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第6話

颯太は、深く息を吸い込み、次のページを開いた。


「4月13日」

──N君の手術は明日になった。

──黒沢、鷹野、木村が手術に入ることになった。

──N君は覚醒状態も悪い。

──動脈血酸素飽和度(SaO₂)は65%まで低下。体動が極端に減少。

──尿量も低下。腎機能への負担が懸念される。

──軽度の代謝性アシドーシスを認める。血ガス分析ではpH7.32、HCO₃19mEq/L。

──カテコラミンの投与でかろうじて循環を維持している状態。

──手術の適応は十分あるが、どこまで耐えられるかはわからない。

──それでも、やるしかない。


手帳に記された父の言葉は、これまで以上に張り詰めたものだった。

──"それでも、やるしかない。"

その一文に込められた、父の強い覚悟と、わずかに滲む迷いが痛いほど伝わってくる。


「……お兄さんの状態、想像以上に悪かったんですね」


血液ガスのデータを見ながら、颯太は低く呟いた。

酸素飽和度65%。心臓だけでなく、全身の臓器が限界に近づいていることを示す数値だ。

腎機能の低下、代謝性アシドーシス──血液が酸性に傾き始めている。これは、体が正常な代謝を維持できなくなりつつある証拠だった。


「この状態での手術……リスクはとてつもなく高いですね」


真田先生も、難しい表情で手帳を覗き込んでいる。

──この状態では、手術に耐えられる保証はない。

それでも父は、この手術に賭けたのだ。その時、ふと目に留まった名前があった。


『黒沢、鷹野、木村が手術に入ることになった』


「……え?」


目を疑った。


「……黒沢、鷹野、木村って……」


思わず、手帳の文字を指でなぞる。


「鷹野先生も、木村先生も、あの手術に入ってたんですね」


驚きを隠せずに呟くと、隣で真田先生も同じように目を見開いた。


「……本当だな。知らなかった」


彼は静かに頷いた。


「手術に入っていたのが黒沢先生だけじゃないとは思ってたけど……まさか、鷹野先生と木村先生まで……」


今まで、鷹野先生も木村先生も、この手術について何も話さなかった。

──まるで、関わりがなかったかのように。

それなのに、実際には彼らは手術チームの一員だった。


「なんで……?」


颯太は、急に体の芯が冷えるのを感じた。もし彼らが当時の手術の現場にいたのなら、何かを知っているはずだ。それなのに、なぜ今まで何も語らなかったのか。

──知られたくなかったから?

──それとも、隠さなければならない何かがあったのか?


「……真田先生、僕……今まで木村先生に、この手術のことを話したことないんです」


震える声でそう言うと、真田先生も目を細めた。


「俺もだ。木村先生がこの手術に入ってたなんて、一言も聞いたことがない」


「僕が父の…神埼航太郎の息子だって知っていて…なぜ話してくれなかったんでしょうか」


疑念が膨らんでいく。まるで、"知られたくなかったこと"があるかのように、沈黙を守っていたのではないか。


「……もしかして、木村先生、手術の真相を知っているんでしょうか?」


言葉にすると、それが現実味を増していく。木村先生の、あの柔らかい笑顔の奥に、何かを隠しているとしたら?もし、彼が知っていながら、何も言わずにいたのだとしたら?

胸の奥がざわつく。もしかしたら、颯太はずっと"大事な手がかり"を、目の前にしながら見落としていたのかもしれない。

──手術の真実は、まだ、すべてが明らかになったわけではない。この先のページにあるかもしれない。

心のどこかで、それを知ることへの怖さと、知りたいという欲求がせめぎ合っていた。そのせいか、喉がひどく渇いている。深く息を吸い、意を決して次のページをめくろうとした瞬間。


ブルルルッ


胸ポケットのPHSが震えた。突然の振動に、現実に引き戻される。


「……っ」


一瞬だけ、手帳を閉じる指が強張る。慌ててPHSを取り出し、手帳をバックの奥に片付けながら通話ボタンを押すと、受話口から声が聞こえてきた。


「救急外来です。救急要請が入りました。」


救急要請。それだけで、颯太の意識が一気に切り替わる。

旭光総合病院は、夜間の救急搬送を受け入れる体制が整っている。救急車が病院に到着すると、症例に応じて各科の夜勤医師が呼び出される仕組みだ。

つまり、颯太に直接連絡が入ったということは、搬送される患者は循環器疾患の可能性が高い。


「はい。循環器の神崎です」


「拡張型心筋症の患者が緊急搬送を求めています。対応できますか?」


拡張型心筋症。拡張型心筋症(DCM)は、心臓の筋肉が薄くなり、十分な血液を送り出せなくなる疾患だ。進行すると心不全を引き起こし、最悪の場合、突然の心停止につながることもある。


「かかりつけはどちらですか?」


「かかりつけはこの病院と言っています」


かかりつけ患者……。つまり、旭光総合病院で定期的に診察を受けている患者ということだ。


「……わかりました。対応します」


颯太がそう返すと、電話の向こうで救急外来の担当者が続けた。


「患者名、西村 聖(にしむら ひじり)、25歳男性。救急車は5分後に到着予定です」


「……西村 聖?」


その名前に、思わず目を見開いた。

西村 聖。間違いない。鷹野先生がかつて主治医を務め、現在は木村先生が担当している患者だ。心臓疾患で定期的に通院し、症状の悪化とともに薬物治療を続けていたはず……。


「了解しました。救急外来に向かいます」


通話を切ると同時に、手帳をバッグに片づける。真田先生も、鋭い視線でこちらを見ている。


「西村 聖って……木村先生の患者だよな?」


「はい、そうです。元々は鷹野先生が診ていましたが、途中で主治医が変わりました」


木村先生の名前が、またここで浮かび上がる。ついさっきまで読んでいた手帳には、木村先生が父の事件の手術チームにいたことが記されていた。そして今、木村先生が現在担当する患者が、急変し、救急搬送されようとしている。


「……偶然、ですよね?」


そう呟いたものの、自分でもそうは思えなかった。

何かが繋がっている気がする。


──手帳の内容と、木村先生の沈黙。

──手術の真相を知っている可能性。

──そして、現在の木村先生の患者が今、搬送されてくる偶然。


すべてが、何かに導かれるようにリンクしているように思えた。けれど、今は考えている時間はない。救急車に乗った患者が5分後に到着するのだから。


「とにかく、行かなくちゃ」


颯太はPHSをポケットにしまい、医局を飛び出した。

廊下を駆け抜けながら、頭の中で西村の病歴を整理する。拡張型心筋症(DCM)は心臓の収縮機能が低下し、血液を全身に送り出せなくなる進行性の疾患。薬物療法で管理していたが、最近は症状が悪化し、補助循環装置(LVAD)の適応が検討されていたはずだ。


「まさか、急性心不全か……?」


一抹の不安が胸をよぎる。救急車搬送口に向かいながら木村先生に電話をかける。


「もしもし」


数コールののち、木村先生が電話に出た。


「救急要請です。西村聖さんが来られるようです」


「西村さん…わかった。すぐに向かうね」


木村先生の声がピリッと張り詰めたものになる。電話を切って、病院職員専用のエレベーターに乗って一階へ向かう。

救急外来に到着すると、すでに受け入れの準備が進められていた。ストレッチャーを押す看護師たち、医療機器をセットする救急医たちの間を縫うようにして、颯太は受け入れスペースへ向かった。

その時、救急外来の自動ドアが開き、救急隊員が担架を押しながら駆け込んできた。


「西村聖さん、25歳、男性!拡張型心筋症の既往あり!呼吸困難を訴え、搬送要請!」


患者の顔を見た瞬間、颯太の胸がざわついた。西村の顔色は蒼白で、荒い呼吸を繰り返している。意識はあるものの、朦朧としており、額には冷や汗がにじんでいた。


「血圧は?」


「到着時、90/50mmHg。酸素飽和度85%。強い息切れあり!」


「心電図は?」


「頻脈性不整脈を認めます」


状況は深刻だった。


「すぐにモニター装着!血液ガス採取!酸素投与10L開始!」


指示を出しながら、颯太は西村の腕に触れた。その瞬間、彼の目がゆっくりと開き、弱々しい声が漏れた。


「……せん、せい……」


「大丈夫です。僕がいます。木村先生もいます」


颯太は彼の手を握りながら頷いた。絶対に助ける、と光を瞳に宿しながら。

その時、後ろから駆け寄る足音が聞こえた。振り向くと、そこには木村先生の姿があった。


「神崎先生、遅くなってごめんね。状態は?」


「心不全の急性増悪です!おそらくショック状態に近いと。集中治療が必要です!」


木村先生は一瞬、西村を見つめた後、颯太に目を向け、短く頷いた。


「よし、集中治療室(CCU)へ運ぶよ!」


木村先生の力強い声が響く。

颯太はすぐに頷き、ストレッチャーの側へ駆け寄った。西村聖の状態は明らかに悪化している。酸素投与にもかかわらず息苦しさを訴え、皮膚は青白く、汗でびっしょり濡れていた。


「血圧、80/45mmHg!心拍数120!」


看護師が緊張した声で報告する。


「急速輸液を開始!ノルアドレナリン少量投与!」


「はい!」


西村の状態を安定させるため、看護師が素早く点滴をセットする。


「意識レベルは?」


「JCS 2桁、ややもうろうとしています」


「低灌流の兆候が強い……このままだとショック状態に陥るな…」


木村先生の表情が険しくなる。


「CCU(集中治療室)に着いたら直ちに経皮的心肺補助装置(PCPS)を検討しよう。神崎先生、エコーで左室の動きを確認して!」


「わかりました!」


颯太は素早くポータブルエコーを取り、プローブを西村の胸に当てた。モニターに映る心臓は、拡張しきっており、収縮力はほぼ失われている。


「左室駆出率(EF)15%以下……ほとんど血液を送り出せていません」


「やはり左室補助人工心臓(LVAD)の適応だな…」


木村先生が言い切った。


「このままでは数時間も持たない……」


西村の病状を考えれば、LVADの植え込み手術が最善の選択肢だ。だが、これは一刻を争う状況。準備を急がなければならない。


「CCUで循環管理を行いながら、すぐに手術準備を進めよう!」


ストレッチャーを押しながら、颯太は手術の過程を頭に思い浮かべる。


「はい!」


CCU(集中治療室)に到着すると、すぐにスタッフが動き出した。颯太と木村先生はストレッチャーを押しながら、看護師たちに指示を出す。


「すぐにモニター装着!血液ガス分析、採血、電解質チェック!」


「バイタル確認!血圧75/40mmHg、心拍数110!」


「心電図、頻脈あり!心不全の悪化は明らかです!」


循環動態が不安定なままでは手術に耐えられない。まずは経皮的心肺補助装置(PCPS)の導入を急がなければならない。


「PCPS準備!カテーテルを挿入する!看護師は輸液管理を!」


「はい!」


看護師たちは手際よく動き、補助循環装置の準備を整える。一方、颯太はエコーを確認しながら、左室の収縮が著しく低下していることを再確認した。


「やはり左室駆出率(EF)は15%以下……このままではポンプ機能が破綻します」


「すぐにLVADの植え込み手術を行おう」


木村先生が険しい表情で言った。LVAD(左室補助人工心臓)の植え込み手術。

これが成功すれば、西村は心不全の危機を脱することができるかもしれない。


「手術室の確保は?」


「第一手術室が空いています!すぐに準備可能です!」


「心臓血管外科のスタッフを招集!麻酔科にも連絡!」


「了解しました!」


CCU内は緊迫した空気に包まれる。西村の状態でのこの手術の成功率は決して高くない。それでも、やらなければ彼の命は助からないのは明らかだ。


「神崎先生、患者の家族には?」


「時間がないので、今から電話で説明します」


「わかった。お願いね」


家族の同意が必要だ。しかし、時間はない。颯太はPHSを取り出し、西村の家族に連絡を取る。


「西浦聖さんのご家族のお電話でしょうか?」


「はい。そうです。聖は…聖は大丈夫でしょうか?」


「僕は神崎と申します。旭光総合病院の心臓外科の医師です」


「先生……息子は……」


「現在、集中治療室で治療を行っています。ただ、状態は非常に厳しく、このままでは心臓が持ちません」


「そ、そんな……」


「唯一の方法は、左室補助人工心臓(LVAD)を植え込む手術です」


「……その手術をすれば、聖は助かるんですか?」


「はい。ただし、これは一時的な措置です。以前から木村先生がお伝えしている通り、最終的には心臓移植が必要になります」


母親の声が震えているのがわかる。颯太は言葉を慎重に選んだ。患者にとって医師の言葉は想像以上に重い。


「でも、手術をしなければ、命を救うことはできません」


「……お願いします。どうか、聖を助けてください」


「はい。全力で…。すぐに準備を進めます。病院に到着したらスタッフに声をかけてください」


颯太はPHSを切ると、木村先生に向き直った。


「家族の同意、得られました!」


「神崎君…さすがだね。すぐにオペ室へ移送しよう!」


「はい!」


ストレッチャーを押しながら、颯太の心は高鳴っていた。父の…医師、神崎航太郎の手帳を見たからだろうか。これまでで一番頭がさえている。


「西村さん、絶対に助けます」


颯太はそう誓いながら、手術室へと駆け込んだ。


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