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第10話

仮眠室の片隅に置かれていた簡素な食事セット。小さなテーブルの上に、パンと個包装のお菓子が並んでいる。颯太はため息をつきながら、その中から適当にチョコパンとクラッカーを手に取り、口に運んだ。


──味がしない。


ただ咀嚼し、胃に押し込むだけの作業のようだった。「食え」と言われたから食べているだけで、これで体力が戻る気がしない。それでも、少しでも口に入れておけば、また真田先生に怒られることもないだろう。適当に水で流し込み、食べ終えると、ベッドへ横になった。

仮眠室のカーテンを静かに閉める。周囲の音が遠のき、薄暗い空間に包まれた。


──眠れるだろうか。目を閉じる。


しかし、まぶたの裏には、次々と今夜起こったことが浮かんでくる。

木村先生の態度。西村の手術のことや、経過…。そして、まだ読み進められていない父の手帳の続きを知る怖さ。

……。

やはり、眠れそうにない。頭の中のざわめきが消えないまま、時間だけが過ぎていく。時計も見ていないが、感覚的に30分ほど経ったころ、諦めたようにそっと目を開けた。途端に、カーテンの向こうから静かな声が聞こえた。


「……眠れないのか?」


「……!」


カーテンの外に真田先生がいる。


「……いたんですね」


「お前が眠れない気がしてな」


カーテンの向こうから、落ち着いた声がする。どうやら心配でここにいたらしい。


「……すみません、せっかく仮眠取るように言ってもらったのに」


「別にいいさ。で、どうする?このまま眠れそうか?」


しばらく沈黙した後、颯太は静かに答えた。


「……手帳の続きを見ませんか?」


カーテンの向こうで、微かに空気が動いた気がした。


「……ああ」


カーテンを少し開けると、真田先生が中へ入る。ベッドの端に腰を下ろし、颯太が手帳を手に取るのをじっと待っていた。


──次のページには、何が書かれているのか。


恐る恐る指先をかける。深く息を吸い、静かにページをめくる。二人の視線が、記された文字へと吸い寄せられていく。

ページをめくると、そこには父の手術の記録が記されていた。


「4月14日」

──N君の手術が終わった。

──予定通り、心内修復術を実施。

──術式は右室流出路拡大手術(RVOTパッチ形成術)と心室中隔欠損閉鎖術(VSD閉鎖術)。

──術前の心臓カテーテル検査では、肺動脈圧が著しく高く、右心系の負担が予想以上に大きかった。

──大動脈の騎乗率も50%を超えており、肺動脈狭窄の部位が複雑であったため、術中の血行動態維持に細心の注意を要した。

──手術開始後、まず心肺バイパスを確立。体外循環を開始し、心停止液(カーディオプレジア)を投与。

──右室流出路の狭窄部位を慎重に切開し、Gore-Tex製のパッチを使用して拡大。

──心室中隔欠損部(VSD)は大きく、人工パッチを用いて閉鎖。

──手術は約6時間。出血量は予定より多かったが、循環動態は安定していた。

──術後、心拍再開を確認。低心拍出量症候群を防ぐため、カテコラミンを投与しながらICUへ搬送。

──今後の課題は、術後の肺高血圧の管理と、右室機能の回復。

──正直なところ、思った以上にN君の心臓は厳しい状態だった。

──だが、この手術が成功すれば、彼に「生きる未来」が開けるはずだ。

──信じて、術後管理に全力を尽くす。

──何があっても、彼を救う。


ページに並ぶ文字から、父の覚悟が伝わってくる。この手術は、西浦君が生きるための最後の希望だった。

ファロー四徴症の重症例、特に西浦君のように複雑な形態を持つ場合、心室中隔欠損(VSD)と肺動脈狭窄を同時に修復する手術は極めて高度な技術を要する。それでも、父はこの手術に挑み、そして成功させた。

──成功した、はずだった。


「……ここまで読む限り、術中に大きなトラブルはなかったんですね」


颯太は、手帳の文字をなぞるように言った。


「……そうだな」


真田先生も静かにページを見つめたまま、ゆっくりと頷いた。


「手術の内容を見る限り、航太郎先生は最善を尽くした。それは間違いない。術後の血行動態も安定していたようだし、一度は心拍も戻っている」


「なのに、なぜ……?」


なぜ、助からなかったのか?ここに書かれている限り、手術自体に問題はなかったはずだ。

術後の状態が安定していたなら、少なくとも急変するような兆候はなかったはず。


「……次のページに、"答え"があるかもしれませんね」


颯太は、手帳を持つ手に力を込めた。そして、ゆっくりと、次のページをめくった。

次の瞬間、思わず息をのんだ。


──そのページは、ペンでぐしゃぐしゃに塗りつぶされていた。


手帳の他のページとは明らかに違う。ここには、整然と並ぶ父の文字はなく、ただ荒々しく黒いインクが何度も重ねられている。まるで、誰かに読まれることを拒むかのように。

それでも、かろうじて読み取れる文字がいくつかあった。


──「術後管理」

──「黒沢」

──「木村」

──「俺が残っていれば」


それ以上は、何度も何度も塗りつぶされ、裏のページまでインクが滲んでいた。無意識に喉を鳴らし、息を詰める。


「……これ、どういうことだ?」


震える声で呟くと、隣で真田先生も手帳を覗き込み、険しい顔をした。


「……この書き方、異常だな」


真田先生の声は、いつもより低かった。


「これまでのページには、冷静な記録が残されていた。なのに、ここだけ……まるで、"何かを消したい"みたいに見える」


「"黒沢"と"木村"……」


目を凝らして、何度も塗りつぶされた文字の隙間から、かすかに読み取れる言葉をなぞる。


「そして……"俺が残っていれば"……?」


「つまり……」


真田先生がゆっくりと息を吐く。


「……術後管理に問題があった可能性が高い」


颯太は、思わず手帳を強く握りしめた。


──"術後管理"。

──"黒沢"、"木村"。

──"俺が残っていれば"。


手術は成功していたはずだった。なのに、父はなぜこんなにも激しくこのページを塗りつぶしたのか?


「……やっぱり、術後管理が不十分だったんじゃないですかね…」


「可能性はある」


「でも、木村先生の名前もある……」


手術には関わっていたが、なぜ木村先生の名前がここに?


「"俺が残っていれば"……っていうのも、気になりますね」


父は、術後管理に立ち会えなかったのか?あるいは、立ち会えなくなった理由があったのか?真田先生と顔を見合わせる。


「……これ、読めない部分をどうにか復元できませんかね」


「うーん……」


颯太は塗りつぶされたページをじっと見つめる。──ここに、"答え"がある。

それだけは、確信できた。


「……木村先生……または、黒沢先生が、術後管理を怠った……もしくは、わざと……」


真田先生の低い声が、仮眠室の静寂を震わせる。その言葉に、颯太の心臓が大きく跳ねた。


「わざと……?」


自分の声がかすれて聞こえる。もし、それが本当なら──。

──西浦君は、助けられたはずの命だったのかもしれない。静かな仮眠室の中で、二人は無言のまま顔を合わせた。真田先生の表情はいつになく険しい。颯太の胸の奥には、今まで感じたことのない冷たい怒りと疑念が沸き上がっていた。

──術後管理の不備。

──"俺が残っていれば"という父の言葉。

──わざと、という可能性。


父の手帳のこのページだけが、なぜこれほどまでに乱雑に塗りつぶされていたのか。何かを隠したかったのか?それとも、これを読んだ誰かが、"隠さなければならない"と考えたのか?どちらにせよ、これはただの"偶然の手違い"では済まされない。


「……行きましょう」


颯太は静かに言い、手帳をバッグに入れた。ロッカーに向かい、手帳を入れたバッグを鍵付きのスペースへ慎重にしまう。鍵をかけ、深く息を吐いた。

──"今は目の前の患者を診る"。

それが医者の第一の務めだ。けれど、その心の奥では、手帳に刻まれた"真実"が、徐々に形をなしていくような気がした。


「行くぞ」


真田先生の声に、颯太は頷く。ロッカーを閉じると、二人は足早にICUへ向かった。

ICUへ向かう途中、颯太の頭の中では、西村聖と西浦君──西浦栄真の姿が重なっていた。

拡張型心筋症の患者、西村聖。ファロー四徴症の重症例だったN君こと西浦栄真。二人とも、生きるために手術を受けた。けれど、西浦君は助からなかった。その理由は、本当に術後管理のミス"だけ"だったのか?──いや、"ミス"という言葉で片付けてはいけないのかもしれない。


「……西村君は、救えるんですよね」


颯太は、前を歩く真田先生に問いかけるように呟いた。


「救える。少なくとも、今はまだ"間に合う"状態だ」


「……なら、N君…西浦君も本当は"間に合った"んですかね……」


そう口にした瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。


「……」


真田先生は、何も言わなかった。だが、その沈黙こそが答えだった。


──"もし、本当に誰かが意図的に術後管理を怠ったのだとしたら"。

──"N君は、本当は生きられたはずだったのかもしれない"。

それを考えると、震えが止まらなかった。颯太は、一度拳を握りしめ、そして開く。

──"今は考えるな"。

──"まずは西村君を救う"。

そう自分に言い聞かせながら、颯太はICUへと足を速めた。


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