仮眠室の片隅に置かれていた簡素な食事セット。小さなテーブルの上に、パンと個包装のお菓子が並んでいる。颯太はため息をつきながら、その中から適当にチョコパンとクラッカーを手に取り、口に運んだ。
──味がしない。
ただ咀嚼し、胃に押し込むだけの作業のようだった。「食え」と言われたから食べているだけで、これで体力が戻る気がしない。それでも、少しでも口に入れておけば、また真田先生に怒られることもないだろう。適当に水で流し込み、食べ終えると、ベッドへ横になった。
仮眠室のカーテンを静かに閉める。周囲の音が遠のき、薄暗い空間に包まれた。
──眠れるだろうか。目を閉じる。
しかし、まぶたの裏には、次々と今夜起こったことが浮かんでくる。
木村先生の態度。西村の手術のことや、経過…。そして、まだ読み進められていない父の手帳の続きを知る怖さ。
……。
やはり、眠れそうにない。頭の中のざわめきが消えないまま、時間だけが過ぎていく。時計も見ていないが、感覚的に30分ほど経ったころ、諦めたようにそっと目を開けた。途端に、カーテンの向こうから静かな声が聞こえた。
「……眠れないのか?」
「……!」
カーテンの外に真田先生がいる。
「……いたんですね」
「お前が眠れない気がしてな」
カーテンの向こうから、落ち着いた声がする。どうやら心配でここにいたらしい。
「……すみません、せっかく仮眠取るように言ってもらったのに」
「別にいいさ。で、どうする?このまま眠れそうか?」
しばらく沈黙した後、颯太は静かに答えた。
「……手帳の続きを見ませんか?」
カーテンの向こうで、微かに空気が動いた気がした。
「……ああ」
カーテンを少し開けると、真田先生が中へ入る。ベッドの端に腰を下ろし、颯太が手帳を手に取るのをじっと待っていた。
──次のページには、何が書かれているのか。
恐る恐る指先をかける。深く息を吸い、静かにページをめくる。二人の視線が、記された文字へと吸い寄せられていく。
ページをめくると、そこには父の手術の記録が記されていた。
「4月14日」
──N君の手術が終わった。
──予定通り、心内修復術を実施。
──術式は右室流出路拡大手術(RVOTパッチ形成術)と心室中隔欠損閉鎖術(VSD閉鎖術)。
──術前の心臓カテーテル検査では、肺動脈圧が著しく高く、右心系の負担が予想以上に大きかった。
──大動脈の騎乗率も50%を超えており、肺動脈狭窄の部位が複雑であったため、術中の血行動態維持に細心の注意を要した。
──手術開始後、まず心肺バイパスを確立。体外循環を開始し、心停止液(カーディオプレジア)を投与。
──右室流出路の狭窄部位を慎重に切開し、Gore-Tex製のパッチを使用して拡大。
──心室中隔欠損部(VSD)は大きく、人工パッチを用いて閉鎖。
──手術は約6時間。出血量は予定より多かったが、循環動態は安定していた。
──術後、心拍再開を確認。低心拍出量症候群を防ぐため、カテコラミンを投与しながらICUへ搬送。
──今後の課題は、術後の肺高血圧の管理と、右室機能の回復。
──正直なところ、思った以上にN君の心臓は厳しい状態だった。
──だが、この手術が成功すれば、彼に「生きる未来」が開けるはずだ。
──信じて、術後管理に全力を尽くす。
──何があっても、彼を救う。
ページに並ぶ文字から、父の覚悟が伝わってくる。この手術は、西浦君が生きるための最後の希望だった。
ファロー四徴症の重症例、特に西浦君のように複雑な形態を持つ場合、心室中隔欠損(VSD)と肺動脈狭窄を同時に修復する手術は極めて高度な技術を要する。それでも、父はこの手術に挑み、そして成功させた。
──成功した、はずだった。
「……ここまで読む限り、術中に大きなトラブルはなかったんですね」
颯太は、手帳の文字をなぞるように言った。
「……そうだな」
真田先生も静かにページを見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「手術の内容を見る限り、航太郎先生は最善を尽くした。それは間違いない。術後の血行動態も安定していたようだし、一度は心拍も戻っている」
「なのに、なぜ……?」
なぜ、助からなかったのか?ここに書かれている限り、手術自体に問題はなかったはずだ。
術後の状態が安定していたなら、少なくとも急変するような兆候はなかったはず。
「……次のページに、"答え"があるかもしれませんね」
颯太は、手帳を持つ手に力を込めた。そして、ゆっくりと、次のページをめくった。
次の瞬間、思わず息をのんだ。
──そのページは、ペンでぐしゃぐしゃに塗りつぶされていた。
手帳の他のページとは明らかに違う。ここには、整然と並ぶ父の文字はなく、ただ荒々しく黒いインクが何度も重ねられている。まるで、誰かに読まれることを拒むかのように。
それでも、かろうじて読み取れる文字がいくつかあった。
──「術後管理」
──「黒沢」
──「木村」
──「俺が残っていれば」
それ以上は、何度も何度も塗りつぶされ、裏のページまでインクが滲んでいた。無意識に喉を鳴らし、息を詰める。
「……これ、どういうことだ?」
震える声で呟くと、隣で真田先生も手帳を覗き込み、険しい顔をした。
「……この書き方、異常だな」
真田先生の声は、いつもより低かった。
「これまでのページには、冷静な記録が残されていた。なのに、ここだけ……まるで、"何かを消したい"みたいに見える」
「"黒沢"と"木村"……」
目を凝らして、何度も塗りつぶされた文字の隙間から、かすかに読み取れる言葉をなぞる。
「そして……"俺が残っていれば"……?」
「つまり……」
真田先生がゆっくりと息を吐く。
「……術後管理に問題があった可能性が高い」
颯太は、思わず手帳を強く握りしめた。
──"術後管理"。
──"黒沢"、"木村"。
──"俺が残っていれば"。
手術は成功していたはずだった。なのに、父はなぜこんなにも激しくこのページを塗りつぶしたのか?
「……やっぱり、術後管理が不十分だったんじゃないですかね…」
「可能性はある」
「でも、木村先生の名前もある……」
手術には関わっていたが、なぜ木村先生の名前がここに?
「"俺が残っていれば"……っていうのも、気になりますね」
父は、術後管理に立ち会えなかったのか?あるいは、立ち会えなくなった理由があったのか?真田先生と顔を見合わせる。
「……これ、読めない部分をどうにか復元できませんかね」
「うーん……」
颯太は塗りつぶされたページをじっと見つめる。──ここに、"答え"がある。
それだけは、確信できた。
「……木村先生……または、黒沢先生が、術後管理を怠った……もしくは、わざと……」
真田先生の低い声が、仮眠室の静寂を震わせる。その言葉に、颯太の心臓が大きく跳ねた。
「わざと……?」
自分の声がかすれて聞こえる。もし、それが本当なら──。
──西浦君は、助けられたはずの命だったのかもしれない。静かな仮眠室の中で、二人は無言のまま顔を合わせた。真田先生の表情はいつになく険しい。颯太の胸の奥には、今まで感じたことのない冷たい怒りと疑念が沸き上がっていた。
──術後管理の不備。
──"俺が残っていれば"という父の言葉。
──わざと、という可能性。
父の手帳のこのページだけが、なぜこれほどまでに乱雑に塗りつぶされていたのか。何かを隠したかったのか?それとも、これを読んだ誰かが、"隠さなければならない"と考えたのか?どちらにせよ、これはただの"偶然の手違い"では済まされない。
「……行きましょう」
颯太は静かに言い、手帳をバッグに入れた。ロッカーに向かい、手帳を入れたバッグを鍵付きのスペースへ慎重にしまう。鍵をかけ、深く息を吐いた。
──"今は目の前の患者を診る"。
それが医者の第一の務めだ。けれど、その心の奥では、手帳に刻まれた"真実"が、徐々に形をなしていくような気がした。
「行くぞ」
真田先生の声に、颯太は頷く。ロッカーを閉じると、二人は足早にICUへ向かった。
ICUへ向かう途中、颯太の頭の中では、西村聖と西浦君──西浦栄真の姿が重なっていた。
拡張型心筋症の患者、西村聖。ファロー四徴症の重症例だったN君こと西浦栄真。二人とも、生きるために手術を受けた。けれど、西浦君は助からなかった。その理由は、本当に術後管理のミス"だけ"だったのか?──いや、"ミス"という言葉で片付けてはいけないのかもしれない。
「……西村君は、救えるんですよね」
颯太は、前を歩く真田先生に問いかけるように呟いた。
「救える。少なくとも、今はまだ"間に合う"状態だ」
「……なら、N君…西浦君も本当は"間に合った"んですかね……」
そう口にした瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
「……」
真田先生は、何も言わなかった。だが、その沈黙こそが答えだった。
──"もし、本当に誰かが意図的に術後管理を怠ったのだとしたら"。
──"N君は、本当は生きられたはずだったのかもしれない"。
それを考えると、震えが止まらなかった。颯太は、一度拳を握りしめ、そして開く。
──"今は考えるな"。
──"まずは西村君を救う"。
そう自分に言い聞かせながら、颯太はICUへと足を速めた。