19時。
予定通り、仕事を終えて旭光総合病院を出た。
冬の空気はひんやりと冷たく、帰路につく医師や看護師たちの小さな話し声が駐車場の隅々に響いている。
病院を離れ、徒歩で10分ほど歩くと、閑静な住宅街にたどり着いた。
木村先生の自宅は、病院からほど近く、落ち着いた雰囲気のある住宅街の一角にあった。
シンプルな外観の2階建ての家。
派手な装飾はなく、庭先も整理整頓されていて、どこかきちんとした印象を与える。
木村先生らしいな、と思った。
インターホンを押すと、すぐに玄関のドアが開いた。
「神崎君、いらっしゃい。よく来てくれたね」
扉の向こうで、木村先生がにこやかに微笑んでいた。玄関には颯太と幽霊の真田先生が立っている。当然のように、木村先生にはその姿は見えていない。
しかし、颯太の横に立つ真田先生は、明らかに緊張した表情を浮かべていた。
「……お邪魔します」
静かに挨拶をし、颯太は木村先生の家の中へと足を踏み入れた。木村先生は何を話すつもりなのか。そして、この夜は、何を示すことになるのか。颯太の背筋を、じわりと冷たい汗が伝った。
木村先生に案内され、リビングへ足を踏み入れると、思わずため息がもれた。
テーブルの上には所狭しと料理が並べられていた。
色とりどりの前菜、湯気を立てるスープ、そして肉や魚を使ったメインディッシュらしきものまで。どれも家庭的でありながら、手間がかかっているのがわかる。
…これ、本当にただの飲み会なのか?
そんな思いがよぎる中、リビングの奥、キッチンから一人の女性が顔を出した。
「ようこそいらっしゃいました!」
明るい声が響く。長めの髪をひとつにまとめ、エプロンをした女性はにこやかに微笑んでいた。
「木村の妻です。お話は主人からかねがね伺っています」
「……あ」
颯太は一瞬、驚いた。木村先生の奥さん?今まで、木村先生の私生活について深く知ることはなかった。当然、奥さんの存在も初めて知った。
「あ…神崎颯太です。よろしくお願いします」
少し戸惑いながらも、颯太は深々と頭を下げた。すると、奥さんはくすくすと楽しげに笑った。
「ふふ、ごめんなさい。航太郎先生にそっくりだと思って、つい」
「……!」
胸の奥が、瞬間的に強く揺れる。父に、そっくり?その言葉が、一気に頭の中を駆け巡った。
「……父をご存じなんですか?」
思わず尋ねると、奥さんはゆっくりと頷いた。
「ええ、もちろん。夫とは昔からの知り合いで……私も昔、少しだけ病院で働いていましたから」
「そう、だったんですね……」
颯太は戸惑いながらも、奥さんの言葉を噛み締める。少しだけ病院で働いていたとは、どのくらい前の話だろう?そして、木村先生の妻が航太郎のことを知っているということは、例の手術が行われた当時のことも知っている可能性がある。
「神崎君、立ち話もなんだし、座ってゆっくりして」
木村先生が微笑みながら、椅子を引いて促す。颯太は、ゆっくりとテーブルについた。
幽霊の真田先生は、リビングの隅に立ち、微動だにせず木村先生の様子を観察していた。
この食事会は、ただの飲みの誘いではない。確信しながらも、颯太は手元のグラスに視線を落とした。この場で、木村先生は何を語るつもりなのか。それとも、何かを確かめようとしているのか。その答えを知るには、まだ少し時間が必要だった。
「さぁ、どんどん食べて」
木村先生が、颯太のコップにビールを注いだ。透き通った琥珀色の液体が、静かにグラスの中で泡を立てる。颯太が飲める年齢なのは当然だが、病院の先輩医師とこうしてプライベートで飲むのは少し気が引ける。
「……い、いただきます」
戸惑いながらも、コップを軽く持ち上げ、口をつける。苦い。ビールが嫌いというわけではない。だが、今夜は喉を通る感覚が、妙に重く感じる。グラスをそっとテーブルに戻し、箸を握る。テーブルには豪華な料理が並んでいる。
煮込み料理、焼き魚、サラダ、チーズやハムの盛り合わせ……。
まるで特別な日を思わせるような食卓だ。
「どうぞ、好きなものを取って」
木村先生は自分のコップにもビールを注ぎ、軽く微笑んだ。
「お疲れ様の一杯、ってやつさ」
「……ありがとうございます」
颯太は、焼き魚の皿に箸を伸ばした。料理の味はもちろん絶品だ。けれど、この状況がどこか落ち着かない。そんな颯太の様子を見ていた奥さんが、ふと時計を見た。
「そろそろ娘の塾が終わるころなので、迎えに行ってきますね」
立ち上がりながら、颯太に向かって柔らかく微笑む。
「神崎先生、ゆっくりしていてください」
「は、はい……お気をつけて」
颯太が頭を下げると、奥さんは軽く手を振りながら玄関へ向かった。リビングの扉が静かに閉まる。木村先生と、二人きりになった。
「さぁ、改めて」
木村先生はゆっくりとグラスを持ち上げた。
「今夜は、いろいろ話そうか」
颯太は、グラスを持つ手に無意識に力を込めた。
このいろいろには、一体何が含まれているのか。
父のことか?
西浦君の手術のことか?
今夜、この食卓の上で、何かが明らかになる。
そう確信しながら、静かに息を整えた。
「僕は……駆け引きとか探り合いとか、苦手なんだ」
木村先生は、微笑を浮かべながらそう言った。口調はいつもと変わらず穏やかで、場を和ませるような空気を纏っている。しかしその言葉とは裏腹に、リビングに漂う空気は、ひどく張り詰めていた。まるで、見えない糸がピンと張られているような緊張感。
颯太は、無意識に息をのむ。
「単刀直入に話そう」
グラスをそっとテーブルに置きながら、木村先生は颯太をじっと見つめた。
木村先生の笑顔は、どこまでも柔らかい。
「……わかりました」
颯太は、喉の奥に詰まる息を飲み込み、静かに返事をした。グラスを持つ指が、わずかに冷たくなっているのがわかる。颯太は、喉の奥に詰まる息を飲み込み、静かに返事をした。
グラスを持つ指が、わずかに冷たくなっているのがわかる。
視線を落としながらも、意識は目の前の木村先生に集中している。今、この場で、どこまで踏み込めるのか。心臓がひどく静かに、けれど確かに高鳴っている。
そして、次の言葉を選びながら、意を決して顔を上げた。
「先生は……父の最後の手術…西浦くんの手術に、どう関わっていたんですか?」
まっすぐに、木村先生の顔を見つめて問いかける。微塵の迷いもない視線。
逃げるつもりはない。そう覚悟を決めた表情を見て、木村先生はわずかに目を見開いた。
それは、意外だったのか。あるいは、ついにこの質問が来たかと悟ったのか。
「……」
瞬間的に、一瞬だけ沈黙が落ちた。室内の空気が、さっきまでとは明らかに違うものに変わっていく。颯太は、木村先生の表情の一つ一つを観察していた。驚きの色は一瞬だけ。
すぐに、彼は穏やかな笑みを取り戻した。
「……ずいぶん、ストレートに聞いてくるね」
木村先生は、ゆっくりとグラスを持ち上げ、琥珀色の液体を口に含んだ。アルコールの香りがほんのりと広がる中、彼はグラスを置き、指先でテーブルを軽くなぞる。
「そうだな……神崎君。君は、どこまで知っているのかな?」
「……?」
木村先生の言葉に、一瞬考える。これは、探りを入れられているのか?それとも、答えを確かめているのか?
「どこまで……」
小さく繰り返しながら、颯太は唇を噛んだ。
「……父の手帳に、先生の名前がありました。黒沢先生と、鷹野先生と、そして先生が、あの手術に入っていたことも」
「……手帳、か」
木村先生は、少しだけ視線を落としながら、ふっと笑った。
「君はそれを見て、どう思った?」
「……先生は、なぜ今まで一言も話さなかったのかな、と思いました」
颯太は、まっすぐ問いをぶつけた。木村先生の表情が、ふっとわずかに曇る。
「僕が、話すべきことじゃなかったからだよ」
淡々とした口調だった。しかし、その言葉の裏には、何かが隠されている。
「話すべきことじゃなかった……?」
「うん。少なくとも、君がこうして知りたいと思っていることの全てを、僕が話せるわけじゃない」
木村先生の指が、無意識にグラスをなぞる。まるで、何かの答えを探しているかのように。
「でも、君がどうしても知りたいなら……少しずつ、話そうか」
木村先生は、ゆっくりと笑みを浮かべた。それは、いつもの優しい笑顔と、どこか違うものだった。
「この手術のこと。君の父親のこと。そして、西浦くんのことも」
そう言った彼の目が、ほんのわずかに、影を落としたように見えた。