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第3話

翌朝、目を覚ますと、外はまだ薄暗かった。昨夜の疲労が抜けきらないまま、ゆっくりとベッドから体を起こす。窓の外を見つめると、街は静かで、朝の冷たい空気がまだ街を覆っているようだった。

かばんの中には、昨夜閉じたままの手帳がある。その存在が、今もじわじわと心に重くのしかかっていた。


「……考えすぎても仕方ないか」


小さく呟きながら、バッグの中に荷物をつめていく。

今日は夜勤だ。18時に出勤し、翌日の夕方までの勤務。長丁場ではあるが、適度に仮眠時間も確保されているため、思っているほど過酷ではない。それに——父の手帳を持って家にいるより、むしろ仕事に集中していたほうが気が楽な気がした。

何もしない時間ができると、また昨夜のように心がざわつくだろう。それならば、目の前の患者に向き合っているほうが、自分の精神的にもいい。

出勤準備を済ませ、白衣を鞄に詰め込むと、颯太は家を出た。

母の入院のための書類や保険の申請、母の職場に挨拶に行ったりと忙しく過ごし、病院に到着したのは、18時少し前だった。


建物に足を踏み入れた瞬間、外の世界と違う、独特の緊張感が肌に張り付く。

夜勤の始まる時間帯は、ちょうど日勤を終えた医師たちが、最後の書類仕事や引き継ぎに追われている時間帯でもある。

医局の扉を開けると、パソコンのキーボードを叩く音と、低い話し声がそこかしこで聞こえてきた。

長机に向かって書類を整理しているのは循環器の医師たち。カルテを確認しながら、交わされる会話には、患者の状態や治療方針についての真剣な議論が含まれている。


「あぁ、神崎先生、夜勤お疲れさま。今日は救急外来がちょっと立て込んでるけど、大きな手術の予定はないから、落ち着いたら少し休めると思うよ」


パソコンの画面から顔を上げたのは、木村先生だった。目は少し疲れているが、それでも淡々とした口調には余裕がある。


「ありがとうございます。救急外来、そんなに忙しいんですか?」


「うん、今日は搬送がちょっと多かったみたい。まあ、夜勤帯には少し落ち着いてるんじゃないかな。今夜はこのまま落ち着いていたらいいね」


木村先生はそう言って、パソコンをうつ手をとめてため息をついた。


「そうだ、藤井先生がさっきまでいたよ。君に何か話があるって言ってたけど、もう帰っちゃったかな?」


「藤井先生ですか?なんですかね…」


「うん。夜勤前に何か伝えたいことがあるみたいだったけど、僕が話を聞いたときにはもう着替えてたからなぁ……」


そう言いながら、木村先生は腕時計をちらりと確認する。


「まだ更衣室にいるかもしれないよ。会うなら今のうちかもね」


颯太は一瞬迷ったが、すぐに軽く頷いた。


「わかりました、行ってみます」


医局を出ると、廊下にはまだ数名の医療スタッフが行き交っていた。日勤を終えて帰る者、夜勤の準備をしている者、それぞれの時間が交差する。

更衣室に向かう途中、颯太の胸の奥には、まだ手帳の重みが残っていた。

──今は仕事に集中しよう。

そう思いながらも、どこか落ち着かない気持ちが拭えないまま、颯太は更衣室の扉を押し開けた。


更衣室の前に差し掛かったその瞬間、中から扉が開き、ちょうど藤井先生が出てくるところだった。


「っ神崎。ちょうどよかった。探してたんだ」


颯太の目が藤井先生の顔を捉える。彼はすでに私服に着替えており、手には白衣を畳んで持っていた。帰宅する直前だったのだろう。


「すみません。着替える前に医局に行っていました」


「いや、かまわない」


藤井先生はそう言って立ち止まり、颯太の顔をじっと見た。その視線はいつもの穏やかなものとは違い、わずかに緊張をはらんでいるように感じる。


「神崎美千代さんのことで話をしようと思って待ってた」


その言葉に、颯太の背筋が一気に伸びた。

──母のこと?

藤井先生は日勤だったはずだ。つまり、今日、母の病室で何かがあったのだろう。


「母が……何か?」


喉が詰まるような感覚を必死に押し込めながら、藤井先生の言葉を待つ。


「急な話ではないんだが、君の母親の検査結果が今日出た。ちょっと気になるところがあった」


「検査結果……」


昨日までの母の術後経過は順調だったはずだ。リハビリも進み、血圧の管理も安定していると聞いていた。それなのに、「気になるところがあった」とはどういうことだろうか?

心臓がざわつく。


「詳細はまだ木村先生にも話してないが、少し気になる数値が出ていてな」


藤井先生はカバンから一枚の紙を取り出し、軽く折りたたまれたその紙を開いた。そこには母の血液検査と心エコーの結果が記されていた。


「この数値を見てくれ」


藤井先生が指で示したのは、BNP(脳性ナトリウム利尿ペプチド)の値だった。

〈検査結果〉

BNP値:187pg/mL(基準値:18.4以下)

血圧:安定(収縮期 118mmHg / 拡張期 78mmHg)

心拍数:68bpm(安定)


「BNP……」


BNPとは、心不全の指標となる数値だ。心臓に負荷がかかっていると、この数値が上昇する。術後の患者である以上、多少の上昇は想定内だったが、187pg/mLは決して無視できる数値ではない。


「術後の経過は良好だが、少し心臓への負荷が残っている可能性がある。特に左心室の動きが完全に回復していない兆候が見られる」


「心エコーではどうだったんですか?」


「左心室の収縮率(LVEF)は50%だ。正常範囲には入るが、若干低めだな」


LVEF(左心室駆出率)は、心臓が1回の拍動でどれだけの血液を送り出しているかを示す指標だ。一般的に50~70%が正常とされるが、術後の回復段階で50%というのは、慎重に経過を見守るべき状態だった。


「今すぐ大きな問題があるわけじゃない。ただ、経過観察の必要があるレベルではある。特に退院後の管理が重要になるから、神崎にも把握しておいてほしくてな」


「……ありがとうございます」


母の状態は「危険」ではない。しかし、完全に安心できる状態でもない。

心不全の兆候が残るなら、これからの管理次第で悪化する可能性もある。リハビリや食事、生活習慣の改善が求められることになるだろう。

──このまま順調に回復してくれるだろうか。

今まで、母の術後についてあまり深く考えず、「もう大丈夫」と思い込もうとしていた自分に気づく。だが、医者である以上、油断してはいけない。


「まだ母には伝えてないんですか?」


「いや、君の意見を聞いてからにしようと思った。退院の日程もそろそろ決める頃だろう?この結果をどう伝えるか、慎重に考えたくてな」


「……そうですね」


母を心配させたくはない。だが、病状を知らずに無理をしてしまえば、それこそ本末転倒だ。


「僕から話してみます」


そう言うと、藤井先生は安心したように頷いた。


「そうか。神崎が話すのが一番いいだろうな。木村先生にも、明日話しておくよ」


「お願いします」


紙をもう一度見つめる。

BNP 187pg/mL。

小さな数値のように見えて、実際には決して軽く考えられるものではない。


「何かあれば、すぐに連絡してくれ。母親の状態が不安定になるようなら、入院継続の選択肢もあるから」


藤井先生の低く落ち着いた声が、静かに夜勤前の空気に染み込むように響いた。


「はい……ありがとうございます、藤井先生」


颯太は軽く頭を下げ、心の奥にわずかな緊張を抱えたまま返事をした。


「じゃあ、俺は帰る。夜勤、頑張れよ。……さっき木村先生が今夜もカップラーメンだと言っていたからな」


その言葉を聞いた瞬間、颯太は思わず目を見開いた。


「……またですか…」


医療業界では、カップラーメンにはジンクスがある。

夜勤でカップラーメンを食べようとすると、急患が殺到する──いや、むしろ救急車がやまない、というものだ。

例にもれず、ラーメンが大好きな木村先生が夜勤の日は、どういうわけか救急車の搬送件数が急増することが多かった。


「ああ。さっき、俺が『今日は何を食べるんですか?』って聞いたら、『カップラーメンなんだよ~新発売なんだ~』って言ってたからな」


藤井先生は肩をすくめながら言い、どこか呆れたような、それでいてどこか楽しげな表情を浮かべた。木村先生は本当にラーメンが好きなのだ。

そのせいで、先輩医師たちから"ラーメンマンと呼ばれていたこともあった。


夜勤明けの医局で、「昨日はラーメンマンでしたね」と誰かが言えば、たいてい「あー、それは夜勤大変だったな」という流れになるくらい、木村先生とラーメン、そして救急車はセットだった。


颯太も、医局で先輩たちが冗談めかして「今夜はラーメンマンと夜勤か…」と言っていたのを聞いたことがある。最初は意味がわからなかったが、その日の夜勤で救急車のサイレンが途切れることなく鳴り響いたのを体験し、「ああ、そういうことか」と納得したものだった。


「……了解しました」


苦笑しながら、颯太は小さく頷いた。


「日勤、お疲れさまでした」


そう言うと、藤井先生も頷き、片手を軽くあげながら更衣室を出ていった。

扉が閉まる音が静かに響くと、颯太はようやく自分の白衣に袖を通し、ポケットにPHSをしまった。

──さて、今夜はどうなるか。

ただのジンクスだとわかっている。

けれど、木村先生がラーメンを食べる夜勤は、本当に何かが起こるのだ。

そんな考えが頭をよぎりながらも、颯太は夜勤の始まりを迎えるために、静かにナースステーションへと足を向けた。


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