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第7話

緊迫した空気の中、病院の静けさを破るように西村聖を乗せたストレッチャーが第一手術室に運び込まれた。第一手術室の空気は、張り詰めた緊張感に包まれていた。術衣に身を包み、手を清めた颯太は、深く息を吸い込んで手術台に向かう。目の前には、全身麻酔で眠っている西村聖。



麻酔の導入は順調だが、心機能は低下したまま。時間との勝負になる。

室内にはすでに麻酔科医、心臓外科スタッフ、看護師たちが待機している。


「患者の血圧75/40、心拍数110、酸素飽和度92%!ノルアドレナリン維持!」


「PCPS(経皮的心肺補助装置)のフローは?」


「はい、問題ありません!」


颯太は目の前の光景を見ながら、手術の流れを頭に思い浮かべる。LVAD(左室補助人工心臓)の植え込みは決して簡単な手術ではない。心臓の左室にポンプを接続し、大動脈に血液を送り出す機械を埋め込む。弱っている心臓の扱いにも、拡張している心筋の状態にも注意しなければいけない。


「麻酔導入開始します」


麻酔科医の声とともに、静脈ラインから麻酔薬が投与される。もうろうとしていた西村の意識がゆっくりと遠のいていく。


「気管挿管完了」


人工呼吸器が作動し、彼の呼吸をサポートする。


「心肺停止リスクがあるから、人工心肺装置の準備もしておいて」


木村先生が低く指示を飛ばす。木村先生の声にスタッフがすぐに反応する。


「開胸準備、整いました!」


手術看護師が声を上げると、颯太は鋼の決意を持ってメスを手に取った。木村先生と目線を合わせ、頷く。そっと颯太の横に幽霊の真田先生がたつ。


「颯太、落ち着いていこう」


颯太は真田先生の言葉にゆっくりと頷いた。


「さぁ。はじめよう」


木村先生の号令とともに、LVAD植え込み手術が始まった。


「開胸に入る。」


木村先生の手元がぶれることなく、正中切開が行われた。


「胸骨鋸(ストーナーソー)」


鋭い音を立てながら、胸骨が切り開かれていく。


「開胸鉗子」


開胸器(リブスプレッダー)がセットされると、ゆっくりと胸郭が広がり、眼前に、西村の心臓が現れた。広がった胸郭の奥にある心臓は、異様なほど膨張していた。


「……やはり、かなり拡張しているな」


真田先生が低く呟く。颯太も、目の前の異様な光景に息をのんだ。心臓は思ったよりも進行しているようだ。左室が極端に拡大し、壁は薄くなりすぎている。動きは鈍く、血液をうまく押し出せていない。大動脈と肺動脈の拍動も弱い。


「エコープローブを」


頷きながら、颯太は心エコーを操作した。モニターに映し出された映像は、彼の不安を裏付けるものだった。


「左室駆出率(EF)、14%。ポンプ機能はほとんど働いていません」


「……この状態では、時間の問題だったな」


真田先生が小さくうなる。颯太もそれを木村先生に伝えるべく、呟く。


「ぎりぎりでしたね…」


「そうだね…ここまでとは…」


木村先生の声が、わずかに硬くなる。


「心房の拡大も顕著ですね。大動脈弁も僅かに逆流しています」


「心移植が望ましいけど…ドナー待機は時間がかかりますよね。今できることは…」


「LVAD(左室補助人工心臓)の適応で間違いないね」


左室のポンプ機能が崩壊しかけているこの状態では、LVADの植え込み以外に生きる道はない。


「左室補助人工心臓(LVAD)の植え込みに移ろう」


木村先生の言葉とともに、次の工程へと進む。開胸された胸腔の奥に、膨張しきった左心室が横たわっている。薄く脆弱な心筋、低下した収縮力——それが西村聖の心臓の現実だった。この心臓は、もはや自力では全身へ血液を送ることができない。唯一の希望は、LVAD(左室補助人工心臓)の植え込みだ。


「ポンプとカニューレを準備して」


木村先生の声が手術室に響く。助手が素早くLVADデバイスと血流カニューレを手渡す。

LVADのポンプを機能させるには、心臓の左室から血液を取り出し、大動脈へ送り出す流路を作らなければならない。つまり、左室にポンプの流入口(インレットカニューレ)を設置するのが最初のステップだ。


「左室の心尖部を開くよ」


慎重に心臓の心尖部へメスが入る。しかし、ここで問題が発生した。心筋が予想以上に脆弱だったのだ。


「……壁が思ったよりも薄いな…」


真田先生の声が固くなった。颯太も、もちろん木村先生も感じているのだろう。木村先生が眉を寄せる。拡張型心筋症の患者では、左室壁の菲薄化が進行していることが多い。

通常ならば強固な心筋があるはずの部位が、柔らかく、縫合に耐えられるのか不安なほどだった。


「このままだと、ポンプの固定時に破裂のリスクがあるね」


その時、真田先生が颯太の耳元で囁く。


「強化パッチがいいだろう。颯太」


「はい。強化パッチを使いましょう。心膜片で補強してから固定すれば、負荷を分散できます」


「そうだね。そうしよう」


心膜パッチを用い、カニューレを挿入する部分を慎重に補強する。通常よりも手間がかかるが、これを怠れば手術中に左室が破裂する可能性すらある。パッチの固定を終えた後、再びカニュレーションを試みる。


「カニューレ挿入……よし、流入経路確保」


心尖部を通じて、ポンプへと流れる血液のルートが確保された。次に、左室からポンプへ流れた血液を、大動脈へ送り出すためのアウトレットカニューレを設置する。


「上行大動脈のクランプ準備」


大動脈の一部をクランプ(血流を遮断)し、カニューレを接続するスペースを作る。


「切開部、慎重に進めよう」


しかし、大動脈の壁が硬化している。通常ならばスムーズにカニュレーションできるはずの部位が、動脈硬化によって脆くなっており、縫合が難しい。無理に縫合すれば血管が破れ大量出血の可能性がある。


「……予想よりも脆いな。弁膜症の影響かもね」


「そうですね…。動脈壁の石灰化が進んでいるようです。通常の縫合だと裂ける可能性があります」


木村先生が一瞬考え、言った。


「補強リングを使おうか。アウトレット部を保護しながらカニューレを設置しよう」


すぐに補強リングが準備され、慎重に縫合が進められる。


「……カニューレ固定、完了」


カニューレが安定し、血流経路が確保された。すべてのカニュレーションが終わり、いよいよポンプの作動準備に入る。


「人工心肺、低流量で回すよ。LVAD、試験作動開始」


補助循環が必要最小限に設定される。心臓が完全にLVADへ依存する前に、ポンプの流量を微調整する必要がある。


「流量上昇……フロー2.5L/min……」


モニターが示す数値が徐々に安定する。しかし——


「まずいな…。肺動脈圧、上昇しています」


「左房圧が高い……血流が肺に滞っているかもね。」


この状態が続けば、肺水腫を引き起こす可能性がある。


「左房への負担を減らさないと……」


木村先生が指示を出す。


「PCPSの流量を少し下げて、心房圧を下げよう」


調整を続けること数分——


「よし、LVADの流量が安定した」


「心拍出量、4.2L/min……数値は問題なし」


モニターの波形が安定し、血圧が徐々に回復してきた。全身への血流が改善し、ついに心不全状態が脱した瞬間だった。


「……よかった」


木村先生が静かに言う。だが、油断はできない。LVADは、ただ埋め込んで終わりではない。LVADの流入・流出カニューレの固定が完了し、次はいよいよ血流の確保へと進む。

この工程が成功しなければ、LVADは機能しないのだ。


「ポンプ接続準備。人工心肺の流量を低下させながら、血流をLVADへ移行するよ」


木村先生の指示のもと、慎重に血流シフトが始まる。LVADは左心室から血液を吸い出し、大動脈へ送り出す機械だ。

そのため、まずは左室からスムーズに血流を取り出せるかを確認しなければならない。


「カニューレの流入圧をチェックします」



颯太は左室のカニューレを慎重に確認する。…異変なし。血液はスムーズにカニューレへと流れ込んでいる。


「流入血流、スムーズに確保。左室の虚脱なし」


木村先生が頷く。


「よし、このまま流量を維持して。次は流出カニューレのチェック」


次に、LVADから大動脈へ血液を送り出すルートを確認する。


「アウトレットの流量確認」


人工心肺の流量を徐々に低下させる。それと同時に、LVADポンプを稼働させ、血流をLVAD経由で大動脈へ送り出す。

しかし——


「流出圧が上昇しています」


颯太は、LVADのモニターに映る異常な数値に気づいた。


「何か詰まってるのか……?」


「アウトレットカニューレの位置を再確認してくれ」


カニューレの固定部分を確認すると、わずかに折れ曲がりが生じていることが判明。このままでは血流がスムーズに流れない。わずかな折れ曲がりでさえ、命を奪うことだってあるのだ。


「再固定が必要だな……」


「カニューレを調整します。再縫合するので、流量を一時的に低下させてください」


人工心肺の出力を一時的に落とし、大動脈カニューレをわずかに調整する。

1mm単位の修正作業。緊張が走る。


「……よし、再度流量チェック」


人工心肺の流量を戻し、LVADの流出血流を慎重に観察する。


「流出圧、正常化。大動脈血流、スムーズに流れています」


モニターの数値が安定した。


「よし、流路確保成功」


すべての接続が完了したが、まだ終わりではない。LVADの血流量の調整を行わなければ、血行動態が崩れてしまう。


「現在のフローは2.5L/min……」


LVADの流量は個々の患者に合わせて慎重に調整する必要がある。流量が少なすぎると心不全の悪化、多すぎると血圧上昇や左房圧上昇による肺水腫のリスクがある。


「肺動脈圧の上昇が少し見られるな……」


「左房圧が高くなってる。左室からの流入量が過剰か?」


「ポンプ出力を0.2L/min下げて、バランスを見よう」


調整後、数分間観察——


「肺動脈圧、正常範囲に収まった。血圧安定」


すべての数値が落ち着き、LVADが正しく機能し始めた。


「人工心肺(PCPS)をゆっくりオフに」


PCPSを徐々に停止し、心臓の動きとLVADの血流を完全に切り替える。


「心拍出量(CO) 4.2L/min。安定しています」


LVADが完全に機能し、心臓のポンプを補助していることが確認された。


「このまま5分間、安定するか経過を見るよ」


手術室の中が、張り詰めた静寂に包まれる。数分後——


「血圧 110/60mmHg、心拍数 85、肺動脈圧 25mmHg、血流安定」


「……よし、これで血流確保完了」


木村先生の声には、わずかな安堵がにじんでいた。


「ポンプ音は正常。駆動圧も安定」


LVADのシステム全体を最終確認する。異常なし。すべてが順調に作動している。手術はなんとか成功したが、終わりではない。手術は成功しても、術後の管理が生死を分けるのだから。


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