ナースステーションに向かう途中、颯太は白衣のポケットに入れたPHSを無意識に触れていた。夜勤に入る前のこの静かな時間は、一見穏やかに思えるが、実際には戦闘準備の時間でもある。
循環器病棟のナースステーションに着くと、すでに夜勤の看護師たちが各自の業務に取り掛かっていた。モニターの警告音が微かに響き、カルテをめくる音が規則的に聞こえてくる。
「神崎先生、お疲れさまです」
「お疲れさまです。申し送りノート、確認しますね」
看護師からの挨拶を軽く返しながら、申し送りノートを開いた。
そこには、日勤帯での患者の変化や、注意すべき症状の記録、翌朝までの対応が必要な点などが細かく記されている。
──心不全の悪化傾向がある患者の夜間管理、利尿薬の追加投与の判断。
──手術後の患者の排液量とドレーン管理。
──新たに入院した患者の不安が強く、夜間の声掛けが必要。
一つずつ目を通しながら、次に自分が主治医を務めている患者の電子カルテを開いた。
──退院に向けたリハビリ調整中の60代男性。日中のリハビリは問題なく実施。
──弁膜症の手術を受けたばかりの40代女性。術後経過は順調だが、夜間の血圧低下に注意。
──ICUに入っている重症心不全の患者。夜間の血圧モニタリングが必要。
「この患者さんの血圧が安定しているか……念のため今の数値を確認しよう」
一人一人の病状を確認しながら、頭の中で必要な対応を整理していく。
夜勤で何が起こるかわからない以上、急変時に即座に動けるように、患者の情報をすべて把握しておくのは絶対に必要なことだった。
それが終わると、颯太はICU(集中治療室)の患者リストを開いた。
ICUに入っているのは、術後管理中の患者、急性心筋梗塞で入院中の患者、そして母・美千代。
「……母さんのデータも、確認しておこう」
電子カルテをスクロールし、藤井先生が報告してくれた数値に再び目を通す。
〈本日の検査結果〉
BNP値:187pg/mL(基準値:18.4以下)
血圧:安定(収縮期 118mmHg / 拡張期 78mmHg)
心拍数:68bpm(安定)
左心室駆出率(LVEF):50%(正常範囲内だがやや低め)
「やっぱり……BNPが気になるな」
BNPの上昇は心臓への負荷を示す。
術後の患者ではある程度の上昇は想定内だが、この数値がこのまま下がらなければ、心不全の兆候を見逃せない。
──明日、母に話そう。
看護師として長年働いてきた母なら、この数値を見れば自分の状態がすぐに予測できるはずだ。
だが、だからこそ、息子としてではなく、医者としてしっかり説明しなければならない。
「大丈夫、まだ危険な状態ではない」
そう自分に言い聞かせながら、再びカルテをスクロールし、術後の回復状況を詳しくチェックする。
母が納得できるように、しっかり説明し、どう対処していくかを決めなければならない。
──息子であると同時に、医者なのだから。
「……よし」
颯太は一度大きく息を吐き、モニターの画面を閉じた。今は、目の前の夜勤に集中する時間だ。深夜に急変する患者が出るかもしれない。救急搬送が増えるかもしれない。
そのすべてに対応できるように、心を引き締め、颯太はナースステーションを後にした。
これから、長い夜が始まる。
循環器病棟の廊下を、ゆっくりと歩いていた。
夜勤のこの時間帯は、昼間の慌ただしさが嘘のように静まり返り、まるで病院全体が深い眠りについているように感じる。しかし、病棟の片隅では機械の微かな電子音が響き、ナースステーションからは看護師たちの小さな話し声が漏れてくる。
そんな静寂の中、颯太はふと、背後に気配を感じた。
──誰かが、ついてきている。
振り返るべきか、一瞬迷う。だが、すぐにそれが誰のものなのかを察した。今までも幾度となく、この気配を感じてきた。夜の病棟で、患者の様子を見て回る時。ナースステーションでカルテをめくる時。ふとした瞬間に、どこからともなく視線を感じることがあった。
それがただの空気の揺らぎではないと気づいたのは、もうずっと前のことだ。
颯太は、あえて振り返らず、そのまま静かに歩き続けた。
「……お疲れ」
背後から、静かに響く声。その低く落ち着いた声を聞いた瞬間、確信する。立ち止まり、ゆっくりと振り返ると、そこに彼がいた。真田先生。
ナースステーションの灯りが届かない薄暗い廊下の片隅に、彼は静かに立っていた。
──白衣のままの姿。
──表情は穏やかだが、どこか儚い影をまとっている。
──光の加減でその輪郭がぼんやりと滲んで見える。
生きている人間なら、こんな風に夜の病院に溶け込むことはない。
けれど、彼はそういう存在なのだから、仕方がないのだろう。
「お疲れ様です」
颯太は、自然に言葉を返した。まるでいつものように、同僚と挨拶を交わすかのように。
そうして再び歩き出すと、真田先生もゆっくりとその隣を歩き始めた。この距離感も、もう慣れたものだ。彼は颯太以外の誰にも見えない。
だから、はたから見れば、颯太が"誰もいない廊下で独り言を言っている"ように見えるのだろう。
最初のうちは気にしていたが、もう気にすることもなくなった。
──夜勤の巡回中に幽霊と会話をする。
そんなこと、普通ならありえないはずなのに、いつの間にか、それが当たり前の日常になっていた。
しばらく並んで歩いた後、颯太はポケットに手を入れ、医局のバッグの奥にしまってある手帳の存在を思い出した。
「……真田先生、父の手帳を持ってきました」
その言葉を口にした瞬間、隣を歩く真田先生の気配が微かに変わった。
「……一緒に見てもらえませんか?」
言葉を紡ぎながら、自分の中に芽生えていた"迷い"が少しずつ霧散していくのを感じる。
これは、自分だけの問題ではない。
「航太郎先生の……?」
真田先生の歩みが、わずかに遅くなった。いつも穏やかで、どこか達観しているような彼の声に、今はわずかな緊張が混じっていた。
「あの事件の真実が、あの中に書かれているかもしれません」
そう思ったのは、颯太だけではないだろう。
──父が最後に何を考えていたのか。
──本当に医療ミスを犯したのか。
──なぜ、あの患者を救えなかったのか。
そして、
──それが、真田先生の兄の事件でもあるのだから。
知りたいのは、颯太だけではない。
「わかった」
真田先生の声が、静かに夜の廊下に響いた。いつもと変わらぬ冷静な声音。けれど、その言葉の奥には、何か強い決意のようなものが宿っている気がした。
父の手帳。
事件の記録。
真田先生のお兄さんのこと。
そのすべてが絡み合い、今まさに"核心"へと近づこうとしている。緊張感が、体の奥に静かに広がっていく。
──知るべき時が、来たのかもしれない。
颯太は、無言で前を見つめたまま、真田先生と並んで歩き続けた。冷たい病棟の夜の空気が、いつもより少し重く感じられた。
医局の扉を押し開くと、中はひどく静まり返っていた。
ほとんどの医師たちはすでに帰宅し、夜勤組の数名が病棟に散らばっているため、この空間には人の気配がほとんどない。昼間の喧騒とは違い、夜の医局はまるで別の場所のようだった。
蛍光灯の冷たい光が規則正しく並んだデスクを照らし、机の上にはそれぞれの医師が残していった書類やパソコン、そして誰かのコーヒーカップが置かれている。その静寂の中で、颯太はまっすぐ自分のデスクへ向かった。
デスクに着くと、パソコンの画面はスリープモードになっており、そのモニターの端に付箋が貼られているのが目に入る。
「先に食事と休憩入るよ。なにかあったら電話してね」
──木村先生の字だった。
彼は今日の朝から勤務して、明日の朝までの24時間勤務。今日の18時から勤務に入った颯太よりも、すでに長い時間働いているのだから、先に休憩に入るのが決まりだった。
「……ってことは、今頃カップラーメンを食べてるのかな?」
小さく苦笑しながら、颯太はメモを手に取った。
颯太は曖昧に笑いながら、デスクの引き出しの一番下を開ける。
その奥に入れていたバックを取り出し、慎重に中を探る。指先が目的のものに触れた瞬間、自然と手が止まった。
──父の手帳。
冷たくなった表紙の感触を確かめながら、ゆっくりとそれを取り出す。視線を感じ、横を見ると、真田先生がじっと手帳を見つめていた。普段は穏やかで余裕のある彼の表情が、今はどこか硬い。
「……」
何も言わず、ただそのまま静かに見つめている。
それが、彼の"緊張"を物語っていた。無理もない。この手帳には、彼の兄に関する記録が残されているかもしれない。それを知ることが、怖くないはずがない。それは、颯太自身も同じだった。手帳のページを開けば、そこには父が何を思い、何を選択し、どんな決断をしたのかが記されている。怖い。それでも、知るべきなのだ。
「……行きましょうか」
深く息を吸い、真田先生を見て言った。彼も頷き、静かに見つめている。蛍光灯の下、二人はゆっくりと手帳を開いた。