母・美千代の緊急手術から3週間がたとうとしていた。術後の経過は順調で、大動脈の状態も安定している。早急な外科的な処置が功を奏し、血流の障害や合併症の兆候は見られず、木村先生も「回復は良好」と太鼓判を押してくれていた。
美千代はリハビリにも積極的に取り組んでおり、今では病棟の廊下を杖を使わずに歩けるまでになっていた。看護師や理学療法士の指導の下、バランスを取りながら歩く練習や、階段や坂道を上り下りする練習も始まっている。
「神崎さん、今日は廊下を一周してみましょう。もう少しペースを上げられそうですか?」
理学療法士が隣で声をかけると、美千代は少し息を切らしながらも笑顔を見せた。
「はい、やってみます」
「ゆっくりでいいですよ。焦らずに行きましょう」
理学療法士は美千代のペースに合わせながら、見守っている。美千代は慎重に足を一歩ずつ前に出しながら、廊下を進んでいく。すれ違う患者や看護師が「頑張ってくださいね」と声をかけてくれるたび、美千代の顔には少しずつ自信が宿っていくようだった。
廊下の一周を終えたところで、颯太が笑顔で待っていた。
「母さん、頑張ってるね。この調子なら退院も目標にできそうだ」
その言葉に、美千代は嬉しそうに微笑みながら、少し汗ばんだ額をハンカチで拭いた。
「ありがとう。でも、まだ息が上がっちゃうのよね……体力が戻るには、もう少しかかりそう」
「大丈夫ですよ。焦らず進めていきましょう。この調子なら次の段階として軽いストレッチや筋力トレーニングを取り入れていけます」
理学療法士が優しく励まし、今後のリハビリプランを説明してくれた。
颯太もそれを聞きながら、小さく頷いた。母親の回復が順調であることが何よりも嬉しく、誇らしい。
リハビリを終えて病室に戻ると、美千代はベッドに腰を下ろし、大きく息をついた。
「ふう……リハビリって、思った以上に体力を使うわね。でも、やれることが増えると少し楽しいわ」
「まぁ、焦らずに頑張ろう」
颯太が笑顔で言うと、美千代は頷きながら窓の外を見た。病室の窓からは、柔らかな日差しが差し込み、遠くに青い空が広がっている。
「退院したら、家に戻れるのよね。早く普通の生活に戻りたいな」
美千代がぽつりと呟く。
「そうだね。でもしばらく休職してリハビリを続けなきゃいけないよ」
颯太が優しく答えると、美千代は小さく微笑んだ。
「そうね……でも、颯太がこうしてそばにいてくれると、本当に心強いわ。ありがとう」
「…うん」
そう言いながら、颯太は病棟の椅子に腰を下ろした。微かな疲労が全身を包む中、窓から差し込む柔らかな日差しが心を少しだけ軽くしてくれるように感じた。
ふと、美千代が颯太の手をそっと握った。その手は少し冷たい。記憶にある母の手よりもずっと小さくなった。しかし、懐かしさを感じさせる温かみがある。颯太は顔を上げた。
「颯太……本当に、助けてくれてありがとうね」
美千代が静かに話し始めた。彼女の声には、母としての感謝と愛情が滲んでいた。
「あなたが医者になってくれて、そばにいてくれて、こんなに心強いことはないわ。本当に……ありがとう」
その言葉に、颯太は一瞬言葉を詰まらせた。自分が母の命を繋ぎ止められたという事実が改めて胸に迫り、熱いものが目尻に浮かびそうになる。
「……僕も、母さんを助けることができて、本当に良かったよ」
かすれた声でそう答えながら、颯太は母の手を優しく握り返した。その手は細く、まだ完全に力を取り戻しているわけではなかったが、倒れた時の感触よりもずっといい。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。病室内の静けさに包まれる中、窓の外では鳥の鳴き声が微かに聞こえている。
やがて、美千代がゆっくりと口を開いた。
「颯太……」
その声には、どこか決意のようなものが込められているのを、颯太は感じ取った。
「私がね、いつまでも元気でいられるわけじゃないって、今回のことでよく分かったの」
颯太は驚いたように母を見つめた。美千代はその視線を受け止めながら、穏やかな表情で続けた。
「だから、あなたに話しておきたいことがあるの。お父さんのこと……」
「お父さんのこと……?」
颯太は眉をひそめ、母の言葉を促すように静かに問い返した。
美千代は小さく頷き、遠くを見るような目をしながら、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「そう。颯太にはちゃんと話しておかないといけないと思って……ずっと心の中で、隠してきたことだから」
颯太は母の言葉に耳を傾けながら、胸の奥に小さなざわめきを感じていた。父のことについて母がこんな風に切り出してくるのは初めてだった。
その時、ふわっとした気配とともに真田先生が現れた。柔らかな光に包まれた姿は、静かな病室の雰囲気に自然と溶け込んでいる。彼は何も言わず、美千代を挟んで颯太の反対側の椅子に腰を下ろした。穏やかな表情で、話の続きを促すように母と颯太を交互に見つめている。
「お父さんの……医療事故のこと。颯太はどのくらい知ってる?」
美千代がそう切り出すと、颯太は息をのみ、視線を床に落とした。父の医療事故については、彼自身も避けて通れない思いがあった。
「僕が知ってるのは……」
颯太は少し間を置き、頭の中にある断片的な記憶を整理しながら話し始めた。
「お父さんは、心臓外科医としてすごく優秀だったって……でも、16歳の男の子の手術で失敗して、その後……精神的に追い詰められて……」
声が震え、次の言葉が出なくなる。
「それで、自ら命を……」
颯太は最後の言葉を小さな声で絞り出すと、唇を噛み締めた。目を伏せたまま、静かに拳を握りしめる。これまでずっと心の奥に押し込めてきた痛みが、再び表面に浮かび上がってきた。
美千代は息子のその姿をじっと見つめ、そっと手を伸ばして彼の手を包んだ。
「そうね……颯太が知ってることは、事実よ。でも、あの時のことには、もっといろんな背景があったの。私はそれを、あなたにちゃんと話しておかないといけないと思ったの」
その言葉に、颯太は顔を上げ、母の目を見た。その目には、何かを語る決意のようなものが宿っているのを感じる。
「背景……?」
颯太が問いかけると、美千代は小さく頷いた。その目が一瞬、遠くを見るように揺れた。
「そう。あの時、お父さんが抱えていたもの……その重さは、きっと私たちが思っていた以上のものだった」
真田先生は黙ったまま、美千代の話を静かに聞いている。彼の表情はどこか優しくも厳しく、何かを見守っているように感じられる。
「お父さんは……手術の失敗だけじゃなくて、医師としての責任や周囲のプレッシャー……いろんなものに押し潰されそうになってたのよ」
美千代はゆっくりと話を続ける。その声には、かつての夫への思いと後悔が混じっていた。
「そして……病院の内部での対応も、お父さんにとっては厳しすぎたのかもしれない。あの時、私ももっと寄り添えていれば、違った結果になったのかも……」
颯太は息を呑み、拳を強く握りしめた。母の言葉が、自分の中で見えていなかった父の姿を少しずつ浮き彫りにしていく。
「お父さんが抱えていたもの……それを全部理解するのは難しいけど……僕は、その続きをちゃんと知りたい」
颯太がそう言うと、美千代は静かに頷いた。
「お父さんの手帳や、仕事に持って行ってたノートが、私の部屋の押し入れの奥に段ボールで入れてあるわ。あなたが知りたいことがあるかもしれない。私は……どうしても開けなくて。あれから一度も開いていないの」
美千代の声は微かに震えていた。それは、まだ癒えない心の傷に触れることへのためらいと、息子にすべてを託す覚悟が入り混じったものだった。
颯太は驚きながらも、母の目を見つめた。
「お父さんの手帳やノートが……押し入れに?」
「ええ。あの時のことが全部詰まってるんじゃないかと思うと、怖くてね……でも、あなたはもう大人だし、きっとあの箱を開けて向き合う覚悟ができると思う」
美千代はそう言って、颯太の手を少し強く握った。
「だから……お願い、颯太。もし中にお父さんの本当の気持ちや、何か残したかったことがあるなら、あなたが見つけて。それをちゃんと受け取ってほしいの」
颯太はその言葉に胸が締め付けられるような思いを抱いた。母がその箱を開けられずに何年も過ごしてきたということは、それが彼女にとってどれほど辛い記憶であるかを物語っていた。
「分かったよ、母さん。僕が開けて、全部見るよ。そして、お父さんの気持ちや本当のことをちゃんと知る」
そう答えながら、颯太の声には決意が滲んでいた。
その時、ふと視線を感じて顔を上げると、真田先生がじっとこちらを見ていた。いつもの飄々とした表情ではなく、静かな思慮が感じられる。
「颯太、怖がるなよ。知ることは痛みを伴うこともあるが、それは前に進むために必要なものだ。お前なら乗り越えられる」
颯太は小さく頷いた。そして母の手をもう一度ぎゅっと握りしめ、言葉を絞り出すように言った。
「母さん……ありがとう。俺、お父さんのこと、ちゃんと向き合ってみる」
美千代は安心したように小さく微笑み、手をそっと離した。
「そうしてくれると、私も少し肩の荷が下りるわ……颯太、ありがとう」
部屋に静けさが戻り、颯太はしばらくの間、母の穏やかな表情を見つめていた。