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第8話

「閉胸に入る」


こうして、長い手術の最も重要な部分——血流の確保が成功した。

長い時間をかけたLVAD(左室補助人工心臓)の植え込み手術も、ついに最終段階を迎えた。颯太は手袋越しに汗を感じながら、深く息を吸い込む。


「出血の最終チェックをしよう」


木村先生の指示に従い、心膜・大動脈・左室の縫合部からの出血がないかを確認する。

LVADのポンプが正常に作動し、血流が安定していることは確認済みだが、術後出血があれば命取りになる。


「吸引をお願いします」


手術看護師が迅速に吸引管を渡し、余分な血液を取り除く。

慎重に観察すると、左室の心尖部(カニューレ挿入部)から微量の滲出出血があることに気づいた。


「神崎くん、ここを再縫合しよう」


「はい!」


颯太は細い縫合糸を使い、慎重に出血部位を補強する。細かい作業だ。手の震えを抑えながら、一本ずつ確実に縫合を進める。


「……止血を確認」


モニターを見ても、血圧に異常はない。


「問題なし。これで閉胸に入るよ。」


木村先生が頷き、閉胸作業に移る。開胸器をゆっくりと緩めながら、左右の胸郭を元の位置に戻す。


「胸骨ワイヤー、準備」


開胸時に切開した胸骨をステンレスワイヤーで固定し、安定させる。


「一か所ずつ締めていこう。あせらず」


5本のワイヤーが慎重に留められ、胸骨がしっかりと固定される。


「皮膚縫合に移る」


最後に、皮膚を閉じ、ドレーンチューブ(胸腔ドレーン)を挿入。手術中に発生した余分な血液や体液を排出するための重要な工程だ。


「胸腔ドレーン、右肺底部と心膜側に一本ずつ」


「確認しました。ドレーン位置、適正です」


皮膚縫合が終わると、手術部位には清潔なガーゼが当てられ、全行程が完了した。


「……よし、閉胸完了」


長い手術が、ようやく終わった。手術を終えた西村聖は、慎重にICU(集中治療室)へと運ばれた。麻酔からの覚醒が始まるまでは、人工呼吸器管理が必要だ。颯太と木村先生も一緒にICUへ向かい歩いて行く。


「血行動態チェックを」


「はい。LVADの流量を3.5L/minから4.2L/minに調整。血圧は110/65mmHgで安定しています。心拍も80/分で数値は安定しています」


颯太が報告するが、術後管理はここからが本番だ。LVAD患者には血栓症・感染症・右心不全などのリスクが伴う。


「血栓予防のため、抗凝固療法を開始。ヘパリン少量持続投与」


「肺動脈圧のモニタリングも継続」


「はい!」


緊張感のある管理が続いていたが、とりあえず手術着から着替えるため、颯太はICUから木村先生と並んで歩き出した。額の汗を拭いながら、深く息を吐いた。


「……お疲れ様でした」


静かな明け方の廊下で、最初に言葉を発したのは木村先生だった。彼はマスク越しに小さく息をつきながら、手袋を外していた。


「神崎君も、緊急だったけどよく対応してくれてありがとう」


木村先生は、珍しく柔らかい口調でそう言った。


「いえ……先生の指示が的確だったから、何とかやり遂げることができました」


「またまた。そういう謙遜はいいよ。神崎君はもっと自信もっていいよ」


木村先生は、使い込まれた術衣の袖を軽く払うと、颯太の顔をじっと見つめた。


「君は、もう立派な外科医だ」


その言葉に、颯太は一瞬驚いた。木村先生は、入職した当初からよく褒めてくれていた。いわゆるほめて伸ばすタイプなのだろう。すべてにおいて自信のない颯太を褒めてあげつづけてくれている。



「……ありがとうございます」


素直に言葉が出てきた。だが、その一方で、父の手帳のことを思い出した。心の奥に小さな疑念が浮かんでくる。父の事件について木村先生は何も言ったことがない。


(先生は何かを隠しているのではないか……?)


LVADの接続が難航した際、木村先生の表情が一瞬険しくなったことを思い出す。あの手術の間、木村先生は「何かを思い出しているような顔」をしていた。いや、今回のことだけではない。思い返せば手術中の表情…どうだっただろうか?


「木村先生」


「ん?」


「先生は……父と一緒に手術をしたことがありますか?」


木村先生の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。


「……そうだね。先生は僕の指導医だったからね」


「父の…最後の手術も参加されていたんですか?」


そう聞くと、木村先生はわずかに目を細め、何かを考えるように視線をそらした。


「……なんでそんなことを聞くのかな?」


「…なんとなく、そう思ったんです」


木村先生は表情を変えることなく、手術着を着替えている。そして、ふっと息をはき苦笑したが、すぐに口を引き結んだ。


「あの手術……僕は、確かにその場にいたよ」


颯太の心臓が、大きく跳ねる。


「……本当ですか?」


「でも、神崎君が知りたいことの全てを、僕が話せるわけじゃない」


「それは……」


「君は優秀な医者だよ。あの事件は…君にも僕にも…覚悟が必要になるから…。また今度ね」


木村先生はまるで試すような目で颯太を見つめた。


「さて、西村君の術後管理はお願いしてもいいかい?」


「……はい」


「術後管理は重要だよ。そっちを疎かにしてまで、過去を掘り返すようなら、それこそ神崎航太郎の息子失格だよ」


その言葉に、颯太の拳が強く握られる。


「……わかりました」


確かに、今は西村聖の術後管理が最優先だ。


(……でも、先生が言ったことを、簡単に流すことはできない)


そう思いながら、颯太は静かに頭を下げた。


「ICUに行ってきます」


「うん。そうしてくれるかな。僕は家族への説明と記録をしてから行くから」


木村先生の言葉を背に受けながら、颯太はICUへと向かった。

手術の成功は確かだった。しかし、LVADを植え込んだ患者にとって、本当の戦いはここから始まる。

術後の管理次第では、致命的な合併症が発生する可能性もある。

感染症、血栓、右心不全、ポンプの流量異常……どれも見逃せない問題だった。

颯太は一度、深く息を吸い、静かにICUのドアを押し開けた。


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