ICUの中は、特有の無機質な空気が漂っている。低く響く人工呼吸器の音、モニターのリズミカルな電子音、患者の体を支える医療機器のかすかな振動音──。これらが交錯しながらも、ICU全体に張り詰めた静寂が広がっていた。カーテンで仕切られたベッドを順に確認しながら歩を進める。そして、目的の患者の元へとたどり着いた。
ベッドの上で静かに横たわるその姿は、機械の数値を見なければ、とても"危険な状態"には見えないほど穏やかだった。だが、彼を支えているのはあくまで機械だ。
LVAD(左心補助人工心臓)が彼の心臓を補助し、血液を全身へ送り続けている。
モニターに目を走らせ、心拍数、血圧、酸素飽和度を確認する。
──HR 82bpm、BP 102/65mmHg、SaO₂ 97%。
「今のところは安定していそうだな」
颯太は静かに呟いた。その時、ふわりとした気配がICUの冷たい空気の中に入り込んできた。
「颯太、西村聖はどうだ?」
振り返るまでもなく、誰がそこにいるのかはわかっていた。真田先生だ。
「今のところは安定しています。血行動態は落ち着いていますし、LVADも問題なく動いているようです」
そう言いながら、颯太はモニターの数値をもう一度確認した。
「ただ……術後48時間以内は何が起こるかわかりません。感染リスクも高いですし、血栓形成の危険性もある。特に、西村さんは拡張型心筋症の末期状態でLVADを入れたケースなので、右心不全にも警戒しないといけませんね」
「確かにな。左心補助だけでは、右心の負荷が増えることもある」
真田先生は、腕を組みながらモニターをじっと見つめる。
「頸静脈の怒張はないか?」
「今のところは問題ありません。中心静脈圧も8mmHgで、右心系への過負荷は見られません」
「なら、経過観察だな」
真田先生の言葉に、颯太は小さく頷く。
「それにしても……LVADの術後管理って、やっぱり大変ですね」
苦笑しながら言うと、真田先生も小さく笑った。
「大変なのはここからだぞ」
「そうですね。抗凝固療法の調整が必要ですし、感染予防のための抗生剤も継続しなきゃいけない。栄養管理も慎重にしないと、術後の回復が遅れてしまう」
「その通りだ。特に、血栓形成には要注意だな。LVADは血液を機械的に送り出す構造上、どうしても血流の乱れが生じやすい。だからこそ、ワーファリンやヘパリンなどの抗凝固療法が重要になる」
「はい。ただ、西村さんはすでに肝機能の数値が少し悪くなっているので、ワーファリンの調整が難しそうです」
「ふむ……となると、ヘパリンのモニタリングを慎重にやるしかないな」
「はい」
LVADを装着した患者の管理は、単なる術後ケアとは違う。
機械によって生き延びる"時間"を与えられた状態だからこそ、その後の管理が患者の生存率を左右する。
それはただの延命ではなく、次の選択肢を手に入れるための猶予だ。
適切な術後管理ができなければ、せっかく手術で命をつないでも、その後の回復が阻まれ、患者は生き延びることができない。だからこそ、細心の注意を払って術後のケアを進めなければならない。
「……慎重に観察しないといけませんね」
モニターの数値を再確認しながら、颯太が呟く。
「そうだな……。」
颯太は無言でモニターを見つめていた。
1時間ほど経った頃
「お疲れ様ー!」
明るく響く声とともに、ICUの扉が開いた。颯太は反射的に振り返る。木村先生だ。軽く白衣の袖をまくりながら、彼はにこやかにICUへと入ってきた。
「みんな、お疲れ様」
看護師たちに気さくに声をかけながら、リラックスした様子で歩いてくる。
「お疲れ様です、木村先生」
「お疲れ様」
ICUの看護師たちも慣れた様子で木村先生に挨拶を返す。いつもの日常の一コマで、木村先生はいつもの優しい雰囲気を纏っていた。
だが、颯太の胸の奥には、言葉にできない違和感が生じていた。
──木村先生も、西浦君の手術に入っていたという記録を見てから。
その事実を知った後だからか、今までとは違う視点で木村先生を見ている自分に気づく。
「木村先生」
颯太は、できるだけ平静を装いながら口を開いた。
木村先生が「どうした?」と視線を向け、軽く頷く。
「神崎君、ありがとう。交代するよ。仮眠しておいで」
「ありがとうございます。西村さんは今のところ安定しています」
「そうか。ありがとう」
木村先生はそう言いながら、西村くんのベッドへと歩み寄る。モニターの数値を確認しながら、少し顎に手を当てた。
「血圧は安定してるな。LVADの流量も問題なさそうだ。CRPの値は?」
「今朝の数値では5.2mg/dLでした。まだ上昇傾向なので、感染管理に注意が必要です」
「うん、だね。術後の細菌感染は怖いから、抗生剤の調整を考えないと」
木村先生はいつもと変わらず、落ち着いた医師の顔だった。──だけど、何かが引っかかる。
「木村先生は…Nくん…いや、西浦くんの術後管理にも関わっていたんですか?」
意識的に、努めて軽い口調で言ってみた。すると、木村先生の手がほんの一瞬、止まった。
「……え?」
「突然すみません…。術後管理は大変だな、と思ったので…つい…」
「……ああ」
一拍遅れて、木村先生は口を開いた。
「そうだね。僕も術後管理にも入ってたよ。そっか。神崎先生の手帳ね…」
微笑みながら答えるその表情は、変わらず穏やかだった。しかし、その目の奥に一瞬だけ何かが揺らいだのを、颯太は見逃さなかった。
「すみません、気になってしまって。さっき先生に覚悟が必要だと言われたばかりなのに…」
「……そうだね。でも、その話、今ここでする?」
木村先生は、モニターをちらりと指しながら、苦笑混じりに言った。
「今は目の前の患者さんのことを考えよう。過去の話を掘り返すのも大事だけど、今、助けるべき命があるんじゃないの?」
「……っ」
言葉を飲み込んだ。──確かに、その通りだ。西村聖の術後管理は、一刻を争う重要な問題だ。
「……そうですね」
とりあえず、それ以上の追及は避けることにした。だが、疑念は消えない。
なぜ、木村先生は今まで例の手術のことを一言も話さなかったのか?彼は、何かを知っているのではないか?知るには覚悟が必要…どういう意味なのか?
優しい先輩医師としての顔の裏に、何かが隠れている気がしてならなかった。
「さて、俺はもう少し西村さんの経過を見たら、次の病棟回診に行くよ。神崎君も早めに仮眠とってね」
木村先生はそう言い、カルテを確認するためにナースステーションへと向かった。颯太は、ゆっくりと深呼吸する。隣では、真田先生が静かに佇んでいた。
「……どう思います?」
声を潜めて尋ねると、真田先生は目を細めながら、静かに言った。
「何かを知ってるな、あの人」
「……やっぱり」
「でも、今は証拠がない。感覚だけで動くのは危険だ」
「……はい」
頭ではわかっている。だが、どうしても、この違和感が拭えない。木村先生は、本当に無関係なのか?その疑問が、頭の奥で渦を巻いていた。
西村のモニターを最後にもう一度確認し、異常がないことを確認すると、颯太は静かにICUを出た。
病棟の廊下は夜勤特有の静けさに包まれている。日中の慌ただしさとは異なり、ナースステーションの声も落ち着いていて、看護師たちがパソコンに向かいながら記録を整理している姿がちらほらと見える。PHSは今のところ静かだった。
──今のうちに、少し休んでおこう。そう思い、颯太はまっすぐ医局へと向かった。
ドアを開けると、そこには誰もいなかった。
照明のついた医局には、数台のパソコンのスリープ画面が光っているだけだった。
颯太は、自分のデスクに戻ると、引き出しの中、バックの奥に置いていた父の手帳をそっと手に取った。
──続きを、読まなければならない。
そんな思いが頭をよぎる。だが、今の自分の状態で読むのは、正直少し危険な気もした。
ただでさえ、ICUで西村の状態を見て、何かが例の手術の術後経過と繋がっているような違和感を抱いている。そこに、父の手帳がさらに"何か"を突きつけてきたら、今の自分は冷静でいられるのだろうか。
そう考え、ひとまず手帳を抱えたまま、仮眠室へ向かった。
仮眠室の扉を開けると、淡い照明が灯っていた。
簡素な二段ベッドが並び、医師や看護師たちが交代で仮眠を取るためのスペースだ。今は誰もいない。
颯太は、ふうっと小さく息を吐きながら、ベッドの端に腰を下ろした。
手帳を抱えたまま、しばらく何も考えずにぼんやりとする。一晩で、いろんなことが起こりすぎた。木村先生のこと。父の最後の手術のメンバーだったという事実。
「……」
考えれば考えるほど、頭がぐるぐると回る。
「おい、お前、食事は?」
ふいに声がした。視線を上げると、扉の近くで真田先生が腕を組んで立っていた。
「……食事?」
「そうだ。夜勤前に何か食べたのか?」
「……いや、食欲ないんですよね。昨日から全然食べれてなくて」
冗談めかして言ったつもりだった。だが、次の瞬間──
「馬鹿かお前は!!」
真田先生の鋭い声が、仮眠室の静寂を切り裂いた。
「えっ……」
あまりに突然の怒声に、思わず身体が強張る。普段は穏やかで落ち着いている真田先生が、ここまで強く叱るのは珍しい。
「お前、医者だろうが。食べなきゃ頭も回らねぇし、体力も落ちる。お前が倒れたら誰が患者を診るんだ?」
「……すみません」
真田先生はため息をつき、苛立たしげに髪をかき上げた。
「……ったく、航太郎先生なら、こんなこと言われなくてもちゃんと自己管理してたぞ」
「……父さんなら」
「そうだ」
真田先生は、じっと颯太を見据えた。
「俺の兄貴を救おうとしてた航太郎先生は、少なくともお前みたいに食事も取らずにフラフラしながら仕事するようなことはしてなかったよ」
痛いところを突かれた。言い返せなかった。
「……何か食べます」
しぶしぶそう答えると、真田先生はようやく表情を緩め、呆れたように息をついた。
「最初からそうしろ。食べたら少し寝ろよ」
「……はい」
真田先生の姿がふわっと見えなくなると、颯太は静かに天井を仰いだ。──父さんなら、こんな時、どうしていただろう。そんなことを考えながら、ゆっくりと手帳を胸に抱いた。