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第88話 惟吹の心境


 湊が不良たちに襲われた事件から数日。あれから毎日、煉の視線が痛い湊。樹も時々、教室の前を通る時など、湊が視界へ入ると心配そうに様子を窺っている。

 そんな緊張感に少し疲れてきた湊。だが、身を案じてくれる気持ちへのありがたさと、心配をかけてしまった申し訳なさから何も言えないでいた。

 けれど、惟吹の過保護を思えば慣れた事。数日もあれば、それも湊にとっては日常と化していった。



 周囲が湊の安全に意識を置く中、煉から惟吹への連絡頻度が跳ね上がっていた。逆も然り。

 密に連絡を取り合い、湊の安全を共有しているのだ。惟吹は、思っていた以上の煉のマメさに感心していた。

 と、事件をきっかけに、煉と惟吹の関係が緩やかに好進している。そんな穏やかな日々の、ある朝の西条家の様子。


 菜箸が銀のボウルに当たり、カッカッカッカッと小気味よいリズムを刻む。それに加わる、黄身と白身が混じってゆく卵液の音。そして、熱した玉子焼き器へジュゥ··と卵液が敷かれる音に食欲をそそられる。

 ウトウトと目をこすりながらキッチンへやって来た惟吹は、毎朝聴こえるそれらの音に心和まされていた。


 けれど、今日はそれにかぶさり話し声が聞こえる。


「みっなと〜、昨日の弁当も美味しかったよ。いつもありがとうな」


(ゲッ····父さんテンション高そうだな。寝起きからあのテンションしんどいんだよなー····)


 惟吹はキッチンに入らず、しばし廊下で聞き耳を立てる事にした。


「母さんのレシピ通りに作ってるだけだよ。アドバイスがギッシリ書いてあるから凄く助かってる」

「母さんは几帳面で凝り性だったからなぁ」

「おかげで僕でも作れてるんだから感謝しかないよね。あ、でも、巻くのは上手くなった自信あるかな。えへへ」


 照れて笑う湊。ふっくらと焼けた卵焼きを皿に移すと、再び卵焼き器へ卵液を注ぐ。


 マメな性格だった母の穂奈美ほなみ。碧が生まれてからの1年間、事故で亡くなるその日まで、膨大な量のレシピをノートに書き留めていた。

 穂奈美は、碧が大きくなったら一緒に作り、レシピは嫁入り道具として持たせるんだと、幸せそうに利幸へ話していた。

 そんな穂奈美の想いを、なんとしても叶えたいと尽力した利幸。だが、利幸は毎度パーフェクトに料理を焦がす才能と、度々調味料を間違えるそそっかしさを兼ね備えていた。

 毎日焦げた料理に、湊たちの食が進むはずもなかった。利幸に弟たちの食を任せてはいられないと、よく母と一緒に料理をしていた湊が、不器用な父親に代わってその役割を担おうと名乗りを上げたのだ。


「あぁ、母さん並みに上手くなってるよ。俺なんて巻く以前の問題だったからなぁ~」

「あはは··。そうだ、朝食はベーコンエッグトーストだよ。食べる時間ある?」

「今日は余裕ある。から、いただこうかな」

「おっけー。それじゃ、座って待ってて」


 高圧的に笑顔を向ける湊。それに気づかない利幸は、ワイシャツの袖を捲って言う。


「いやいや、トーストくらい父さんが焼く――」

「焦がされちゃたまんないから、座ってて?」

「····はい」


 しょげた利幸は、コーヒーを零さないよう注ぎテーブルに運んだ。もうすぐ起きてくる子供たちの飲み物も、零さないよう慎重に運ぶ。


「そういえば、煉くんとは順調なのかい?」


 湊の手がピクッと止まる。父の言う“順調”とは、どういう事を指すのだろうか。単純に仲が良いという事なのか、関係が進んでいるという事なのか、湊は返答に迷う。

 廊下で聞き耳を立てていた惟吹は、波打つ心を深呼吸で落ち着かせて湊の答えを待つ。


「んー··、まぁ、仲は良い··と、思うよ。お互いオフの時は変装してデートしたりするし。ほら、こないだお花見行ったって話したでしょ? 煉だけじゃなくて皆優しいから、今ね、凄く楽しい」


 将来、一緒に住もうと言われた事や、身体の関係を持ったことなど、親に言えるわけがないと思った湊。言葉を濁しながらも嬉しそうに答えた。


「そうか、ならよかったよ」


 利幸は目を細め、安堵して幸せそうに微笑む。息子の幸せを願う、父親の顔だ。


「そうだそうだ、煉くん! 人気モデルさんなんだってね。会社にもファンだっていう子がいてさ、思わず自慢しかけたよ」

「えぇ····。ホントにやめてよ? 僕の事も、ぽろっと言っちゃいそうで怖いんだよね」


 溜め息交じりに、慣れた手つきで卵をクルクルと巻く湊。


「言わないよ~。みーとひーですら内緒にできてるんだから。俺だって、湊や煉くんに迷惑かけないよう最大限気をつけております!」


 利幸は、敬礼をして答えた。が、振り上げた手がマグカップを直撃し、見事にコーヒーをぶち撒けた。西条家ではよく見る光景である。


「あーもう。何やってんだよ父さん。ホントマジで落ち着けって」


 利幸がやらかすと同時に、リビングに入ってきた惟吹。


「惟吹ぃ~··、おはよ~」

「··はよ。ほら、情けない声出してないでタオルとってきなよ」


 テキパキと指示を出す惟吹。朝食が運ばれてくる前で良かったと胸を撫で下ろした。


「惟吹、おはよ」

「おはよ、湊にぃ。何か手伝えることある?」

「こっちはもう終わるから大丈夫だよ。父さん助けてあげて」

「はいよ。ったく、父さん外でもこんなんなのかな」

「どうだろうね。心配になっちゃうよねぇ」


 冗談ぽく言っているが、割と本気で心配している2人。そそっかしくない父の姿など、2人には到底想像できないのだ。


 ドタバタした朝を過ごし、いつも通り父と双子を見送ると、湊は惟吹に連れられて家を出る。

 学校へ向かう道中、惟吹が真面目な顔をして話し始めた。


「煉のことさ····」

「うん? 煉がどうかした?」

「認めてやんなくもないかなって」

「んぇ? どうしたの急に!?」


 驚き目を丸くする湊に、惟吹はツンと唇を尖らせ『俺のほうが湊にぃを好きなのは変わらないけどね』と言う。


「でも、ちょっとだけ、ホントにちょびっとだけね。湊にぃのこと任せても、まぁ····ダメってわけじゃないのかなって、思ったんだよね」

「うぇ··? ねぇ、ホントにどうしたの?」


 惟吹は、ここ最近の連携や花見で煉から言われた事を湊に話した。湊は顔を真っ赤にして俯く。

 それを不満そうに見る惟吹。だが、自分の幼さに辟易としていた惟吹には、悪態をつく余裕すらなかった。


「煉は優しいんだ。僕にも、僕が大切にしてる人にも。樹もそれを知ってるから、本気で僕を奪おうって気になれないんじゃないかな」


 静かに言う湊は、色々なものを抱えた顔をしている。けれど、それを一人で背負っているわけではないのだと、少し緩んだ微笑みが物語っていた。

 そんな顔を見せられては、惟吹がこれ以上言える事などなかった。



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