軽くジョギングをしながら河川敷まで来た沈楽清は、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、その吐く息がすっかり白くなっているのを見て、もうそんな季節かと呟いた。
鍛え抜かれた新陳代謝の良い身体は、年がら年中暑さを感じることはあっても寒さを感じることはほとんどない。
道行く人々が厚手のコートを着ている中、今日もTシャツの上に薄手のパーカーを着ただけの沈楽清は、まだ真新しいおろしたてのスニーカーに何かがぶつかり、その馴染のある感触に自身の足元へと視線を動かした。
やはり、サッカーボールが一つ転がっている。
「すみませ~ん!こっちに蹴ってくれませんか~!!」
大きな声のした方を振り返って見ると、河川敷にあるサッカーコートから手をこちらに向かって振る少年たちが見えた。
鮮やかなユニフォームを着た少年たちがコートの中にいて、その周囲には控えの選手や親らしき人々がコートの中を熱心に見つめている。
(去年までは、自分も・・・)
懐かしくなった沈楽清は、足元のボールをトントンと5回リフティングすると、落ちてきたところを狙って右足で強く蹴った。
距離がのびたボールは少年たちを通り過ぎ、その勢いを保ったまま片方のゴールに吸い込まれていく。
わっと歓声が上がり、「お兄ちゃん、すごい!」と全員がこちらを振り向いて拍手を送ってくれた。
しかし沈楽清は、自分の名前ではなく「お兄ちゃん」と呼ばれたことに軽くショックを受け、一方でそんな感傷的な自分を自嘲気味に笑うと、上げた右手を彼らに向かってひらひらと2回軽く振って、さっさとその場を後にした。
従姉の洛美玲の住んでいる学生寮と自分の住んでいる学生寮は徒歩で30分以上ある。
学部数も生徒数も多いこの大学は、まるで一つの町のようになっており、端から端まで歩くと優に2時間はかかる。
また地域の人にも開放されているため、さきほどのような子供たちの姿も日常の絵の中の一つだ。
従姉の学生寮近くのお店に入った沈楽清は、大餅2枚と豆乳を2本手に取るとレジへ向かった。
「いらっしゃい、楽清君。今日も朝から大変ねぇ。」
ほぼ毎日会うレジのおばさんに労われた沈楽清はハハハと乾いた笑いを返した。
「ほんと、いい加減自分で起きてほしいですよ。俺がいない間、一体どうしていたんだか。」
「いなきゃいないでしっかりするものよ。甘えてるんでしょ。仲がいいのはうらやましいわ。おばさんのところの姉弟の子は全然仲良くないもの。」
もう何十度目かになるおばちゃんの世間話に付き合いつつ、沈楽清はお金を払うと商品を受け取って店を出た。
歩きながら自分の分の大餅をかじり、寮の下につくと携帯を取り出して『洛美玲』にコールする。
彼女の携帯が8回呼び出し音を鳴らした後、留守番電話に切り替わったのを聞いた沈楽清は通話オフボタンを押し、その場で大きなため息をついた。
(くそ~、ほぼ毎日女子寮に入っていく方の気持ちにもなれよ。通報されたらどうしてくれる!)
頭をガシガシかいた沈楽清は、中に入っていきたくなくて、もう1回電話をかけることにした。
トゥルルルという無機質な電子音が1回、2回、3回・・・と流れ、もうすぐ留守番電話に切り替わろうというタイミングで、携帯から「はい・・・」という不機嫌な低い声が響く。
パッと表情を明るくした沈楽清は、電話に向かって明るく元気な声で「おはよう、美玲姉!朝だぞ!」とお決まりのセリフを言った。
「朝から耳元でうっさいのよ!バカ楽清!」
沈楽清に負けないくらい大きな声で言い返した洛美玲は「そこで待ってなさい!」と命令し、ブツンと一方的に電話を切る。
だいたいいつもここから15分で彼女は降りてくる。
沈楽清は食べかけの大餅をパパっと食べ、豆乳を一気飲みすると、その場でストレッチを始めた。
きっちり時間を計ったように15分後に降りてきた洛美玲は、どちらかというと美人と呼ばれるその顔にくっきりと隈をつけて現れた。
「何だよ、その顔!土日挟んでなんでそうなるんだ?寝れなかったのか?」
生まれてこの方、寝すぎることはあっても寝不足になった経験がない沈楽清は、従姉のひどい顔を見て思わず声に出す。
不機嫌な表情の洛美玲は、無言のままその手に持っていた鞄で沈楽清の背をバシッと殴ると、その鞄をずいっと彼に差し出した。
「持って。」
「はいはい。」
寝不足で低血圧な従姉に思うところは色々あるが、口に出すと何倍もの言葉の弾丸が飛んでくることを知っている沈楽清は黙ってその鞄を受け取る。
「あ~もう、一日30時間欲しい~」
鞄の代わりに豆乳と大餅を受け取った洛美玲はそれを食べながらだらだらと図書館に向かって歩き始める。
「そんな寝不足になるくらい、今度はまた何を始めたんだよ。」
「ん~、新しい小説書いてるの。前の作品書いてからもう1年になるじゃない?そろそろ見てくれる人も少なくなってきたから、新作書いて、ちょっとお小遣い稼ぎしようと思って。デートに着ていく服も欲しいし。」
「・・・相手いないのに・・・」
「うっさいわね!私に惚れたお金持ちの王子様がいつ来てくれてもいいように準備するのが礼儀ってものでしょ。それに、いつも年がら年中同じものを着てるあんたにはファッションの事は言われたくない!」
これ以上言ったら喧嘩になるなと、夢見がちな洛美玲に対して現実的な沈楽清は何も言わずにだんまりを決め込むことにした。
しばらくお互い並んで無言で歩き、その間に朝食を食べ終えた洛美玲は携帯を取り出すと、細い指でスッと画面をスクロールする。
携帯の待受画面では、彼女の好きなキャラクターがまるで恋人に見せるような顔で、こちらに向かって優しげに笑いかけていた。
「相変わらずその待受なんだ。飽きないの?別のも観てなかった?」
身長差が25cm以上あるので見たくなくても下を向くと全部が見えてしまう沈楽清は、もう何年も変わらないその待受に物申す。
正直、この美人な従姉に恋人ができない理由はこいつのせいなんじゃないかと沈楽清は疑っている。
なにせ相手は、最強に強くて美しい魔王で、しかも多分お金持ち。
彼女が崇拝するBL作家の最初の作品で、しかも大好きなキャラクターは偶然にも彼女と同じ苗字だった。
これは運命よ!と当時中学生だった彼女が言ってから、すでに7年以上が経っている。
「もちろん全部観てるわよ~。他の作品も本当に素敵だもん。でもね、私の中ではこの人が永遠に一番なのよ。」
てっきりさっきの調子できつい言葉が帰ってくるかと思いきや、お腹がいっぱいになったことで機嫌がよくなった洛美玲はにこにこ笑いながら、ずいっと待受画面を沈楽清へ差し出した。
「楽清だって彼が好きでしょ?あんたの名字は沈なんだから。」
「夢と現実を一緒にしないで。」
「一緒にはしないわよ。だって、こちらの師尊は細くて白くて楚々とした美人、かたやこちらはフツメンのゴリマッチョ。あんたが師尊じゃ、さすがに彼も抱かないわよ。」
公共空間で発せられた従姉のあけすけな表現に、聞いていた沈楽清の顔がボッと赤くなる。
昔から恋愛や性的なことを聞くのも見るのも苦手な沈楽清は、こういう時どうしていいか分からず困ってしまい、ただただ顔を赤らめてもじもじしてしまう癖がある。
「あ、朝から・・・人前で・・・」
「・・・本当に天然記念物よね、あんた。」
そのいかつい外見からは想像できないほど純情な沈楽清に白い目を向けた洛美玲は、ねぇねぇ聞いて、と新しく書き始めたという小説の内容を語り始めた。
「今度の小説はね。前がラブコメディだったからちょっと重めの王道のラブロマンスにしようと思ってるの。様々な困難を乗り越えた二人が最後に結ばれる物語。二人とも名家の出でお互いに宗主になんだけど、片方が途中でいなくなっちゃうのよ!まぁ、仙境物ってのは変わらないんだけど・・・」
こちらに理解させようという姿勢ではなく、自分の思いつくまま好きなように話す従姉の言葉を適当に聞き流しながら、沈楽清は今日の授業の予習個所を頭の中で思い出していた。
残念ながら、こうなった従姉は本人が満足するまで誰も止められない。
まともに相手をしても、BL作品の事はさっぱり分からない沈楽清が気の利いた言葉を返せる可能性は皆無だ。
それであれば最後まで気持ちよく話してもらって自己完結してもらった方がいい。
「~で、名前をね・・・だから、いいかなぁ?」
最後の疑問符だけが聞こえた沈楽清は「いいんじゃない?」と適当に答え、とうに到着していた図書館にさっさと入ろうと従姉を促した。