翌日。
いつもと同じ売店で、昨日と全く同じ会話をおばちゃんとして、今日は油条と豆乳を買った沈楽清は従姉の部屋の前に立ち、そのドアをどんどんと叩いた。
「美玲姉!起きろ、朝だぞ!」
もう5分以上こうしているが、中からまったくうんともすんとも返事がない。
最初はいつもの低血圧と軽く流していた沈楽清も、さすがに徐々に焦り始めた。
思わずドアノブに手をかけると、ガチャリと開いてしまい、ますます慌てふためいた沈楽清はドアの前で固まってしまった。
(女性の部屋に入ることも問題だし、さらに中で何か起こっていたらもっと問題だし!第一発見者とかなりたくないし!!)
警察で事情聴取を受ける自分を想像した沈楽清は、やっぱり寮母さんを呼びにいこうとエレベーターへ向かう。
1階のボタンを押し、待っていると、偶然そのエレベーターからちょうど一人降りてきてくれてたのを見て、助かったばかりと彼女に事情を説明し、従姉の部屋を自分の代わりに覗いてもらった。
部屋の中に頭をいれた女性は、1分ほど部屋の中をきょろきょろと見ていたが、そのまま大きくドアを開けると沈楽清を振り返った。
「見てのとおりよ。居ないわ。」
そう言ってさっさといなくなってしまった女性の背中に「ありがとう」と声をかけ、沈楽清は開いたままになっているドアの中へもう一度視線を向けた。
学生寮の造りはどこもほとんど同じで、部屋の中には備え付けのシステムデスクとベッド、棚、クローゼットがある。
それ以外はその人の趣味が出るが、シンプルにそのまま使用している沈楽清と違い、この従姉の部屋はさながら魔境のようだった。
壁一面に貼られたポスターや机の上に飾られた無数のポートレート、アクリルスタンド。
部屋の全てが彼女の好きなBL作家のアニメやドラマ作品で埋め尽くされている。
本棚も、彼女は学生なのに授業で使うものよりもそちらの作品や画集、写真集、DVDの方が多い。
ベッドにはキャラクターを可愛らしくデフォルメされたぬいぐるみがいて、それも原作内のカップル別で揃えて飾ってあり、彼らを収める舞台装置のようなセットもあるせいで、そこはなんだか神棚のようだった。
ベッド上に広げたままになっているタオルケットまでも、かの魔王が足を組んで悠然と微笑んでいるのを見て、ここまで従姉が傾倒しているのを知らなかった沈楽清は、別の意味でこの部屋に入るのを躊躇う。
このままでは埒が明かないと、意を決して部屋に入ろうとしたが、正面にあるポスターの中で麗しい男性二人が水中で抱き合っているところがばっちり目に入ってしまい、沈楽清はかぁっと頬を赤らめた。
(美玲姉!なんちゅうもんを貼ってんだ!精神衛生上というか教育上よくないだろ?!)
大量のグッズで怖気づいてしまった沈楽清は、部屋にいないなら先に行ったに違いないと部屋に入らないで済む理由を作り上げ、全てを見なかったことにしようとドアノブに手をかけた。
閉める寸前、白くピカッと何かが光り、光の方へ目を向けた沈楽清はシステムデスク上のパソコン画面に釘付けになる。
自慢ではないが、自分の視力は2.0以上ある。
机の上のパソコンは、無人にも関わらずなぜか電源がオンになったままになっており、その白く光っている画面上にはWordが開かれている。
たくさんの文字が羅列されている中、沈楽清の視線はそこに打ち込まれた『沈楽清』の名前に注がれていた。
数分間、見るべきか見ないべきか悩んだ沈楽清は誘惑に負け、従姉の部屋の中に入ってくると、システムデスクの椅子を引き、パソコンの前に座った。
ざっと上から目を通し、タイトルから、やはりそれは昨日従姉が言っていた新作小説であると分かった沈楽清は、スクロールして自分の名前がどれくらい入っているかを確認していく。
第1~3章ではほぼ出てこなかった自身の名前は第4章の一場面で急にまるで主役にでもなったかのように一気に増大した。
人は人、自分は自分を人間関係で大切にしている沈楽清は、もちろん従姉のBL同人作家としての活動に文句を言うつもりでチェックしている訳ではない。
(俺の名前、どうして勝手に使うかなぁ・・・?)
一応、去年まで有名人であった彼は、高校サッカーを知るものならば知らない者はいないほど、ある程度世間に知られた存在だった。
名前なんて偶然の一致と言われればそこまでだが、この小説を書いたのは他ならぬ自身の従姉である。
「沈」と「洛」という苗字を必ず自分の作品に入れる彼女が、名前を考えるのが面倒くさくなり、とうとう自分の名前を作品内に出してきたとしても何の不思議もないし、それに名前は個人の所有物ではないのだから、それをとがめることは到底出来ないのだけれども。
(問題は、こいつが何者か、だよなぁ・・・)
あまり自分と似通った容姿でも嫌だし、ましてや罪人とか妖怪だとしたら目も当てられない。
沈楽清は、物語内の自分がどんな存在なのか確かめるために、自身の名前が多く出てくる第4章を読み始めた。
(ええっと、出てくるのは、「洛寒軒」と「陸承」と「沈楽清」ね。)
物語は洛寒軒と陸承が出会い、仲良くなり、それがどういう訳か「沈楽清」を殺してほしいと陸承が依頼するシーンに移っていく。
(第1~3章までほぼ出てこないキャラクターなのに、どうして急に殺されなきゃいけないんだ?しかも、なぜそれを受けるんだ、洛寒軒!普通は嫌がるだろ?)
あまりに荒唐無稽な展開に、理解が追い付かないまま読み進める沈楽清の目の前では、「沈楽清」が彼らにつかまり、拷問されるシーンへ移っていく。
この小説はラブロマンスと聞いていた沈楽清は、ハハハと乾いた笑いをあげた。
(ラブロマンスに、拷問シーンって・・・いまいち意味が分からんのだけど。それにしても、こいつら2人ねちねちと性格悪いな。殺すならサクッと殺せばいいのに。俺をいたぶるのに人生かけてどうする。犯罪歴が付いたらいい仕事に就けないぞ。)
小説の沈楽清と自分を同一視し始めてしまっている沈楽清は、どこか現実と小説がごちゃ混ぜになっていて、彼らの行いに現実の刑罰を当てはめながら読み進める。
天井から吊り下げられていた「沈楽清」がその拘束を解かれ、床にどさりと落ちたところで、さすがにこれ以上ひどい展開にはならないだろうと楽観視していた沈楽清だったが、その後の展開を読んでいくうちにその顔は青ざめ、読み終えたころにはまるでお化けや怖い物でも見たかのように身体が小刻みに震え始めた。
それは本当に、『沈楽清』である彼からしてみれば、口にするのもおぞましい内容だった。
ショックのあまり、しばし放心した沈楽清は、椅子から立ち上がると洗面台で顔を何度も洗う。
パシャパシャと真冬の冷たい水を顔に浴びるうちに落ち着いてきた沈楽清は着ていたTシャツで顔をぬぐうと、もう一度パソコンの前に座り、薄目を開けた状態でもう一度その画面をチラチラと見始めた。
当たり前ながら、何度見返しても、書いてある内容は変わらない。
二度目を読み終え、羞恥と怒りで顔がみるみる赤くなった沈楽清は、従弟である自分に対してこれ以上の冒涜は無いと第4章冒頭までスクロールして戻し、タイトル横に文字を猛然と入力し始めた。
【ふ・ざ・け・ん・な!書き直せ!!こんなの認めない!!!】
怒りに任せてエンターキーを強く叩き押した沈楽清は、その瞬間目の前の世界が歪むのを感じ、「あっ」と小さな悲鳴を上げ、耐え切れずにその目をきつく瞑った。