ICUの自動ドアが静かに開くと、張り詰めた冷気が肌を撫でた。
室内は変わらず、無機質な静寂に包まれている。2時間ほど前に颯太がここを離れた時と、見た目に大きな変化はないようだった。
規則的に鳴る人工呼吸器の音、モニターの電子音、低く囁き合う看護師たちの声──すべてが"いつも通り"のICUの空気を作り上げている。
だが、本当に"いつも通り"なのか?その確信は、なかった。颯太の視線は、ICUの一番奥に向かった。──そこに、西村聖がいる。
彼がいる場所は、万が一の事態が起こった時にすぐ対応できるよう、人工呼吸器やECMO(体外式膜型人工肺)などの機器が最も近い場所だった。
西村のベッドの周囲には、依然として無数の医療機器が並び、モニターの青白い光が彼の静かな横顔を照らしている。
──今は、安定しているはずだ。
そう思いながら、颯太は西村のほうへ歩みを進めた。その瞬間、違和感が走った。
──誰かが、いる。颯太の足が、ピタリと止まる。視線の先には──木村先生がいた。
「……っ!」
思わず息が詰まる。真田先生も同時に気づき、わずかに身構えた。ICUの薄暗い照明の下、白衣をまとった木村先生が、西村のベッドの横に立っていた。彼は、モニターを見つめながら、何かをしている。──何を、している?
「木村先生……?」
不審に思いながら声をかける。木村先生はゆっくりと振り返った。
「……おお、神崎君」
穏やかな笑顔が、いつものようにそこにあった。
「どうした?もう仮眠はとったのかい?」
「……はい、まあ」
颯太は慎重に木村先生の顔を観察しながら、ゆっくりと西村のベッドへ歩み寄る。木村先生は、変わらずリラックスした様子だった。しかし、彼の指先がまだ微かに動いているのを、颯太は見逃さなかった。まるで、何かをしていた手を隠そうとするかのように。
「……西村君の状態を見に?」
「うん、そうだよ。ちょっと気になってね」
「気になる?」
「ほら、さっきCRPの値が上がってただろう?感染管理を慎重にやらないといけないからね。あと、ドレーンの排液量も気になってね」
颯太は、モニターの数値を確認した。確かに、CRPは依然として高めだが、現時点で急激な悪化は見られない。ドレーンの排液量も、異常な増加はない。
「……確かに、注意は必要ですが……」
「うん、だから軽くチェックしていただけさ」
木村先生は、ふっと柔らかく笑った。──何か、違和感があるが木村先生の声は、表情は、いつもと同じ。だが、彼が西村のベッドのそばにいることが、妙に不自然に思えてならなかった。まるで、"何かをしていた"のではないかという気がしてしまう。
「ちょっと、状態を確認してもいいですか?」
「もちろん」
木村先生はすんなりと道を開けた。颯太は、慎重に西村のモニターを再確認した。
──HR 79bpm、BP 101/68mmHg、SaO₂ 98%。変化はない。異常な数値は、見当たらない。けれど、違和感は消えなかった。
「……なあ、神崎君」
木村先生がふと、軽く笑いながら言った。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
「え……?」
「そんなに睨むような目で見られると、僕、ちょっと傷つくなあ」
柔らかく冗談めかした口調だった。しかし、それを聞いた瞬間、颯太の背中に冷たいものが走った。──"睨んでいる"と、気づいていた?
「……そんなつもりはありませんよ」
努めて平静を装いながら答える。
「ならいいけどね」
木村先生は、まるで本当に気にしていないかのように、軽く肩をすくめた。
「さて、そろそろ僕は病棟の回診に行くよ。神崎君、もう少しリラックスしたら?」
「……はい」
それだけ言い残し、木村先生はICUを後にした。その背中を見送りながら、颯太は無意識に拳を握っていた。
「……どう思います?」
真田先生に小さく囁く。
「……さっき、お前が言ってたな。"もしかして、木村先生は何かを知っているのか"って」
「……はい」
「その答えは、お前が今感じている違和感の中にあるんじゃないか?」
颯太は、西村のモニターをもう一度見た。──異常は、ない。けれど、確実に"何か"があった。それだけは、確信できた。
その晩、旭光総合病院は静かではなかった。
救急車のサイレンはひっきりなしに鳴り響き、救急外来のスタッフが慌ただしく動いているのがナースステーションからでも伝わってきた。
だが、颯太が呼び出されることはなかった。
病棟も比較的安定しており、ICUの患者たちも大きな変化はなく、西村聖の容態も落ち着いていた。──少なくとも、今のところは。
真田先生と何度もモニターを確認しながら、異変がないことを確かめ、夜勤の時間をなんとか乗り切った。
そして、夜が明け、日勤の医師たちが病院へ出勤してくる頃、颯太はICUの患者情報を整理し、日勤チームへ引き継ぎを行った。
「夜間は大きな変化はありませんでした。西村はLVADの流量、血行動態ともに安定していますが、CRPの上昇傾向が続いているので、引き続き感染管理を徹底してください」
「了解しました。お疲れ様でした、神崎先生」
ICUの日勤チームに患者の状態を報告し、すべての引き継ぎを終えた颯太は、ようやく肩の力を抜いた。──長い夜だった。体の疲れを感じながら、静かに医局へ向かう。
医局の扉を開けると、そこには木村先生がいた。彼はパソコンの前に座り、電子カルテに記録を打ち込んでいた。モニターには患者情報が映し出されており、ICUの患者のリアルタイムの数値が確認できる状態になっていた。──そこには、西村聖のモニターも表示されていた。
「神崎君、お疲れ様」
木村先生が顔を上げ、にこやかに声をかける。
「お疲れ様です」
「西村さんは安定してきたようだね」
そう言いながら、木村先生はモニターに映る西村の数値をじっと見つめている。──血圧は安定、心拍数も問題なし、酸素飽和度も正常範囲内。今すぐどうこうなる状態ではない。
「ほっとしています。まだ注意しなければいけませんが」
颯太も静かに頷きながら答えた。木村先生は微笑を浮かべながらも、どこか考え込むようにモニターを見つめている。──何を考えている?
昨夜のICUでのやり取りが、颯太の頭の中に蘇る。木村先生が"西村のベッドのそばで何をしていたのか"、本当に確認していただけなのか、それは未だにわからない。だが、今こうしてモニターを見つめる彼の姿も、何かを確かめるようで、違和感が拭えなかった。
「……神崎君、仮眠は取れた?」
ふいに、木村先生が視線を向ける。
「少しだけ、ですね」
「そうか。……夜勤明け、疲れただろう?」
「まあ、慣れましたから」
軽く返しながらも、木村先生の目の奥を探るように見つめる。──"何かを知っている"。
その確信だけが、少しずつ強くなっていた
その日、颯太はそのまま外来勤務が入っていた。長い夜勤を終えたばかりで、体は重く、頭もぼんやりとしたままだったが、行かなくてはならない。自分を必要としている患者がいるのだから。
疲れたから、と休める時間があるわけではない。
──これも医者の仕事だ。
それに比べて、木村先生は昨日の日勤から夜勤までこなした長丁場だった。
さすがに今日は帰るだろう。
──本当は、父の手術のことも聞きたい。けれど、今このタイミングで話題にするのはやめておいた方がいい。考えすぎて疲れたような表情を浮かべる木村先生を見て、そう判断した。
「木村先生こそ、お疲れさまでした。早めに帰って、ゆっくりしてくださいね」
颯太は努めて落ち着いた声で言った。すると、木村先生はデスクの横に置かれた段ボールを手に取った。中から取り出したのは、青い色のドリンクだった。
「……あ…」
颯太は一瞬戸惑った。それは、海外製のエナジードリンクだ。独特なデザインと、普通のエナジードリンクにはない人工的な青色のパッケージ。
「ありがとうございます」
「夜勤のあとはこれだよねぇ」
木村先生はそう言って、ペットボトルを颯太の手に押し付けるように渡した。独特な甘さのあるちょっとクセの強い飲み物。
「ありがとうございます」
颯太は軽くお礼を言い、それを受け取った。
「今夜、時間があるかい?」
ペットボトルを受け取った直後、木村先生がさらりと聞いた。
「……え?」
「今夜さ。時間、ある?」
「……たぶん、19時には病院を出られると思いますけど」
「そっか」
木村先生は軽く頷いた。
「うちに飲みに来ない?」
「……え?」
思わず、目を丸くした。──木村先生が、自宅に誘う?いつも優しくて、親しみやすい先輩医師ではあるが、プライベートで親しくしている人は多くない。ましてや、自宅に誰かを呼ぶようなタイプには見えなかった。
「……飲みに、ですか?」
「うん。せっかくだし、一度ゆっくり話したいと思ってね」
木村先生の表情は柔らかいままだった。
「最近、君もいろいろ考えてることがあるだろう?」
「……」
言葉が出なかった。それが何を意味するのか。──もしかして、"N君の手術"のこと?
それとも、単純に夜勤明けの気分転換として誘われただけなのか?何かを探るような木村先生の視線が、なぜか少しだけ冷たく感じた。