午前中の外来診療は、次々と患者が訪れる忙しい時間の連続だった。診察室に入り、カルテを確認し、患者の訴えを聞きながら診断を進めていく。処方箋を出し、次の患者の名前を呼ぶ――その繰り返しの中で、颯太はいつの間にか集中し、母のことを考える余裕もなくなっていた。
だが、最後の患者が診察室を出て行った瞬間、ふと静寂が戻ると、母親の顔が脳裏に浮かんだ。手術を終えた母がまだ人工呼吸器を付けて眠っている姿、モニターの波形に少しの変動が現れた時の緊張感――それらが一気に胸を締め付けるように押し寄せてきた。
「大丈夫、大丈夫…」
自分に言い聞かせるように呟きながら、カルテを閉じ、白衣のポケットにペンをしまう。診察室を出ると、気持ちはすでにICUへ向かっていた。
廊下を足早に歩きながら、颯太は胸の中の不安を抑えきれずにいた。
「今は安定してると言ってたけど……あれから何か変わっていないだろうか?」
頭の中で繰り返されるのは、まだ解決していない母の状態への心配だった。
「手術は成功した。でも、術後の合併症がゼロというわけじゃない。再解離や臓器不全が起こることだって……」
自分の知識が生む可能性を否定できず、胸が重くなる。母親を救いたいという思いが、医師としての冷静な分析に重なり、不安を増幅させていく。
「母さん…」
その考えが加速するたび、足取りは自然と速くなっていた。廊下を抜け、ICUへ向かうエレベーターに飛び乗ると、数字が変わるたびに苛立つような気持ちが押し寄せる。
「お願いだ、無事でいてくれ……」
小さく呟いたその声は、誰に向けたものなのか自分でも分からなかった。母なのか、神なのか、それとも自分自身への戒めなのか。
ICUの扉が開くと、いつもの静けさがそこに広がっていた。スタッフたちが規則正しく動き回る様子を横目に、颯太は真っ直ぐ母のベッドに向かった。
ICUの自動扉が静かに開くと、室内の穏やかな光が颯太を包み込んだ。母親のベッドが見えると、その横に由芽が座っているのが目に入った。由芽は穏やかな表情で母に語りかけている様子だった。何か会話をしているらしく、由芽の口元が優しく動いている。
颯太は足音をできるだけ静かにして、ベッドに近づいた。そして母親の顔を見た瞬間、胸がじんと熱くなった。母親の目が開いている――少しぼんやりとした瞳だが、確かに意識が戻っていることが分かる。
酸素マスク越しに、母親はふっと息を吸い、颯太に目を向けた。見覚えのあるその瞳が自分を捉えた瞬間、母の口元が微かにほほ笑みの形を作る。涙腺が一気に緩む感覚を、颯太は抑えきれなかった。
「颯太……いや、神崎先生!」
由芽が気づいて声を上げる。その声には嬉しさと安堵が込められていた。
「お母さん、助かって本当によかったですね!一緒にいたからこそ、すぐに助けられて、こんなに早く意識が戻ったんだと思いますよ!」
由芽は軽く冗談めいた口調で言いながらも、心からの喜びを隠しきれない表情だった。
その言葉を聞いた瞬間、颯太の中で何かが決壊した。頬を伝う熱い涙が止めどなく流れ始める。堰を切ったようにこぼれ落ちる涙を隠そうともせず、颯太は母の手をそっと握った。
「よかった……母さん……本当に、よかった……」
震える声で絞り出すように呟くと、母親の目が微かに潤んだ。酸素マスク越しでは何も言えない母が、静かに瞳で語りかけているように見えた。
「母さんを助けられて、本当によかった……でも、僕、ずっと怖くて……」
颯太は母の手を握りしめながら、嗚咽を漏らした。由芽はその様子をじっと見守りながら、そっと隣に立ち背中をさすった。
「颯太……いや、神崎先生。あなたが助けたんだよ。それを忘れないで」
由芽の柔らかい声が、颯太の心を支えるように響いた。
母親の微笑みと由芽の言葉に励まされ、颯太はようやく泣き止み、涙で濡れた顔を袖で拭った。そして母の顔をもう一度じっと見つめる。
「母さん、よかった」
その言葉には、母親への感謝と自分の力で救えたという安堵が混じっていた。
母親の目が再び細くほほ笑むように動いた。酸素マスク越しでは言葉を発することはできないが、その瞳には確かな愛情が宿っていた。
「神崎先生、大丈夫ですか?」
由芽がそっと声をかけると、颯太は微笑みながら頷いた。
「うん……ありがとう、由芽。母さんがこうして意識を取り戻してくれて、本当に……本当に嬉しい」
由芽も笑顔を浮かべ、母の顔を優しく見つめた。ICUの静けさの中で、3人の絆が確かに結びついていることを感じる時間が流れていた。
それから美千代は順調に回復していった。投薬管理やモニターで慎重な観察が続けられたものの、術後の経過は良好で、一週間後にはICUを出て一般病棟に移ることができた。酸素マスクも外れ、最初は少量の流動食から始めた食事も、徐々に普通食に近いものへと移行していった。
リハビリも始まり、ベッドからの立ち上がりや病室内の歩行など、少しずつできることが増えていった。美千代は辛さに顔をしかめながらも、息子のために一歩ずつ進む努力を見せていた。
「母さん、今日は昨日よりも歩けたんだって?」
颯太は母の隣で優しく声をかけながら、手を貸して支えていた。
「ええ。リハビリの先生がイケメンなのよね~。リハビリが楽しくって。あんた、医者で忙しいのに、こんなに付き添ってくれなくてもいいのよ?」
美千代はいたずらそうに薄く笑みを浮かべていた。颯太に心配かけまいという心遣いだろう。颯太はその言葉に小さく苦笑した。
「まあ、それならいいけど。リハビリの沼田先生を困らせないようにね」
母親の隣で支えながらも、颯太の視線にはどこか申し訳なさが混じっている。身内の医者が主治医になることはできない――それは医療のルールだ。しかし、木村先生が主治医として母親を見てくれていることは、颯太にとって大きな安心感でもあった。
「木村先生には、手術からずっと助けられてばかりだな……」
颯太はぼんやりと呟きながら、母がベッドに腰を下ろすのを確認した。
その時、部屋の扉がノックされ、木村先生が顔を出した。いつもの穏やかな表情で、美千代と颯太を見渡す。
「お、神崎君。今日はお母さんのリハビリの手伝いかい?」
「はい、少しだけ手伝ってました。でも、リハビリのプラン通りに進んでるみたいで順調です」
颯太が笑顔で答えると、木村先生は軽く頷いた。
「そうか。確かにお母さん、だいぶ元気そうだね」
木村先生は美千代の顔を見て穏やかに語りかけた。
「少しずつでも動けるようになってきたのは、本当に素晴らしいことですよ。焦らずに、着実に進めていきましょう」
「ありがとうございます、先生。本当に皆さんのおかげです」
美千代は頭を下げ、感謝の言葉を口にした。
木村先生はそれを受けて微笑みながら、颯太の方に目を向けた。
「君も医者として、そして家族として、本当に頑張ったな。お母さんの回復を見るたびに、君の努力が報われていると感じるよ」
その言葉に、颯太は少し照れたように笑いながら頷いた。
「木村先生がいてくださったおかげです。僕はまだまだですけど……これからももっと勉強します」
木村先生は満足そうに頷き、時計をちらりと見て立ち上がった。
「それじゃあ、僕は次の回診に行くから。何かあればすぐに呼んでくれ」
「はい、ありがとうございます」
颯太が深く頭を下げると、木村先生は静かに病室を後にした。
その後も、颯太は忙しい業務の合間を縫って病室を訪れ、母親の回復をそっと支え続けた。母の笑顔が少しずつ増えていくのを見るたびに、医者として、そして息子としての誇りを感じる日々が続いていた。