目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第1話

颯太は、母の部屋の前に立ち、静かに息をついた。部屋に入るのは何年ぶりだろうか。母はリビングや台所にいる時間が長かった。あまり部屋にいるところを見たことがない。颯太自身も、あまり母の生活空間に踏み込むことはなかったため、今こうして扉を開けることにさえ、微かなためらいが生まれる。

深呼吸をひとつ。手を伸ばし、扉をゆっくりと引いた。

畳の香りが微かに漂う部屋。

母の部屋は、驚くほど整然としていた。6畳ほどの和室に、余計な物はほとんど置かれていない。畳の上にはマットレスもなく、押し入れにしまわれているであろう布団の代わりに、薄い座布団がひとつ、隅に置かれていた。部屋の中央には、小さな木製の机。艶が消えかけたその表面には、一冊のノートとボールペンが置かれている。おそらく母が日記や家計簿でもつけているのだろう。

視線をさらに部屋の奥へ向けると、小さな本棚が目に入った。シンプルな作りの三段の棚には、料理の本や看護関連の本や雑誌、書籍が並んでいる。どの本も表紙が古く、読み込まれている様子が感じられた。母も看護師として、父が亡くなった後、颯太を育てるために懸命に働いてきたのだ。今の颯太と同じように、働きながら何度も開いてきたことだろう。


本棚の上には、一枚の写真立てが置かれていた。それは、父と母が並んで写った、懐かしい写真。写真に刻まれた思い出が大切に置かれていた。

父は白衣を着ている。母はシンプルなワンピース姿で、少し照れくさそうに微笑んでいた。何かの記念に撮ったものなのだろう。二人の表情は穏やかで、まだ初々しい。

颯太は、そっと写真に手を伸ばし、指で埃を払うように優しく拭った。


「父さん……」


思わず小さく呟いた言葉は、部屋の静けさの中に溶け込んでいった。母は、この写真をずっとここに飾っていたのだろう。父を失っても、大切にしていたのだ。しばらく写真を見つめた後、颯太は視線を押し入れへと向けた。


押し入れの奥に眠っている手帳を探さなければ。膝をつき、扉をそっと開ける。中にはきちんと畳まれた布団や毛布が積まれており、下の段の奥に段ボールが二つ並んでいた。一つは「冬物」と書かれたもの。もう一つは、何も書かれていない無地の箱だった。


「きっとこれだな……」


箱に手を伸ばし、ゆっくりと取り出す。埃は被っていないが、ガムテープで閉じられていて、ガムテープの端が変色している。長い間開けられていなかったのだろう。慎重にガムテープをはがし、箱のフタを開けると、中には父が使っていたであろう黒い手帳やノートが数冊、あとは洋服や聴診器、ペンや「神崎」とかかれたネームなどが入っていた。

その中から、最も古そうな一冊を取り上げた。表紙には、小さく「Kanzaki Koutarou」と父の名前が記されている。


「父さんのだ……」


指先で表紙をなぞりながら、颯太は静かに息を吸い込んだ。

この手帳には、父が最後に何を考え、どんな思いで過ごしていたのかが詰まっているのかもしれない。

彼は、一冊目のページをゆっくりと開いた——。

手帳の表紙をめくると、細かく書かれた黒インクの文字が目に飛び込んできた。父の筆跡は几帳面で、どのページもほとんど揺れのないしっかりとした文字で埋め尽くされている。

ページの端には日付が記されていた。


「3月4日」

──心筋梗塞の患者2名。

60代の男性。入院時に意識レベル低下。急性心筋梗塞STEMI(ST上昇型心筋梗塞)、心不全併発。カテーテル治療でステント留置を実施。血圧不安定のためICUへ。明日も経過観察が必要。


──40代の女性。発症から6時間経過。胸痛を我慢していたため、心筋壊死が進行している。救急搬送時の心電図で異常Q波が確認された。血栓溶解療法を検討したが、経過が長すぎるため適応外。PCI(経皮的冠動脈インターベンション)を実施。


「……すごいな」


颯太は思わず息を飲んだ。

父の記録は詳細で、患者の状態が目に浮かぶようだった。心臓外科医として、どんな状況にも対応しようとする父の姿勢がにじみ出ている。ページをめくっていく。


「3月10日」

──明日はみっちゃんにプロポーズをする。緊張する。


「……え?」


急に医療の話からプライベートな話に切り替わったことに、颯太は一瞬戸惑った。「みっちゃん」というのは母のことだろう。生前、時々父が母のことを「みっちゃん」と呼んでいる場面をみたことがある。続く文章は短かったが、そこには今まで見たことのない、父の"素"の感情が垣間見えていた。


──指輪は用意済み。レストランの予約も完了。

──夜景が綺麗なところで、きちんと伝えよう。

──みっちゃん、僕と結婚してくれるだろうか。


「……父さん、めちゃくちゃ緊張してるじゃん」


颯太は、思わず小さく笑った。

厳格で冷静な医者だった父が、こんなにプロポーズのことで頭を悩ませていたとは。

さらにページをめくると、次の日の記録が続いていた。


「3月11日」

──みっちゃんと記念日をお祝いした。オンコールが入らなくてほっとしている。プロポーズは大成功。

──みっちゃんは涙ぐんでいた。ずっと「嘘でしょ?」って繰り返していたけれど、指輪を見せると本当に泣いてしまった。

──「はい」と言ってくれた瞬間、心臓が止まりそうだった。医師国家試験よりも緊張した。

──絶対に幸せにしたい。これからは、僕が彼女を守る。


読んでいるうちに、颯太の顔がじわじわと熱くなっていく。


「親の恋愛時代は……恥ずかしいな……」


思わず小さくつぶやき、手帳を閉じる。父の手帳にこんな甘い言葉が書かれているとは思わなかった。医師としての細やかな記録と、恋人への思いを綴る文章とのギャップがありすぎる。


「……父さんって、こんなにロマンチストだったのか」


照れくささと、ほんの少しの羨ましさを感じながら、颯太は深く息をついた。

まだまだ、手帳の中には父の言葉が残されている。この先に何が書かれているのか、知るのが少しだけ怖くもあったが……今止まるわけにも行かない。


手に持っていた手帳をそっと段ボールに戻すと、静かな音を立てて箱の中に返る。

父の文字が並ぶページを閉じた瞬間、まるでそこで父の人生のある一章を区切ったような気がした。そこには、医者として生きた記録と、家族を大切に思う言葉があった。しかし、それはまだ、颯太が本当に知りたいことにたどり着いたわけではない。


「こっちかな」


段ボールの中には、色あせた手帳がいくつも重なっている。その中で、ひときわ目立つ一冊が目に留まった。

それは、他の手帳と違い、紙が色あせておらず、表紙の革の手触りもまだ新しい。数ある手帳の中で、一番新しいものだと直感でわかった。


「これは……?」


颯太は、無意識のうちにその手帳に手を伸ばした。指先が表紙に触れた瞬間、背中に冷たいものが走った。

──半分より先がまったく開かれていない。

折り目もついていない。しわもない。まるで、その先のページには何も記されていないようだ。

この違和感は、ただのものではない。颯太の呼吸が、浅くなる。胸の奥に、鈍い痛みがじわりと広がっていく。


「まさか……」


瞬間的に、彼は感づいた。


──この手帳には、例の事件が書かれている。父が医者をやめるきっかけになったあの…


それまで淡々と読んできた父の記録とは違う。

この手帳には、父の人生の転機となった、あの「事件」に関する何かが残されているはずだ。


──16歳の少年の手術。

──医療ミス。

──父の死。

そのすべての真相が、ここにあるのではないか。


「……これに…」


手帳を持つ手が震える。

まるで、この手帳の中身を読んでしまえば、何か決定的なものが崩れ去ってしまうような、そんな気がした。


父のことをもっと知りたいと思っていたのに、今、この手帳を開くことが恐ろしい。

もし、そこに書かれているのが、自分が知りたくなかったことだったら?

もし、父が本当に……過ちを犯していたとしたら?


「……っ」


喉の奥が詰まり、手帳を開く指がわずかに止まる。けれど、逃げるわけにはいかなかった。

ずっと心の中で燻っていた疑問に…。父の死に、向き合う時が来たのかもしれない。

颯太は、震える手をぐっと握りしめると、ゆっくりと、深く息を吸った。


──そして、覚悟を決めるように、手帳の表紙を開いた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?