湊が立っている調理台のひとつ後ろの調理台、その陰からひょこっと現れたのは煉。湊の肩を叩いたクラスメイトへ、苛立ちを込めた舌打ちをかました。
「煉、クラスに戻らなくていいの?」
袋にクッキーを3枚入れ、青いビニタイで封をしている湊が尋ねた。
「別に。あとは衣装着るだけだから、昼飯食ってからでいいんだよ」
「そうなんだ。あ、それは商品だから食べちゃダメだよ」
1袋ずつ丁寧に梱包しているクッキーに手を伸ばした煉。湊は、その手をそっと止めた。
「1個くらいいいだろ、ケチ」
「こっちはダメなの。一応、これでも売り物なんだからね。煉には、その··、別でちゃんと持ってきてるんだ」
「は?」
目を丸くして驚く煉に、湊は鞄から取り出したクッキーの包みを渡した。商品の物よりも2枚多く、1袋に5枚入ったクッキー。それを3袋も。夕べ、レッスンから帰った湊が、煉を想い焼いた物だ。
頬を少し赤らめて、ぶっきらぼうに『··ざす』と礼を言った煉。湊は、ふふっと笑って作業に戻った。
見るからに落ち着かない様子の煉を心配する湊。どうしたのかと聞いても、煉は『別に』と言うばかり。お手上げ状態の湊は、最後に読み合わせでもしないかと誘ってみた。
何故か上から『いいけど』と言われた事にはツッコまないように、湊はスンと心を無にする。一呼吸置いて、湊は暗記してしまった煉へ繋がるセリフから始めた。
読み合わせを進めていくと、煉の緊張が少しずつ解けていった。いつものように、湊の柔らかい声を聴き、ルーティンを終えたかの様に気持ちが落ち着いたのだ。
「こういう劇··っつぅか行事自体、まともに参加すんの初めてだって前に言っただろ」
「うん」
セリフの合間に、ぽろっと心境を吐露し始めた煉。静かに話す煉は、思いのほか素直になる事を湊は知っていた。
「柄にもなくさ、緊張してるっぽいんだよな」
「んふっ、意外だね」
「笑うんじゃねぇよ」
「へへ、ごめん」
「ったく····。なんつぅかさ、お前に会う口実だったとはいえ──」
「それは初耳だよ」
「うるせぇ。··で、折角マジで練習したし兄貴も観に来るし、なんか失敗できねぇんじゃね? って思ったらさ、急に逃げ出したくなったっつぅか····」
「うん、分かるよ。僕も同じだった」
湊は、自分も初めてステージに立つ時、同じ事を思ったのだと煉に話す。黙ってそれを聞く煉は、いつものツンツンした御曹司の風格はなく、ひとりの男子高校生として湊と向き合っていた。
それが湊にとって特別に意味を持つことではなく、元来持ち合わせているだけの優しさだという事は理解している。けれど、自分の弱音を揶揄うでもなく、真剣に聞いてくれる存在と出会えた煉は、これまで以上に湊との居心地の良さを感じていた。
心の内を話せて、幾分かスッキリした煉は読み合わせを再開する。
言い慣れたセリフを流しながら、すっと湊の背後に立つ煉。肩に手を添え、耳元で例のセリフを囁く。
「私が愛しているのは姫、貴女だけです。どうかその魂、私に委ねてください。生涯護りましょう。さぁ、誓いのキスを」
初めの頃のぎごちなさが嘘の様な、王子になりきり湊を姫のように扱う煉。後ろから抱き締め、湊の頬から顎に手を掛けて振り向かせる。そして、そっと唇を重ねた。
ほんの数秒間、時を止めた2人は廊下から聞こえる喧騒で現実に引き戻される。
「カップケーキ、焦げちゃうよ····」
「··だな。続き、できる?」
「キスなしならね」
湊は、カップケーキを引き渡す準備をしながらつらつらとセリフを言って、また読み合わせを再開する。
読み合わせを終えても、煉は湊の作業を邪魔しないように、後ろから抱き締めたままそれを見つめていた。
「お前の手作り、俺以外に食わせんのやっぱヤだな」
「えぇ··、今更過ぎるでしょ」
「るっせぇな。嫌なもんは嫌なんだからしょうがねぇだろ。つか、こういうの事前に言えよな」
「これ決まった時、僕たちまだ付き合ってなかったでしょ。それどころか険悪だったよ」
「そうだっけ? 過ぎた事とか何でもいいけどさ、来年はこういうの許さねぇかんな」
(それって、来年も一緒に居るってことだよね。んへへ··、僕も煉が女の子と絡むのは嫌だって言ったら、ちゃんと聞いてくれるのかな····)
湊は煉に気づかれないよう、にまにましてしまう顔を伏せて作業を続けた。
文化祭が盛り上がってきたお昼前、担当のお菓子を作り終えた湊は解放され、煉に空き教室へと拉致られていた。
「うわ····、樹から凄い着信きてる。掛け直していい?」
「ダメに決まってんだろ」
そう言って、煉は鬱憤を晴らすかのように、湊を壁に追い込み激しいキスを見舞った。
舌を絡ませるキスにまだなれない湊は、どうにも上手く呼吸ができない。煉の胸を押し返すと、両手首を掴まれ壁へ押しつけられた。愛らしい声で『んーっ』と、必死に抵抗して見せるが意味をなさず、湊は煉の欲望が求めるまま唇を貪られる。
酸欠で頭がボーッとしてきた湊。次第に足の力が抜け、立っていられなくなる。
そして、ついにガクンと膝を崩した湊の腰を、煉がとっさに支えた。
「もうちょい、だけ、キスしたい。キスだけだから····」
「ふ··ぅ、ん··いい、よ。シて」
たどたどしく答えた湊の唇を、煉は再び食べるような勢いで塞ぐ。
互いに求めるがまま、キスを交わして十数分。その間も、湊には樹から、煉には仁と穂月からの着信が止むことはなかった。