颯太はゆっくりと深呼吸をし、父の手帳を開いた。
隣では、真田先生が無言でじっとその動きを見つめている。彼の表情は普段の穏やかなものではなく、どこか張り詰めたものに変わっていた。
ページをめくり、目的の箇所を探す。
──あった。
「4月10日」
整然と並ぶ文字は、迷いのない筆致で書かれている。それなのに、読もうとするたびに、ページ全体が妙に重たく感じられる。
「4月10日」
──N君の検査結果がそろった。
やはり、重度の状態だ。
〈検査結果〉
・動脈血酸素飽和度(SaO₂):68%(正常値 95~100%)
・右心室肥大(RVH):著明
・肺動脈狭窄:圧較差 80mmHg(重度)
・大動脈の騎乗率:約50%
・心室中隔欠損(VSD):9mm(極めて大きい)
・心拍出量(CO):3.2 L/min(低下傾向)
──やはり、状態は深刻だ。
このままでは、長くはもたない。
──明日は循環器チームでカンファレンスを行う。
どの手術方法が最適か、慎重に検討しなければならない。
読み終えた瞬間、静寂が落ちた。真田先生がわずかに息をはいた。
彼は、一度視線を落とし、手帳の記述をもう一度じっと見つめる。その目は、どこか遠くを見つめているようだった。
「……ひどい状態だったんだな」
低く抑えた声が、静かな医局の中に響く。その言葉の裏には、さまざまな感情が入り混じっていた。
「当時、俺はまだ小さかった。検査結果なんて、何もわからなかった。ただ、兄がどんどん弱っていく……それだけが、俺が知っている真実だった」
目の前に並ぶ数値が、ただの文字の羅列ではないことを、今は理解できる。医者となった今だからこそ、この検査結果が何を意味するのかが痛いほどわかるのだろう。
「肺動脈狭窄の圧較差が80mmHg……これだけでも、どれだけ血流が滞っていたかがわかる。動脈血酸素飽和度は68%。酸素が全然足りていない」
真田先生は、ゆっくりと目を閉じた。
「兄は……いつも息苦しそうにしていた。歩くこともできず、それでも無理して笑っていた。母さんの前では、元気なふりをしようとしてたんだ。話すのも笑うのも…苦しかっただろう」
その言葉を聞きながら、颯太は目の前の手帳の文字を見つめたまま、指先に力を込めた。
──N君は人生に絶望している。生きることをあきらめている。
──自分がいたら家族に迷惑をかけるばかりだと泣いていた。
──抱きしめた。N君が颯太と重なった。
父が手帳に残した言葉が、また胸の奥で重く響く。
「……先生」
口を開いたが、それ以上の言葉が出てこなかった。何を言えばいいのか、何が正しいのか──わからない。けれど、今、父の手帳が明かすこの事実が、真田先生にとっても決して"過去のこと"ではないことだけは、痛いほど伝わってきた。
颯太は、手帳を持つ手にわずかに力を込め、次のページへと指を伸ばした。
今、このページを開けば、きっと"決定的な何か"を知ることになる。
しかし、それを知ったところで、自分は受け止めきれるのだろうか。
──いや、それよりも。
目の前で兄を亡くした真田先生はどうだろう。当事者である彼は、今ここで兄の最期の記録を目にする覚悟ができているのか。ページの端に指をかけたまま、颯太はふと真田先生を横目で見た。彼の表情は、驚くほど静かだった。けれど、指先が微かに震えている。それを見た瞬間、颯太の胸がぎゅっと締めつけられた。
──怖いのは、自分だけじゃない。
──真田先生も、きっと、同じだ。
それでも、二人ともここまで来てしまった。すべてを知るのが怖いからといって、今さらページを閉じることはできない。ただ、もう少しだけ、ほんの少しだけ、ためらってしまう。
──めくるべきか。
──それとも、まだ少しだけ待つべきか。
そんな迷いが手元に残ったまま、指が動かなくなった。その時、ふいに隣から小さな息が漏れるのが聞こえた。
「……いい。気にしなくていいから、次にいこう」
不意にかけられたその言葉に、颯太は驚き、指を止めたまま真田先生の顔を見た。彼は、微笑んでいた。けれど、それはいつもの柔らかい笑みではない。
どこか、ほんの少しだけ脆さを含んだ微笑だった。その奥には、間違いなく緊張と不安が滲んでいる。
──それでも、真田先生は進むつもりだ。
そう伝わってくる微笑みだった。
「……先生」
颯太が言葉を探している間に、真田先生は軽く肩をすくめる。
「怖いのは、お前だけじゃないさ。でもな、俺はもう……"これを知らないまま"は嫌なんだよ。それに…俺が成仏できないのはこのせいかもしれないからな」
どこか淡々とした声だった。
しかし、その静けさの裏には、長年抱えてきた喪失と後悔がにじんでいるように感じた。
「……」
「それに、お前も"ここで止まるつもり"はないんだろ?」
その言葉に、颯太は小さく息を吐いた。
──そうだ。
ここで止まるわけにはいかない。ページを閉じたところで、結局また開くことになる。だったら、迷う時間を少しでも短くした方がいい。
「……はい」
颯太は、ゆっくりと頷いた。そして、意を決して、次のページを開いた。
「4月11日」
──N君のカンファレンスを行う。
──予想通り、黒沢が猛反対してきた。
──院長も、N君の手術を当院で行うことは反対だと言った。
──しかし、責任はすべて俺が負うと言うと、しぶしぶ了承してくれた。
──なんとしても、N君を救いたい。
書かれていたのは、父の強い覚悟だった。病院全体がこの手術に否定的だったこと。
それでも父が、すべての責任を背負う覚悟で、西浦君を救おうとしていたこと。
文字を目で追うたびに、父の筆圧が強くなっているように感じられた。
──黒沢。
この名前は、どこかで聞いたことがあった。
「……黒沢」
無意識のうちに声に出すと、隣で手帳を覗き込んでいた真田先生が、ゆっくりと頷いた。
「黒沢先生は、循環器の医者で、俺がこの旭光総合病院に入職する前にどこかの医大の外部講師になって退職したはずだ。ああ…たしかに俺たち家族の前でも、手術は到底無理でしょうって平気でいうやつだったな…」
真田先生の声には、感情を押し殺すような響きがあった。
「院長も反対していたのか……?」
「……そうみたいですね。でも、父さんはそれを押し切った」
「責任はすべて俺が負う、か……」
小さな声で呟いた真田先生が、ふっと深く息を吐いた。
──幽霊なのに。
呼吸などないはずの彼が、あたかも生きている人間のように、息を吐いたのを颯太は感じた。それは、単なる錯覚ではない。
「……先生」
そう呼びかけると、真田先生は一度目を閉じ、まるで考えを整理するように静かに唇を結んだ。
「……当時の俺は、本当に何も知らなかったんだな」
彼の声は、驚くほど静かだった。
「ただ、兄がどんどん弱っていくのを見ているだけだった。"大人たち"が何を話しているのかも、何が起こっているのかもわからなかった。ただ……兄が、日に日に衰弱していくのが、怖かったんだ」
「……」
「母さんが医者に縋る姿も、父さんが夜中に何かを話していたのも、覚えてる。でも、何を言っていたのか、何を考えていたのかは、子どもだった俺にはわからなかった。ただ……"助からない"って、心のどこかで悟っていた気がする」
静かに話す真田先生の表情は、普段とは違い、どこか影が差しているように見えた。
彼にとって、これは"過去のこと"ではなく、"今でも胸に残る記憶"なのだ。
「でも、こうして検査結果を見て……改めて、ひどい状態だったんだってわかる。天才外科医と言われた俺でも手術は躊躇しただろう」
手帳に記された数字を見つめながら、彼は呟くように言った。
「68%の酸素飽和度で、動くだけでも辛かっただろう。呼吸するだけでもしんどかったはずだ。なのに、俺の前では一度も"苦しい"って言わなかった……。俺に心配をかけないように、ずっと、ずっと無理してたんだな」
──それが、西浦君の"生き方"だったのかもしれない。
家族に迷惑をかけたくないと泣いた少年。
それでも最後まで、家族の前では弱音を吐かなかった少年。
「……手術の詳細は、この先に書いてあるんだな」
「たぶん……。まだ、読めますか?」
颯太の問いかけに、真田先生は一度目を閉じた。
「……ああ。ここまで来たんだ。最後まで読もう」
もう逃げることはできない。
この手帳には、二人が知るべき"真実"が詰まっている。
颯太は深く息を吸い、次のページへと手を伸ばした。
颯太はゆっくりとページをめくった。
「4月12日」
──手術はあさってになった。
空きが出れば明日にでも行う。
──N君に「先生、今までありがとうございました」なんて言われた。
──16歳の子に、ここまで言わせてしまうなんて……思わず泣いてしまった。
──泣いている俺の頭を撫でてくれた。
──N君は、やさしい子だ。
ページに並ぶ父の文字は、どこか揺れているように見えた。
最後の一行──「N君は、やさしい子だ。」
その言葉には、父の医者ではない感情がそのまま込められている気がした。静まり返る医局の中で、颯太は息を詰めながらその文字を見つめる。
──先生、今までありがとうございました。
その言葉が、父にとってどれほど重いものだったのか。
16歳の少年に、"別れの言葉"のようなことを言われてしまった父の気持ちは、どんなものだったのか。
きっと、どれだけ医者としての覚悟を持っていても、その言葉に耐えられるものではなかっただろう。だから、泣いたのだ。そして、泣いている父の頭を、西浦君が撫でた。
──16歳の、心臓に爆弾を抱えた少年が。
──助けてもらう側の患者が、助けようとする医者の涙を拭うように、頭を撫でたのだ。
その光景を思い浮かべただけで、胸が締めつけられる。静かな空気の中、隣にいる真田先生の肩が、小さく震えた。颯太は、あえて顔を上げなかった。
けれど、声を殺して泣いているのがわかった。
──当時を思い出したのだろう。
兄が、どんな言葉を紡いでいたのか。
兄が、どんな顔をしていたのか。
兄が、どれほどの強さを持っていたのかを。
「……兄は、昔から優しい人だった」
かすかに震えた声が、静寂を破るように響いた。
「母さんが疲れてると、そっと肩を揉んでた。父さんが仕事で帰れない日が続くと、俺に"大丈夫だよ"って言ってた。俺が転んで泣いたら、笑いながら"痛いの痛いの飛んでけ"って言ってくれたりしてな……。いつも誰かのために、強くあろうとしていたんだ」
その言葉の端々に、こらえきれない感情がにじんでいた。
"泣いている俺の頭をなでてくれた"
──その時、兄はどんな気持ちだったのだろうか。
もしかしたら、心のどこかで自分の運命を悟っていたのかもしれない。
それでも、目の前で泣いてしまった父を、ただの"患者"としてではなく、一人の人間として慰めようとしたのだろう。
16歳の少年が、自分の未来よりも、目の前の人の涙を拭おうとした。
それが、どれほど強く、そして悲しいことだったのか。
ページの上には、いくつものシミが残っていた。
最初に見た時から気になっていた。
このページの紙は、他のページと違って、ところどころ滲んでいた。
この手帳の他の部分には見られない、微細な水の痕が無数についていた。
──きっと、父も、この日のことを何度も思い出したのだろう。
ページを閉じても、瞼の裏にはその光景が焼き付いて離れなかったのだろうと想像がついた。
「……先生」
静かに声をかけると、真田先生は震える息を吐いた。
「……まだ、先があるんだろう?」
「……はい」
「なら、読もう。続きを」
涙をこらえたまま、彼はそう言った。
──この手帳の最後に何が書かれているのか。
父が、本当に何を思っていたのか。
真田先生が、目をそらさずにいようとするのなら、颯太も覚悟を決めなければならない。
もう、引き返すことはできない。
颯太は、再び手帳の端に指をかけた。
そして、次のページをめくった。