手が動くのを自分の身体を使って阻止をする。
「・・・怪我をしたいのか?」
「本にありました!門弟の責任は宗主が負うものだと。玄肖が何かをしたというなら、どうぞ俺に。」
自分へと冷たく鋭利な眼光を向けた洛寒軒に対し、ガタガタと震えて身を強張らせながらも、沈楽清は玄肖を攻撃しようとした洛寒軒の手を自身の心臓の上に持って来て、その上に自身の手を重ねた。
(原作では、この手で・・・)
急に思い出してしまって、恐怖のあまり、目が潤んでくるのを感じながらも、玄肖にこれ以上は迷惑をかけられないと、沈楽清は洛寒軒から何をされても受け入れようと覚悟を決める。
「あなたをここへ何も知らずにつれてきたのは俺です!玄肖はこのまま見逃してください。俺を、あなたの・・・好きにすればいい。」
「度胸はあるんだな。それとも俺がお前を殺さないとでも思って高を括ってるのか?」
「いいえ。貴方は、俺を容赦なく殺す。」
今にも泣きだしそうな表情で、それでも自分から視線を外そうとしない沈楽清に対し、洛寒軒は軽く笑うと、その手を胸からどかせ、沈楽清の肩に彼を抱きかかえるように回す。
「・・・あいにく、お前みたいな無知で無力な子どもに手にかけるほど落ちぶれちゃいない。そもそも話をしたいだけだと何度言ったらわかるんだ?」
「じゃあ、なんで俺をずっと抱えてるの?」
「こうでもしないと、あちらの男が言う事を聞かないだろう?」
うるうると大きな瞳に涙を貯めて、それでも泣かないように耐える沈楽清に対し、洛寒軒はフッと笑うと、その頭を撫でた。
「藍鬼からとても可愛いとは聞いていたが、なるほど、こんなに幼いならば確かにそうだろうな。」
「・・・え?」
色々と一人で納得した様子の洛寒軒に対し、それまで緊迫した空気の中、悲痛な表情だった沈楽清と玄肖は思わずぽかんと呆けたような表情になる。
「・・・妖王さん?」
「・・・幼いって・・・一体、俺をいくつだと・・・?」
なんとも言えない白けた空気の中、今までと違う2人の様子に洛寒軒が小首をかしげる。
「せいぜい、12か3だろう。いや、もっと小さいか?」
(こいつが俺に甘かったのって、本当に小さい子だと思ってたから?!好みだったからとかじゃなくて?!)
原作の展開で考えると、これから玄肖を助ける代わりに、この上半身裸の色男に身体を差し出すことになるだろうと覚悟をしていた沈楽清は、自身の盛大な勘違いに、もう恥ずかしいやら情けないやらムカつくやらで、その顔を真っ赤に染めると洛寒軒に向かって怒鳴った。
「俺は18だ!!」