教室で、独りポツンと本を読んでいる少年、
鬱蒼と下ろされた前髪に、伊達眼鏡を掛けている所為で、いつも顔がよく見えない。所謂、陰キャの部類だ。影ではガリ勉と称されている。
165cmと小柄で、それほど声変わりもしなかった為、声を発すれば女子と間違われる事も度々。けれど、見た目が
そして、彼には誰にも明かせない秘密があった。
それは、密かにアイドル活動をしている、身バレ厳禁な裏の顔があるという事。
湊は、弟たちから言われた『前髪を上げたらイケメン』を信じ、活動に踏み切った。化粧などでさらに雰囲気を変え、普段とは全くの別人になる。弟たちの言葉通り、湊は中性的かつ整った顔立ちなので、イケメン揃いのグループ内でも引けを取らない。
それに加え、活動時はキャラを作って振る舞うため、誰にも湊だと気づかれるはずがなかった。
湊は、4人組のアイドルグループのサブリーダーを務めている。グループ名は『サルバテラ』と、聞き馴染みのない文字の羅列。ラテン語で、救世主を意味する『サルバドル』と、星を意味する『ステッラ』をもじったものだ。完全に社長の趣味である。
デビューから間もないが、なかなかの人気を誇っている事務所の稼ぎ頭だ。けれど、三流事務所であるがゆえ、その収入の殆どは事務所に持っていかれる。
アイドルとしての湊は『
これが、なかなかの金持ちらしい
今日も今日とて、ライブ後に行われるファンとの交流会で“蒼”を演じる湊。しかし、本来の湊は、アイドル時の明るい性格とは真逆。内気で積極性があまりなく、学校では影の薄さでトップクラスに入る。
そんな湊だから、この交流会があまり得意ではなかった。けれど、全ては父親の経済負担を軽減させる為に始めた事。苦手だからと、辞めるわけにはいかないのだ。
ロビーに溢れかえる女性ファンと、通用口付近で流れ作業のように交流をこなすメンバー。笑顔を作る蒼の前に、1人の男が立った。
キャップを目深にかぶり、眼鏡をかけて黒いマスクをしている。背が高く、チラッと見える襟足は金色で、首元の高級そうなネックレスが目につく。首から上の不審者感とは裏腹に、その他の出で立ちはお洒落にキメている。が、どこか不良っぽさを感じさせる風貌で、明らかに周囲の雰囲気に馴染めていない。
そんな彼が、蒼の大口である。メンバーが少しソワソワし始めた。蒼が粗相をしないか、肝を冷やしているようだ。
女性に対して、緊張と不慣れさでぎこちない蒼ではあるが、男性に対しては、ことこの太客に対しては他とは違う態度を取る。メンバーもその理由は知らない。
けれど、それは蒼の裏を知るメンバーのみが気づく機微で、ファンには決して悟らせない。ステージで見せる愛らしい笑顔をここでも見せ、ファンの心を鷲掴む。これが、湊のプロ根性である。
男は蒼と握手を交わし、千円札を数枚取り出し蒼へ手渡す。『チェキ、お願いします』と上擦る声で言う男。
蒼はそれを受け取り、満面の笑みで礼を言う。語尾にハートをつけるのはお手の物。一瞬悶える男の仕草に続き、後ろで見ていた女性ファン達からも笑みが零れる。
全てのスケジュールを終え、楽屋へ戻るサルバテラのメンバー。いち早くソファへ座り込み、一際大きな溜め息を放つのは、湊と同学年の
彼の本名は
因みに、薄月とはファンの間での造語で『儚げな雰囲気を纏いつつ、芯がある』という意味だ。社長はちゃっかり、それを雪のキャッチコピーにしてしまった。
疲れた様子の尚弥へ、ココアの入った紙コップを手渡したのは、サルバテラのリーダーである
結成からそこそこ経っても打ち解けきれない湊を、誰よりも気に掛けている。湊をサブリーダーに指名したのも彼だった。
そんな頼れる兄貴の肩に、馴れ馴れしく肘を掛けるのが
いつも飄々としていて、軽薄な態度で社長から注意されることもしばしば。メンバー内で唯一の長髪で、デビュー当時は肩につく程度だったものが、今では胸の辺りまで伸びた。
刹那は、配信で美容系の情報を発信している。この配信には、時々メンバーが巻き込まれて迷惑をこうむっている。
「アヤ〜、ナオばっか甘やかしてズルい〜」
「アキのも入れてあげるから待って。ほら、座ってなよ。疲れたでしょ」
「マジで? サンキュー」
「そう言えばアキ、最近ダンスの調子良いよね。今日もキレッキレだった」
「だろだろ! 分かる!? 実はめっちゃ練習頑張ってんだよね〜」
秋紘は、思った事を何でも口にしてしまう。良くも悪くも、素直な性格だ。面倒見の良い綾斗に、誰よりも甘えているのは秋紘である。
「湊も凄く疲れてるみたい。大丈夫?」
尚弥が湊を気遣う。誰の前でも弱音を吐かない湊を、尚弥はいつも心配そうに見ている。
「ありがとう。実は昨日試験だったんだけど、思うようにできなくて····。特待の枠から出るわけにいかないから、結果が気がかりでさ」
「そっか。特別入学··だっけ? 大変そうだね」
尚弥は、心配そうに湊を見つめる。成績優秀な湊に、自分がしてあげられる事はないと不甲斐なさを感じているようだ。
「まぁ、ね。それで夕べ、問題解き直してたらちょっと夜更かししちゃってさ」
湊は笑顔を絶やさず答える。それが、余計に心配を掛けているなどとは露ほども思っていない。
「湊は頑張り屋さんだからね。でも、あまり無理しちゃダメだよ」
「ありがとう、綾斗くん。成績を落とすわけにはいかないから、次に繋げないとって思って。けど、こっちに迷惑は掛けないように気をつけ──イテッ」
秋紘が、湊の額を指で弾く。
「迷惑じゃなくて心配掛けないようにしなさいってハナシだよ。迷惑はいくらでも掛けていーの! オレらの仲じゃん?」
「秋紘くん····。うん、ありがとう」
湊は、頬を赤らめて俯く。
家では弟たちの面倒を見て、早くに亡くした母親の代わりを担っている湊。また、家族の為に寝る間を惜しんで働く父親に、これ以上の負担をかけまいと気丈に振る舞う一面も。学校では友人と呼べる者は1人だけ。
そんな湊には、甘えられる環境がなかった。それ故に甘える事への慣れがなく、年上の2人からこういう接し方をされると、湊はいつも戸惑うのだった。
「勉強だったら俺も少しくらいなら教えられると思うし、もっと俺たちの事頼ってくれたら嬉しいな」
綾斗はそう言って、湊にココアを手渡しながら笑顔を向ける。湊が少しでも心を開けるよう、こうしてゆっくりと距離を詰めていく。
心配ばかり掛けている事を申し訳なく思っていた湊。今回は、素直に応じることにした。
「だったら····、僕、数学が苦手なんだけど、教えてもらえるかな」
「いいよ。俺、数学得意だし」
「うへー、オレ数学苦手。英語だったら教えれんのにな〜」
「あの··、ボクも試験近いし、一緒に勉強していい?」
「お、ナオが自分から来んの珍し〜。イイに決まってんでしょ! オレが直々に英語教えてあ・げ・る」
「アキくん気持ち悪い。あと、英語はできるからいい。ボクも数学教えて欲しい」
尚弥は、秋紘にだけズケズケと物を言う。湊ですら、秋紘をスルーしがちなのだ。秋紘のあけすけな態度が、そうさせているのだろう。
「えぇ〜っ!! オレ役立たずじゃーん!」
「アキ、煩いよ。それじゃ、明日オフだし皆で俺の家においでよ。美味しいケーキ、用意して待ってるからさ」
美味しいケーキとは、綾斗が趣味で焼く手作りのケーキのこと。よく差し入れとして持ってくるのだが、これがメンバーに大好評なのだ。
ファンの間でも有名で、メンバーしか食べられない“幻のケーキ”と呼ばれている。それを食べられるとあって、甘い物に目がない湊はワクワクを隠せないでいた。
メンバーしか食べられない特別なケーキを、綾斗はいつも『弟さん達にもどうぞ』と言って、湊にだけコソッと持ち帰らせてくれる。湊は、それが何よりも嬉しいのだった。
翌日、湊は約束の時間より少し早く、綾斗の家に着いた。まだ誰も来ていない。
インターホンを鳴らそうか迷う湊。そこへ、タイミング良く窓から顔を覗かせた綾斗が、『いらっしゃい』と湊を招き入れた。
2人きりだと、いつも以上に緊張してしまう湊。綾斗の自室へ通され、緊張はさらに高まるのだった。