一体何が起きているのか。
理解が追い付かない沈楽清は、今日起きてから気を失って倒れるまでの行動をもう一度自分の中で反芻した。
しかし、何度思い返しても、従姉の部屋に行った後の記憶が、まるで霧の中に迷い込んでしまったかのように何も思い出せない。
黙り込んでしまった沈楽清を置いて一旦外へ出て行った男は、10分程度で戻ってくると、剣を握りしめたまま動かない沈楽清に再び近づき、その手に持ってきたお茶を手渡した。
受け取った手の中の湯呑の温かさと、ふわりと香る茉莉花茶の爽やかな甘い香りに、沈楽清のがちがちに凍っていた体と心が少しだけ解れていく。
「これでも飲んで落ち着き。」
「ありがとう。」
沈楽清がゆっくりとお茶を飲み始めたのを見た男は、一緒に持ってきた木の箱から薬と包帯を取り出すと、慣れた手つきで首の手当てを始めた。
「いきなり傷つけて、ほんまにすんませんでした。」
「い、いえ、大丈夫です!誰でも誤解はありますし。大した怪我じゃないし。だいたいどうもあなたの沈楽清と俺は違うからしょうがな・・・って、え?違う?え?俺、沈楽清ですけど、俺じゃない?どういう事?!」
「・・・ちゃいますね。あんたは宗主とちゃうやろ?」
「じゃあ、俺は誰なんです?というか、ここはどこですか?そういえば学生寮じゃないですよね?俺の部屋、6畳の極せま物件で、こんな広くて寝心地いいベッドじゃないし!」
ここは貴方の部屋だと言われたのに、落ち着いて改めてじっくり部屋の中を見てみれば、何一つ自分の知っているものなど無いことに気が付いた沈楽清は、一体自分はどこに連れてこられてしまったのか、何か一つでも知っているものはないかとせわしなく視線をあちこちに彷徨わせた。
しゃべればしゃべるほどパニック状態になっていく沈楽清に、少し困ったような顔をした男は落ち着いてと優しく声をかける。
「私は玄肖。天清沈派の門弟やで。あんた、いや、その身体の持ち主が、ここの宗主である沈楽清や。」
「玄肖、さん?天清沈派?宗主?」
(ちょっと何言ってるか、本当に分からない!!)
「玄肖でええよ。なるほど、分かった。まずはあんたの話を聞かしてや。ほんでこちらの話をする。お互いに情報交換をしよか。」
ポンポンと沈楽清の肩を叩き、まずは寝台に腰かけるよう玄肖は促すと、自分もその隣に浅く座る。
「ほんで、一体何があったん?」
優しく促されて、沈楽清はぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。
白く明るかった室内に夕日が差し込み始めた頃。
玄肖の説明を聞き終えた沈楽清はため息をついて頭を抱えた。
「これ、なんてRPGですか?」
「あーる・・・なんとかって何?」
「ゲームです。FFとかドラクエとか。」
「ふぅん、やっぱおもろいな。そっちの世界とは、ほんまに何もかも違いそうや。」
「そうですね。俺の世界に仙術とかないですし。」
「え~、不便やな。空とかどう飛んで移動するん?」
「飛行機ですかね~?」
話す中でお互い質問しあううちに少しずつ打ち解けた玄肖と沈楽清は、とりあえずこの不可思議な状況の理由は分からないながらも、お互いに相手が悪い人間ではないという事だけは理解できたのか軽口を叩いて笑いあう。
「で、ここのこと、少しは理解できた?」
「はい。天帝がいて、主に四つの派が支えてる。俺・沈楽清はその中の一つの宗主つまりはトップってことですよね?」
「そうそう、呑み込みが早くて助かるわ。」
玄肖の話を頭の中でまとめながら、沈楽清は美玲姉がいたら泣いて喜んだだろうな、と頭の片隅でぼんやりと考えた。
ここはまさに彼女の好きな仙境の世界。
仙界・人界・妖界の三界があって、今自分がいるところは仙界。
そこで沈楽清は「天清神仙」と呼ばれる仙人の一人であるらしい。
「宗主と言うからには、何か仕事がありますよね?俺でやれますか?やれるなら全力で頑張ります!」
正直なところ、どうしてこんなところに?とか、なんでこんな目に?とか色々思うところはあるけれども、嘆いたところで元の世界に戻れるわけではないのだし、少なくとも身体を動かしていた方が、気が紛れていいだろうと沈楽清は張り切って玄肖に声をかける。
そのキラキラとした純粋な目で見つめられた玄肖は、ふふっと笑うと沈楽清の頭に手をおき、ぽんぽんと優しく撫でた。
「あんたは、ええ子やな。」
少し寂しそうな顔で微笑む玄肖が、自分ではなく『沈楽清』を想っていることに気が付いた沈楽清は小さな声で謝った。
「なんで?」
沈楽清の謝罪の意味が分からず、首を傾げた玄肖に沈楽清は言いにくそうに話を続ける。
「恋人同士だったんじゃないんですか?あなたと『沈楽清』は。」
「まさか!全然ちゃうけど!なんでそう思ったん?」
突拍子もない沈楽清の言葉に目を見開いた玄肖は、彼の言葉を全力で否定した。
「あなたは、俺を見るとき、ずっと寂しそうにしていたし、『沈楽清』の話をする時、本当に愛おしそうに話すから。それに今、俺とあなたの距離が近いでしょ?ただの宗主と門弟って関係で寝室の場所も知ってるっていうのも不思議だなって。それでてっきり・・・勘違いならすみません。忘れてください。」
沈楽清は、自分の勘が外れたことをちょっとだけ残念に思いつつ、一方でひどく安堵していた。
少なくとも、自分はこの人から最愛の人を奪ったわけではないらしい。
「距離が近いのは、宗主の側仕えやからやで。」
「そうだったんですね。良かったです!俺がいるってことは、きっとこの人があっちに行っちゃってると思うので。でも戻る方法も分からないし、このままだった時に恋人だったら申し訳ないなって思っちゃいました。『沈楽清』がどんな人か知らないですけど、こんなゴリマッチョじゃないでしょうから。」
えへへと笑う沈楽清に、玄肖はきょとんと瞳を丸くする。
「ゴリマッチョ?」
「ええ、なにせ身長が185もありますし、体重も90以上あるので。あ、でも体脂肪率は12%ですから肥満ではなくてほとんど筋肉なんですけどね!」
力こぶをつくる沈楽清に、ため息をついた玄肖はちょっと来て、と沈楽清を手招きし、2つ隣の部屋へ連れて行く。
中を開けると衣裳部屋のようであり、衣紋かけには様々な衣装が、箪笥には引き出しが少し開けられた状態で小物や帯などが綺麗に陳列されていた。
衣装は基本的に白で統一されており、色が付いたものは中衣や帯や飾りはあるが、それでも淡い色合いが多く、沈楽清が好む原色の衣装は一つもなさそうで、沈楽清は少し残念に思う。
ただ、目に入るもの全てが見たことが無いほど美しい物ばかりで、沈楽清のあちこちに目を奪われていった。
思わず触れようとするが、壊してしまっては弁償できないと、どこかで冷静な自分がそれを押し止める。
「誰の衣裳部屋ですか?綺麗ですね!見たことない物ばかりです。あ、これは真珠ですか?こっちはなんだ?」
「それは珊瑚。全部あんたの物や、宗主。さぁ、こっちに来てくれへんか?」
玄肖が大きな白い布をバサリと外すと、その中から巨大な一枚鏡が現れる。
玄肖に手招きされるまま鏡の前に立った沈楽清は、鏡に映った自分の姿に顎が外れるかと思うほど大きな口を開け、悲鳴とも驚嘆ともつかない変な声を思わずあげた。
「だ、誰?!」
がしっと鏡を掴み、正面・横・後ろなど四方から何をどう映しても、そこにいるのは自分の知っている沈楽清ではない。
鏡に映る人間は、胸まである少し癖のあるフワフワした鳶色の髪、こぼれんばかりの大きな琥珀色の瞳で、非常に可愛い顔をしている。
死人が着るような白い浴衣を着たその身体は、首に巻かれた包帯にも負けないほど色白く、どこまでも細くて華奢だった。
「・・・女?」
「男や。」
儚げな美少女と言っても通じてしまいそうな外見に、自分の性別を疑った沈楽清は、玄肖の言葉を疑って、自分の身体をぽんぽんと二か所触る。
「本当だ。うん、男だ。」
「さっきからあんたのいうゴリマッチョがどんなもんかは分かれへんけど、どうも自分の外見がよく分かってへんようやから見ておいた方がええと思って。あんたの方が、私よりずっとべっぴんさんやろ?」
「・・・」
色々と『沈楽清』について説明をしてくれる玄肖の言葉は、既に鏡を呆然と見続ける沈楽清の耳には全く届いておらず、その話の途中で沈楽清は顔を伏せる。
「・・・・はどうしたんだ?」
何やらぶつぶつと呟き始めた沈楽清が心配になり、ここへ連れてくるんじゃなかったと少し後悔した玄肖は優しくその両肩に自身の手を置く。
「ごめん。何やらえげつなくヘコませてしもたみたいや。部屋へ戻ろうな?」
「よくない!」
それまでずっと何があっても大人しかった沈楽清がひどく激昂しているのを知り、玄肖はどう声をかけたものか少し悩むと、肩に置いた手にわずかに力を込める。
「色々受け入れられないのは分かるけど、でも・・・」
「この女か男か分からない、もやしみたいな身体は何なんだ?俺の!俺のあれだけ育てた筋肉は?!」
「・・・あんた、さっきから筋肉以外に興味はないんか?」
涙目になって各筋肉がどうだったかどうやって育ててきたか話す沈楽清に、玄肖は心底疲れ果てたような声でツッコミを入れた。