颯太は、深く息を吸い込み、次のページを開いた。
「4月13日」
──N君の手術は明日になった。
──黒沢、鷹野、木村が手術に入ることになった。
──N君は覚醒状態も悪い。
──動脈血酸素飽和度(SaO₂)は65%まで低下。体動が極端に減少。
──尿量も低下。腎機能への負担が懸念される。
──軽度の代謝性アシドーシスを認める。血ガス分析ではpH7.32、HCO₃19mEq/L。
──カテコラミンの投与でかろうじて循環を維持している状態。
──手術の適応は十分あるが、どこまで耐えられるかはわからない。
──それでも、やるしかない。
手帳に記された父の言葉は、これまで以上に張り詰めたものだった。
──"それでも、やるしかない。"
その一文に込められた、父の強い覚悟と、わずかに滲む迷いが痛いほど伝わってくる。
「……お兄さんの状態、想像以上に悪かったんですね」
血液ガスのデータを見ながら、颯太は低く呟いた。
酸素飽和度65%。心臓だけでなく、全身の臓器が限界に近づいていることを示す数値だ。
腎機能の低下、代謝性アシドーシス──血液が酸性に傾き始めている。これは、体が正常な代謝を維持できなくなりつつある証拠だった。
「この状態での手術……リスクはとてつもなく高いですね」
真田先生も、難しい表情で手帳を覗き込んでいる。
──この状態では、手術に耐えられる保証はない。
それでも父は、この手術に賭けたのだ。その時、ふと目に留まった名前があった。
『黒沢、鷹野、木村が手術に入ることになった』
「……え?」
目を疑った。
「……黒沢、鷹野、木村って……」
思わず、手帳の文字を指でなぞる。
「鷹野先生も、木村先生も、あの手術に入ってたんですね」
驚きを隠せずに呟くと、隣で真田先生も同じように目を見開いた。
「……本当だな。知らなかった」
彼は静かに頷いた。
「手術に入っていたのが黒沢先生だけじゃないとは思ってたけど……まさか、鷹野先生と木村先生まで……」
今まで、鷹野先生も木村先生も、この手術について何も話さなかった。
──まるで、関わりがなかったかのように。
それなのに、実際には彼らは手術チームの一員だった。
「なんで……?」
颯太は、急に体の芯が冷えるのを感じた。もし彼らが当時の手術の現場にいたのなら、何かを知っているはずだ。それなのに、なぜ今まで何も語らなかったのか。
──知られたくなかったから?
──それとも、隠さなければならない何かがあったのか?
「……真田先生、僕……今まで木村先生に、この手術のことを話したことないんです」
震える声でそう言うと、真田先生も目を細めた。
「俺もだ。木村先生がこの手術に入ってたなんて、一言も聞いたことがない」
「僕が父の…神埼航太郎の息子だって知っていて…なぜ話してくれなかったんでしょうか」
疑念が膨らんでいく。まるで、"知られたくなかったこと"があるかのように、沈黙を守っていたのではないか。
「……もしかして、木村先生、手術の真相を知っているんでしょうか?」
言葉にすると、それが現実味を増していく。木村先生の、あの柔らかい笑顔の奥に、何かを隠しているとしたら?もし、彼が知っていながら、何も言わずにいたのだとしたら?
胸の奥がざわつく。もしかしたら、颯太はずっと"大事な手がかり"を、目の前にしながら見落としていたのかもしれない。
──手術の真実は、まだ、すべてが明らかになったわけではない。この先のページにあるかもしれない。
心のどこかで、それを知ることへの怖さと、知りたいという欲求がせめぎ合っていた。そのせいか、喉がひどく渇いている。深く息を吸い、意を決して次のページをめくろうとした瞬間。
ブルルルッ
胸ポケットのPHSが震えた。突然の振動に、現実に引き戻される。
「……っ」
一瞬だけ、手帳を閉じる指が強張る。慌ててPHSを取り出し、手帳をバックの奥に片付けながら通話ボタンを押すと、受話口から声が聞こえてきた。
「救急外来です。救急要請が入りました。」
救急要請。それだけで、颯太の意識が一気に切り替わる。
旭光総合病院は、夜間の救急搬送を受け入れる体制が整っている。救急車が病院に到着すると、症例に応じて各科の夜勤医師が呼び出される仕組みだ。
つまり、颯太に直接連絡が入ったということは、搬送される患者は循環器疾患の可能性が高い。
「はい。循環器の神崎です」
「拡張型心筋症の患者が緊急搬送を求めています。対応できますか?」
拡張型心筋症。拡張型心筋症(DCM)は、心臓の筋肉が薄くなり、十分な血液を送り出せなくなる疾患だ。進行すると心不全を引き起こし、最悪の場合、突然の心停止につながることもある。
「かかりつけはどちらですか?」
「かかりつけはこの病院と言っています」
かかりつけ患者……。つまり、旭光総合病院で定期的に診察を受けている患者ということだ。
「……わかりました。対応します」
颯太がそう返すと、電話の向こうで救急外来の担当者が続けた。
「患者名、西村 聖(にしむら ひじり)、25歳男性。救急車は5分後に到着予定です」
「……西村 聖?」
その名前に、思わず目を見開いた。
西村 聖。間違いない。鷹野先生がかつて主治医を務め、現在は木村先生が担当している患者だ。心臓疾患で定期的に通院し、症状の悪化とともに薬物治療を続けていたはず……。
「了解しました。救急外来に向かいます」
通話を切ると同時に、手帳をバッグに片づける。真田先生も、鋭い視線でこちらを見ている。
「西村 聖って……木村先生の患者だよな?」
「はい、そうです。元々は鷹野先生が診ていましたが、途中で主治医が変わりました」
木村先生の名前が、またここで浮かび上がる。ついさっきまで読んでいた手帳には、木村先生が父の事件の手術チームにいたことが記されていた。そして今、木村先生が現在担当する患者が、急変し、救急搬送されようとしている。
「……偶然、ですよね?」
そう呟いたものの、自分でもそうは思えなかった。
何かが繋がっている気がする。
──手帳の内容と、木村先生の沈黙。
──手術の真相を知っている可能性。
──そして、現在の木村先生の患者が今、搬送されてくる偶然。
すべてが、何かに導かれるようにリンクしているように思えた。けれど、今は考えている時間はない。救急車に乗った患者が5分後に到着するのだから。
「とにかく、行かなくちゃ」
颯太はPHSをポケットにしまい、医局を飛び出した。
廊下を駆け抜けながら、頭の中で西村の病歴を整理する。拡張型心筋症(DCM)は心臓の収縮機能が低下し、血液を全身に送り出せなくなる進行性の疾患。薬物療法で管理していたが、最近は症状が悪化し、補助循環装置(LVAD)の適応が検討されていたはずだ。
「まさか、急性心不全か……?」
一抹の不安が胸をよぎる。救急車搬送口に向かいながら木村先生に電話をかける。
「もしもし」
数コールののち、木村先生が電話に出た。
「救急要請です。西村聖さんが来られるようです」
「西村さん…わかった。すぐに向かうね」
木村先生の声がピリッと張り詰めたものになる。電話を切って、病院職員専用のエレベーターに乗って一階へ向かう。
救急外来に到着すると、すでに受け入れの準備が進められていた。ストレッチャーを押す看護師たち、医療機器をセットする救急医たちの間を縫うようにして、颯太は受け入れスペースへ向かった。
その時、救急外来の自動ドアが開き、救急隊員が担架を押しながら駆け込んできた。
「西村聖さん、25歳、男性!拡張型心筋症の既往あり!呼吸困難を訴え、搬送要請!」
患者の顔を見た瞬間、颯太の胸がざわついた。西村の顔色は蒼白で、荒い呼吸を繰り返している。意識はあるものの、朦朧としており、額には冷や汗がにじんでいた。
「血圧は?」
「到着時、90/50mmHg。酸素飽和度85%。強い息切れあり!」
「心電図は?」
「頻脈性不整脈を認めます」
状況は深刻だった。
「すぐにモニター装着!血液ガス採取!酸素投与10L開始!」
指示を出しながら、颯太は西村の腕に触れた。その瞬間、彼の目がゆっくりと開き、弱々しい声が漏れた。
「……せん、せい……」
「大丈夫です。僕がいます。木村先生もいます」
颯太は彼の手を握りながら頷いた。絶対に助ける、と光を瞳に宿しながら。
その時、後ろから駆け寄る足音が聞こえた。振り向くと、そこには木村先生の姿があった。
「神崎先生、遅くなってごめんね。状態は?」
「心不全の急性増悪です!おそらくショック状態に近いと。集中治療が必要です!」
木村先生は一瞬、西村を見つめた後、颯太に目を向け、短く頷いた。
「よし、集中治療室(CCU)へ運ぶよ!」
木村先生の力強い声が響く。
颯太はすぐに頷き、ストレッチャーの側へ駆け寄った。西村聖の状態は明らかに悪化している。酸素投与にもかかわらず息苦しさを訴え、皮膚は青白く、汗でびっしょり濡れていた。
「血圧、80/45mmHg!心拍数120!」
看護師が緊張した声で報告する。
「急速輸液を開始!ノルアドレナリン少量投与!」
「はい!」
西村の状態を安定させるため、看護師が素早く点滴をセットする。
「意識レベルは?」
「JCS 2桁、ややもうろうとしています」
「低灌流の兆候が強い……このままだとショック状態に陥るな…」
木村先生の表情が険しくなる。
「CCU(集中治療室)に着いたら直ちに経皮的心肺補助装置(PCPS)を検討しよう。神崎先生、エコーで左室の動きを確認して!」
「わかりました!」
颯太は素早くポータブルエコーを取り、プローブを西村の胸に当てた。モニターに映る心臓は、拡張しきっており、収縮力はほぼ失われている。
「左室駆出率(EF)15%以下……ほとんど血液を送り出せていません」
「やはり左室補助人工心臓(LVAD)の適応だな…」
木村先生が言い切った。
「このままでは数時間も持たない……」
西村の病状を考えれば、LVADの植え込み手術が最善の選択肢だ。だが、これは一刻を争う状況。準備を急がなければならない。
「CCUで循環管理を行いながら、すぐに手術準備を進めよう!」
ストレッチャーを押しながら、颯太は手術の過程を頭に思い浮かべる。
「はい!」
CCU(集中治療室)に到着すると、すぐにスタッフが動き出した。颯太と木村先生はストレッチャーを押しながら、看護師たちに指示を出す。
「すぐにモニター装着!血液ガス分析、採血、電解質チェック!」
「バイタル確認!血圧75/40mmHg、心拍数110!」
「心電図、頻脈あり!心不全の悪化は明らかです!」
循環動態が不安定なままでは手術に耐えられない。まずは経皮的心肺補助装置(PCPS)の導入を急がなければならない。
「PCPS準備!カテーテルを挿入する!看護師は輸液管理を!」
「はい!」
看護師たちは手際よく動き、補助循環装置の準備を整える。一方、颯太はエコーを確認しながら、左室の収縮が著しく低下していることを再確認した。
「やはり左室駆出率(EF)は15%以下……このままではポンプ機能が破綻します」
「すぐにLVADの植え込み手術を行おう」
木村先生が険しい表情で言った。LVAD(左室補助人工心臓)の植え込み手術。
これが成功すれば、西村は心不全の危機を脱することができるかもしれない。
「手術室の確保は?」
「第一手術室が空いています!すぐに準備可能です!」
「心臓血管外科のスタッフを招集!麻酔科にも連絡!」
「了解しました!」
CCU内は緊迫した空気に包まれる。西村の状態でのこの手術の成功率は決して高くない。それでも、やらなければ彼の命は助からないのは明らかだ。
「神崎先生、患者の家族には?」
「時間がないので、今から電話で説明します」
「わかった。お願いね」
家族の同意が必要だ。しかし、時間はない。颯太はPHSを取り出し、西村の家族に連絡を取る。
「西浦聖さんのご家族のお電話でしょうか?」
「はい。そうです。聖は…聖は大丈夫でしょうか?」
「僕は神崎と申します。旭光総合病院の心臓外科の医師です」
「先生……息子は……」
「現在、集中治療室で治療を行っています。ただ、状態は非常に厳しく、このままでは心臓が持ちません」
「そ、そんな……」
「唯一の方法は、左室補助人工心臓(LVAD)を植え込む手術です」
「……その手術をすれば、聖は助かるんですか?」
「はい。ただし、これは一時的な措置です。以前から木村先生がお伝えしている通り、最終的には心臓移植が必要になります」
母親の声が震えているのがわかる。颯太は言葉を慎重に選んだ。患者にとって医師の言葉は想像以上に重い。
「でも、手術をしなければ、命を救うことはできません」
「……お願いします。どうか、聖を助けてください」
「はい。全力で…。すぐに準備を進めます。病院に到着したらスタッフに声をかけてください」
颯太はPHSを切ると、木村先生に向き直った。
「家族の同意、得られました!」
「神崎君…さすがだね。すぐにオペ室へ移送しよう!」
「はい!」
ストレッチャーを押しながら、颯太の心は高鳴っていた。父の…医師、神崎航太郎の手帳を見たからだろうか。これまでで一番頭がさえている。
「西村さん、絶対に助けます」
颯太はそう誓いながら、手術室へと駆け込んだ。